砂利道を延々と辿っていくと、あちこちに傷の入った門が見えてきた。時間遡行軍の攻撃を受けた本丸だろうか。被害状況をそのままにしているということは、政府の手が入っておらず、放棄された本丸の可能性が高い。
つまり案件からして死亡フラグが濃厚なのだが、鶴丸さんが踵を返そうとする素振りを見せてくれる訳もなく、わたしは嘆きながら引き摺られ続け、本丸の入り口まで辿り着いてしまった。
門扉は風に煽られてぎいぎいと歪な音を立てている。帰りたい。
門の正面でやっと長い足を止めた鶴丸さんが、横目でわたしを見て、何故かウインクを飛ばしてくる。得意なんですね。よく分かりました。殺傷能力が高いので控えてください。
ちなみに倶利伽羅さんがウインクなんぞしようものならわたしは一瞬であの世行きである。耐えることなど不可能だ。砂になる。
「此処から先は喋らんようにな。気を抜いたら仏さんまっしぐらだぜ」
「ワア」
物騒オブ物騒である。ウインクで誤魔化される訳がなかろう。
「君を縄で縛ったのは、無力化した獲物だって見せびらかすためだ。これで妙なちょっかいは避けられる。多分」
先に言っておいてやれば良かったな、とへらりと笑って謝罪の言葉を投げてくる鶴丸さんに、本当ですよ、と目だけで訴えておく。
いや、最後に付け加えられた「多分」に不安が煽られて今すぐ逃げ出したい。
「もうこの本丸は『堕ちている』からな。遡行軍と出会しても悲鳴を上げるなよ」
不穏な単語のオンパレードだが、気を失う訳にもいかない。奥歯を噛み締めて素直に首を縦に振る。
この状況の本丸だと、業務分担で言えばわたしの上司が担当になる訳だが、報告するには口が重い。
なんせ素人の目で見ても、扉の向こうの本丸の空気が濁っているのが分かる。瘴気とでも表現するのだろうか、例えるのに近しいものは煙草の煙だが、肌で何となく「これは良くないものだ」と感じ取れてしまう。
それでも進むしかないので、鶴丸さんの後ろに続いて門を潜る。
枯れた庭木の傍や、砂利の剥がれた地面に、何かきらきらとした金属の破片が落ちている。
その破片に、丁子のような刃文が見える訳がない。わたしの目が狂っているのだ。そういうことにしておきたいのだ。
早速心が死んだので、項垂れて無気力な獲物を本気で演じながら、鶴丸さんに縄を引っ張られながら足を前へ前へと進める。歩幅の差が大きいので、かなりの大股になってしまう。
こんな時、倶利伽羅さんはこちらの歩幅をきちんと把握していて、嫌々ながらに手加減して歩いてくださる。大変尊いことである。社畜が転んでしまうと地面から引き上げるのが面倒だからかもしれないが。
足は母屋へ向かっている。敵地を攻めるにしても堂々としすぎではないか、と危惧した瞬間だった。
「あ、鶴丸国永さん」
ねえ、早速見付かったんですが。
本丸の廊下でふわりと目尻を緩ませた彼───堀川国広は、軽やかな足取りで距離を縮めてくる。身に着けているブレザーはボロボロに破けていて、戦闘の過酷さを物語っている。
堀川国広の表情は、本丸の空気に反して場違いに明るい。ただし、その白い頬に付着している血痕に頓着していない様子が、わたしの胃に痛恨のダメージ。一マス休み。休ませて。頼む。
「流石、平安の太刀は生け捕りが上手ですね! 僕も見習わなくっちゃ」
細い指が、わたしの喉元に伸びてくる。突然のことに身体が上手く動かない。
これは妙なちょっかいに分類されないんですか。どうなんですか鶴丸国永。脳内は饒舌なのに、わたしの肉体といったら素直に怯えて硬直するばかりである。
「おっと、お手付き禁止だぜ」
鶴丸国永がこちらの作業着の背中を引っ掴んで、堀川国広から一定の距離を取ってくれた。ほっと息を吐きそうになるのを我慢して、引き攣った顔のまま堀川国広を見る。
隣の隣の課で一緒に働いている政府職員の堀川国広は、いつも石鹸のにおいがしていたことを思い出す。
だからこそ、強く漂ってくる腐敗臭に気付いてしまった。嫌な想像ばかりが脳裏を過ぎる。
「……えへ、すみません。邪道なもので」
「二度はないぞ」
「はあい」
晩ご飯のおかずをつまみ食いしようとした子を叱るような口振りだが、現実はそう甘くない。刀剣男士からすれば、そこら辺の人間の命を断つことなんて赤子の手を捻るに等しいのだ。
しかし、つまみ食いをするような堀川国広は存在するのだろうか。料理番に当たっていたなら、自分で調理をしている最中であれば有り得るかもしれないが、他人が作ったものに手を伸ばすようなことはしないのではないかと思う。個体差で片付けておいて良いものか。
てへぺろとでも効果音が付きそうな雰囲気を纏ったまま、堀川国広がくるりと踵を返す。
そしてわたしは、今度こそ安堵の溜め息を吐きかけたのに、すぐさま二酸化炭素を吸う羽目になる。
彼の背中には、あるべき皮膚が殆どなかった。
剥き出しの筋繊維は赤黒く爛れていて、平常時と変わらぬ笑顔を携えているのが不思議なほどだ。重度の火傷だろうと目星はつくが、そんな傷を放置したままにする理由は、ない。
当然、刀剣男士にも痛覚はある。痛覚遮断の実験は早々に中止されて、今は違法である。
痛みを堪えているのか、禁術や違法薬物のせいなのか、もう麻痺してしまっているのか。とりあえず、どれでも胸糞悪い事態に変わりはない。
この認めたくない現実に対して、精神とは裏腹に、わたしの身体は情けなくも本能に従って怯えていた。
縛られたまま、震える手で鶴丸さんの着物の袖を鷲掴みにする。縋れる時に縋っておこうという作戦である。
「……」
沈黙を守ったまま、鶴丸さんは薄ら口の端を吊り上げたかと思うと、わたしの頭をうりうりと撫でくりまわして見事な鳥の巣を爆誕させた。首がもげそうだった。
いや、ただ縋らせていただくだけで良いんですが。何故。
「堀川国広、君、手入れはどうした」
遠ざかる堀川国広の足を、鶴丸さんがわざわざ呼び止める。振り返った脇差の、確かに濁ってしまった瞳は目蓋の奥に隠された。
「うーん、主さん、それどころじゃないですから。それにまだ中傷なので」
審神者さんへ。まだ中傷とか言い訳しないで速攻で刀剣男士のお手入れをお願いします。時の政府職員より。
ではまた、と軽くお辞儀をしてから、堀川は足音も立てずに本丸の奥へ姿を消してしまった。闇討ちは、隣に鶴丸さんがいればとりあえずは大丈夫だと思いたい。
溜め息も堪えて、額に滲み出た汗を縛られたままの手の甲で拭うと、丸まった背中に手が当てられた。
「……今みたいに頼むぜ。上手いことやるから安心しな」
現状、この鶴丸国永に頼るしか生き残る術がないのだ。うんうん頷き、縄で雁字搦めの両手を合わせて拝むと、ふふんと得意気に鼻を鳴らす鶴丸さんだった。
そうして背中を押されるままにどんどこ本丸内部を土足で進行する最中、負傷した刀剣男士達と次々に擦れ違う。わたしは抵抗の気力を失った奴隷の振りをしながら、ただ足を前に動かすだけである。
本丸内で目視した刀剣男士は、みな一様に瞳が陰っていて、錆びた鉄のにおいがした。
彼らの怪我の具合はそれぞれ違った。火傷、刺さったままの矢、真っ赤に染まって役割を果たせていない包帯、欠損。戦場に出る故に負傷は避けられない。だが、審神者には治療が可能だ。傷をそのまま放置する道理はない。
早くこの状況を何とかしなければ、と焦る気持ちだけがあって、己の無力さが恨めしい。
例えば、手入れ専門官と呼ばれる技術職に就いていたとしたら、少しでもこの惨状を改善することができただろう。比べてわたしの霊力はお粗末なもので、更に体調不良を抱えていては、微量な霊力もまともに機能しない。歯痒さに眉間に皺が寄った。
───いや、感情的になっても仕方ない。わたしにはわたしの役割がある。
緊張から早鐘を打ち続ける心臓に手を当てて、ただ酸素を吸う。
「へえ」
背後で感心したような声を鶴丸さんが零した。歩きながら少しだけ振り返ると、倶利伽羅さんと同じ色の瞳がこちらを真っ直ぐ見下ろしている。
検分されるのにも慣れたと思ったが、思い込みだったようだ。真顔の刀剣男士に見下ろされるの本当に怖い。危うく漏らすところだった。わたしの膀胱は必死で耐えた。
同僚の真顔は通常運転なのであまり気にすることもないが、表情がころころ変わるタイプの鶴丸さんは温度差で毎度風邪を引く。
「……そろそろ良いか。よし、動くなよ」
鶴丸国永の本体でさくっと縄を切ってもらい、わたしは我慢していた溜め息をやっと零すことができた。不運を嘆いても仕方ないが、辛い現状を少しでも和らげたいと思うのも仕方ないだろう。
「早足で頼むぜ」
コンパスの差は考慮されるのだろうか。反語。
爆速に近い競歩で本丸内を駆け抜けたところ、刀剣男士の遭遇率は驚くべき高さだったが、運良く遡行軍には正面で対峙することはなく、何とか目的地に辿り着いた。
出会って早々斬り捨て御免の展開もなく(未遂はあった)、まだ何とか生きている奇跡に飛んで跳ねて喜びたいところだが、そんな体力は微塵も残っていない。上がった息を宥め、精神的疲労は思考の外に追いやっておく。自覚したら負けである。
母屋の中央、審神者の執務室の隣の障子には、これ見よがしにべたべたと夥しい数の札が貼られている。分かりやすくて有り難い限りである。
どこまで罠かな、と少し思うが、そもそもここは敵陣で、既に我々は腹の中だ。
「準備は良いかい」
意外にもちゃんと確認してくれる鶴丸さんに感謝しながら、ひとつ頷く。鶴丸さんが障子に貼られていた札の一枚をぺろりと指先で剥がすのに倣って、わたしも札を剥がす作業に取り掛かる。
剥がした札は描かれた図柄こそ異なるものの、共通して厄除けの役割を果たすものだった。厄除けも何も、審神者自身が刀剣男士にとっての厄のような存在になってしまってどうする。御札なんか貼っとる場合かい、と毒を吐きそうになったわたしの代わりに、鶴丸さんが障子の木枠に手をかけた。
中に足を踏み入れると、消毒液のようなにおいがする。
視線を足元から徐々に上げていくと、こぽりと、空気が水中から抜ける音がした。
「俺の主が守りたかったモノだ」
よぉく目を凝らして見てくれよ。そう言う鶴丸さんの声には、温度がない。
天井にまで届くような高さのガラス張りの水槽が、部屋の中央にそびえ立っている。ガラスはそれ程厚くないように見える。中は、透明な液体でたっぷりと満たされていた。
その液中に浮かぶ生白い物体、正確に表現するならば「人間の女の裸体」を前に、一瞬、呼吸が止まった。
不思議なほど穏やかに見えるその顔は、まだ成人していないあどけなさを残している。落とされた目蓋から伸びる睫毛の影、色素が抜けてもふっくらとしたままの小さな唇、陶器のように滑らかな肌。
作りたての彫刻のような柔らかさを纏うその肉体は、死んでいるのに生きているような、芸術家の琴線には触れるであろう造形美だった。随分綺麗に保存されているが、これが本丸に存在している理由は想像したくもない。
喋って良いぞ、と鶴丸さんに言われたので、素直に疑問を口にする。
「……守れているんですか。それとも、守れなかったからこうなっているんですか」
「後者だ」
愚問だった。内心舌打ちをする。
主犯と思われるこの本丸の審神者にまだ接触していないのは、不幸中の幸いだった。これで情報収集の時間が稼げる。つまりわたしの生存率が上がる。やったね。
ぬか喜びと知りながら、仕事なので証拠写真の撮影に励むことにする。水槽の正面、横と物体をカメラに収め、カメラロールが不穏な写真で埋まっていることを確認して、水槽の裏側を覗き込む。
水槽の中で動かない女の子の背には、不似合いな傷の縫合の痕が残っていた。
右肩から左の腰へかけての一本傷は、恐らく致命傷だ。鋭利な刃物で斬られたのだろう、ガタツキのない美しい一直線を描いている。
もう嫌だこんな世の中。何でこんな若い女の子が酷い目に遭わないといけないんだ。
さっさと端末のカメラで事務的に撮影を終え、パスワードをかけて本丸支援課の組織メールアドレスと倶利伽羅さん宛てにとりあえず送信する。端末から画像を削除し、改めて目前の、所謂芸術作品とでも言うのか、その物体を見上げる。
豊かな膨らみの谷間に、小さな黒子があった。
最近は谷間に黒子を描くのが流行っているとでも言うのか。いや流石にニッチ過ぎる趣味ではないか。星の形をした黒子だったなら禁則事項の多い未来人でファイナルアンサーだっただろう。まあそれは横に置いておくとして、つい先日、わたしはこの谷間の黒子を見た。
白の水着の際。紙面上のめっちゃ可愛い女の子。───乱さんに見せてもらった、本丸の集合写真。
いや、そんな偶然があるか。割と本格的に吐き気がする。ヒールで畳を踏み締める罪悪感を抱えながら、ぐるりと水槽を一周した矢先、わたしの足は畳に縫い付けられてしまった。
水槽の後ろ、その足元には、折れた刀身が横たわっていた。
「ああ、光坊だな」
かわいそうに、と零された声音の無機質さに、つうと汗が背筋を伝うのが分かる。
ね本丸の一振り目の燭台切光忠だ。恋仲の女の子の背後に、こんな風に捨て置かれている現実に目眩がする。
『もーいーかーい』
突然流れてきた女児の声に、全身の肌が粟立った。
幻聴だ。何せ此処は堕ちた本丸、異界に片足を突っ込むどころではない。怪奇現象なんざ朝飯前である。
かぶりを振って気を紛らわせたその時、ポケットに入れていた端末が震え、再び飛び上がりかけた。心臓を吐き出しそうになるのを我慢しながらそれを取り出すと、同僚からの着信の通知が画面に表示されている。
どうやら向こう───対峙していた二振り目の燭台切光忠の件は片付いたようだ。鶴丸さんに視線を投げると、うんと首をひとつ縦に振ってくださったので、そのまま受話器のアイコンをフリックして耳元に押し当てる。
今の「うん」を都合良く解釈したことにより、何らかフラグが立った気がしないでもないが、多分手遅れである。切り替えていこー。おー。
『喋らなくて良い。そのまま聞け』
少し上がった吐息混じりの倶利伽羅さんの声に、大人しく生唾を飲んで次の言葉を待機する。
一段落してすぐに電話してくださったということか。やっぱりわたしの同僚は仕事が早くて最高だぜ。
『二振り目の光忠及び本丸内の刀剣男士の保護については完了。企画業務課と合流した』
倶利伽羅さんの背後で、加持祈祷を行う石切丸総括の声がぼんやりと聞こえる。薄ら、山姥切さんとヤマダ主査の会話も耳が捉えた。安堵の息を吐く。
『あんたのいる時間軸と位置情報の特定に入る。この通話後、こちらに空メールを送れ』
察するにわたしは今、恥ずかしながら迷子なのである。
『入手した情報については、後程共有する』
パスワードについて言及がないということは、普段倶利伽羅さんとやり取りする際に使用しているものを流用するということだ。無論、普段から定期的にパスワードは変更しているので問題ない。
『死ぬな。以上だ』
彼はただ簡潔に述べ、通話はぷつんと切れた。
推しの良い声を一方的に過剰摂取したことで許容量は既に超えているが、わたしは頬の内側の肉をギリギリと噛み締めて、己を現実に繋ぎ留めた。
歴史上において、わたしはもう死んでいるようなものだ。それでも、精一杯足掻くことにする。死ぬなと言われたので。
端末の画面に急いで指を滑らせ、倶利伽羅さんに空メールを送る。すぐに返信があったので胸を撫で下ろすも、送信時刻と受信時刻の差がとんでもないので白目を剥いた。
この数分のやり取りの間で、三十分も時差が開く訳がなかろうよ。
先程まで小躍りしそうな気分だったのに、一気に暗闇に叩き付けられた社畜を見て、鶴丸さんが微妙な顔をしている。わたしはポーカーフェイスをそろそろ覚えるべきなんだろう。業務に支障を来たしている。
「躁鬱にも限度があるんじゃないか?」
「いえ、わたしは限界を超えますので」
「ちょ、ちゃんと会話してくれ怖いから!」
体内時計はもう役割を果たしていない。腕時計もただのお飾りだ。わたしは悲しくて笑うしかなかった。怯える鶴丸国永が、私の肩を掴んでガタガタと揺らしてくる。
こんなところでは死にたくないなあ。