部屋の四隅に貼った音声遮断の札を回収し、廊下に出る。今度は片手のみを縄で縛られ、鶴丸さんに連行されながら本丸を練り歩く作戦だ。わたしは脱獄王を名乗ることはできないので、ただ引き摺られるのみである。

「鶴丸国永」

 透き通るような声だ。振り返ると、廊下の奥の部屋から骨喰藤四郎が出てくるところだった。粟田口の軍服の片袖が風に煽られ、ひらひらとはためいている。
 左の袖の中身が、ない。
 長い睫毛が瞬きのたびに風を起こしそうだ。骨喰藤四郎はじっとこちらの顔を見つめてくる。大きな瞳だが、美しいはずのそれは濁って見えた。

「自由にさせて良いのか?」

 わたしのことだろう。鶴丸さんはどうでも良さそうに欠伸を零しながら返答を開始した。相変わらず演技のお上手なことである。

「問題ないぜ。祝詞を唱えさせるのに両腕を縛ったままではなあ」
「そうか。主殿が呼んでいる」
「分かった」

 ひらりと手を振り、鶴丸さんは足を進める。骨喰の視線はわたしから外れることはなく、ただ刺すほどの攻撃性も感じられない。部屋の前から動く様子もなかった。
 まあ手を縛られていなくとも非力な政府職員など敵ではないということだ。殺気を出すのも馬鹿馬鹿しいだろうということで、このまま穏便に進めさせていただきたいところである。
 というか鶴丸さん、わたし祝詞なんて上手に唱えられないんですが。石切丸総括の下で修行しろと。

「───祝福してクれ」

 不意に届いたその声音は、歪に割れていた。
 振り返ると、穏やかに口許を緩めた骨喰藤四郎が未だこちらを見据えている。

「もウじキ、主の願イガ叶ウ」

 こちらの耳に異常がある訳では、ない。
 鶴丸さんの手にくいと縄を引っ張られ、わたしは自分が立ち止まっていたことを自覚する。促されるままによたよたと歩くのを再開したが、骨喰藤四郎は追ってはこなかった。
 そうして見事な茶番を繰り返しながら本丸内を探索したものの、不思議とこの猿芝居は指摘されることなく、かなりの部屋を訪問しては去ることとなった。
 審神者は一体、何処に身を潜めているのだろう。

「うーん、君の好きそうな呪物が見付からんな」
「そんなもの好む訳ないでしょう」
「いや、人間は未知の可能性を秘めた不思議な生き物だ、有り得ん話ではないと思うが?」
「そういう類は中学生の頃合いに罹患して適切に処理を施すものですよ」
「へえ、昨今はそういう事情なのかあ」

 爆裂にどうでも良さそうな返事をされ、わたしは口を引き結んだ。伊達家にいたことのある刀は面倒な時に大体そんな感じのあしらい方をする。事例集で読んだ。

「まどろっこしいんで審神者さんの部屋に突撃しましょうよ」
「君、自暴自棄になるには早いぞ」
「じゃあ今すぐ此処に倶利伽羅さんを召喚してくださいよ!」
「お、本音が出たな」

 地団駄を踏んで抗議すると、鶴丸さんがにやりと口の端を吊り上げた。自暴自棄にでもならんとやってられんのである。

「こちとらギリギリの精神力で踏ん張っているんですよ……褒美をください……」
「らしいぞ、伽羅坊」

 鶴丸さんが不意に、首を後ろに向ける。
 そこには、白のシャツを真っ赤に染めて腹を手で押さえている大倶利伽羅の姿があった。
 同僚ではない。ね本丸の彼でもない。この本丸の大倶利伽羅だ。
 丁度、此処は彼の私室の前だったらしい。汗でぺたりと額に張り付いてしまっている前髪を気にする余裕もないのだろう。眉間に深い皺を刻んで時折腹に視線を落としているのは、血が未だ止まっていないからか。
 わたしのギリギリの精神は一瞬で弾け飛んだ。

「いやもう何? この本丸の審神者さんは何処ですか? 早く手入れをしてください可及的速やかに。わたしは怒っています」
「君は本当に情緒が安定しないな」
「推しには健やかに生きていてほしいんですよ! 全人類の願いですよ!」
「これはまた主語がでかい」

 うるせえ。今この瞬間だけはわたしが法律だ。
 縄で縛られた片腕は鶴丸さんに捕らえられたままだが、事情聴取には特段支障がない。作業着の胸ポケットに入れていた丸型の平たい缶を片手で取り出す。止血用の軟膏である。

「構わん、気休め、にも、ならんのでね……内臓を、一部、奪われ、ている」

 苦しげに喘鳴する大倶利伽羅は、見ているこちらも大変に辛い。己に審神者の能力がない事実と胸糞悪い現実に苛立ちが募る。わたしはあまりにも役立たずだ。
 冷静にならねば必要な情報を見落とすばかりである。多少の愛想笑いを振り撒く余裕は残しておかなければと自分に言い聞かせ、深く酸素を吸う。
 そもそも堕ちているって、本丸が? 審神者が? 刀剣男士が?
 あらゆる前提条件は疑うためにある。何処かの偉人が既に言及している。多分。

「水槽の、部屋は、見たか」

 視線を落としたままの大倶利伽羅に問われ、ひとつ頷く。

「なら、もう一度……戻ってよく、見てみろ」

 それだけ述べると、彼は下肢を引き摺るようにして部屋に入ってしまう。刀剣男士と言えども、手入れも受けられない状況で無闇に動き回るのは得策ではない。賢明な判断だ。

「鶴丸さん」
「はいはい」

 縄でぐるりと巻かれた片腕を差し出し、鶴丸さんに解いてもらう。形ばかりの縄は此処でお役御免である。
 わたしは廊下の床板をヒールで蹴り付けて走り出した。踏み抜こうが知ったことではない。配慮する期間は過ぎた。これは八つ当たりと報復を兼ねている。
 審神者よ覚悟しろ。速攻で手入れさせてやるからな。
 鶴丸さんは隣で腹を抱えて笑っている。こちらの縄も手放してヒィヒィ鳴く割に、足が爆裂に長いのでわたしの全速力に余裕で並走してくる。笑うか走るかどっちかにしてください。

「君! これが! キレる中年の見出しになったろかいという奴か!」
「うーんそうさご名答!」

 臓腑を食い破る謬錯である。二マス戻る。



 七センチヒールのパンプスで走り回るのは、自分の筋肉に余っ程自信のある姉御だけに許された所業である。
 考えなくても分かる。当然である。ましてや運動不足の社畜が試みればどうなるか。
 水槽の立ち並ぶ部屋の障子を勢い良く開け放ったまでは順調だった。畳の上に一歩踏み出した途端、勢い余ってヒールのゴムが、畳の上をつるりと滑る。後ろ足は廊下に残ったまま。

「アアアアア」

 摩擦係数が仕事を放棄し、わたしは小汚い悲鳴を上げながら見事な前後開脚を披露し、そのまま無様に倒れた。何せこのわたし、驚くほど身体が硬いのである。

「アアアアア」

 可愛い悲鳴の上げ方、検索。
 股が裂けた。気がする。泣いている。めちゃくちゃに泣いている。痛みと己の間抜けさによる羞恥のせいである。めちゃくちゃに痛い。裂けたよやっぱり。

「アッハッハッハ! いやー君! 冗談にも程があるってもんだろう!」
「どないやねんおもろない脳内も韻も固すぎィ……」
「固いのは君の股関節だろオ! ヒィー!」

 股間を押さえて畳を転がり悶絶する二十代女性の絵面がキツくて草を生やすしかない。
 しかしわたしも良い大人である。ぐずぐず鼻を啜りながらも何とか立ち上がろうとして、すぐに芋虫に戻った。無理。社畜が痛みに耐えかねて無惨に畳を這う様子がまたツボに入ったのか、鶴丸さんは隣でゴロンゴロン転がり大爆笑、この部屋にはツッコミがいない。阿鼻叫喚。
 虚しさのあまりにすんと鼻を啜ったその時、作業着のポケットの中を泳いでいた端末が突如震えた。振動の長さから、着信のそれである。

「……はい」

 痛みでぼやけた頭が、画面に現れた文字をきちんと読み取るという基本的な動作を忘れ、わたしは情けなく転がったまま、鼻声で通話に出てしまった。間抜けの極みである。

『おい、何があった!』

 鼓膜を刺激したのは、倶利伽羅さんの声である。同僚を動揺させてしまい罪悪感で胃が縮む。しかもこちらの負傷の理由が語る必要もないほどにしょーもないものなので、余計に内臓が絞られてしまう。

「いえ……大したことでは」
「おや、伽羅坊かい?」

 当然のように割り込んでくるところは、彼が鶴丸国永という刀剣男士である故に、仕方ないのである。まだ顔が笑っていて悪意すら感じる。わたしは垂れ流しになった鼻水を啜って、わざわざこちらの顔を覗き込んでくる鶴丸さんを手で払う。

「ほんと気にしなくて良いです……時間の乖離と位置情報の特定は如何ですか」
『おい……』

 同僚が実際にこの場にいたら、ゆさゆさと遠慮なく肩を揺らされていたことだろう。声に篭ったこちらを気遣う温度にまたしても泣きそうになりながら、わたしは再びすんと鼻を鳴らして必死に堪える。

「こら、無茶するなと言っているだろう、大人しく俺に縋って良いんだぜ」

 先程のにやにや顔が幻だったかのように、重苦しい語り口調になった鶴丸さんである。温度差で風邪を引くので程々にしていただきたい。その芝居は一体何なんですか。
 まあ良い。実況中継がてら、通話はこのままにしておこう。不要な情報も垂れ流しになるが、かと言って推しとの通話に夢中になれるような状況でもない。悲しい。

「とりあえずこちらは繋いだままにしておきますので、適当に切断していただければ」
『……分かった。少し報告して良いか』
「お願いします」

 鶴丸さんが畳に転がったまま、股間を押さえたまま上半身だけ真面目に業務モードに移行したわたしを興味深そうに観察している。視線が痛い。股関節はもっと痛い。

『最初に備品確認をした「め本丸」の前任者だが、「ね本丸」及び「ち本丸」と同じ研究室に所属していたことが判明した』
「では、事情聴取の依頼を出せば……」
『確認したところ、「め本丸」の前任者は半年前に死亡している。研究室には他に二名の研究員がいたようだが、どちらも意識不明で入院中だ。研究室の生存者は現時点で「ち本丸」の審神者だけだ』

 やっぱりそういう展開ですよね。忌々しそうな色が混じった倶利伽羅さんの声に、ずんと背中に重石が乗った。

『……情報収集はヤマダ主査に一任している。進展があれば報告する。兎に角、あんたは引き際を見誤るな』

 ふ、と同僚の息が柔く零れる。急に優しくなると心臓に悪いので事前に予告してください。
 まだ股関節はじんじん痛むが、本当に裂けているということはないだろうと思いたい。畳に伏せたまま、浅く呼吸をして痛みを逃がしながら、改めて部屋の中を観察する。

「ん?」

 三つ並んだ水槽のうち、真ん中の器の下に、何か白い紙が挟まっている。
 やっぱりまだ痛いのでずりずりと匍匐前進すると、鶴丸さんはもう笑い声を上げるのも辛いのか、ひーひーと苦しげに息を震わせている。もう心ゆくまで笑うが良い。端末の向こうの倶利伽羅さんが戸惑っている雰囲気を肌で感じる。すみません。
 指先で紙を引っ張ると、水槽の重みとは反して容易く引き抜くことができた。下が畳だから摩擦が少なかったのだろう。さっきもスケートリンクのように滑ったことだし。

「紙?」

 どうやら笑い転げるのは満足したらしい鶴丸さんが、わたしを真似て這いつくばったまま近寄ってくる。喧嘩を売るのが飛び切り上手な個体であることが分かった。
 どれだけ慈悲深いのか、倶利伽羅さんはまだ通話を切っていないようだ。彼の背後で山姥切さんと今剣さんの会話がぽつぽつと飛び交っている。

「……開きますね」

 鶴丸さんが不必要にわたしの頭上を覗き込んでくる。手元が暗くなるのでやんわり追い払い、四つ折りにされていたそれを広げる。
 整ったアルファベットが並んでいる。

「Underground」

 無駄に良い発音で鶴丸さんがドヤ顔をして見せる。彼の主は研究者だから、英語での論文執筆に付き合うこともあったのかもしれない。いや、それにしたって見事な発音だ。ドヤ顔は腹立たしいが。

「この本丸、地下があるんですか」
「あるぜ。君も予想はしてたんじゃないかい」
「妙に買い被るのはやめてください」
「そう遠慮するな」

 しょうもない応酬を重ねながら、紙の端に、ほんの僅かなインクの滲みを見付ける。視力が悪かったら見落とすところだった。
 八二七四一六九五。
 かなりの小ささではあるが確かに数字が並んでいた。耳と肩で端末を挟み、手元の紙ファイルの裏側に手早くメモする。紙はとりあえず畳んでポケットに入れた。
 何かよく分からないが、今後の助けになる可能性のある情報は、こうして書き写しておく方が良いのだ。暗記できるならそれが一番だが、わたしは自分の脳を全く信用していない。合間を見て倶利伽羅さんにメールを送っておこう。保険は多い方が良い。

『……そろそろ切る』

 耳元で同僚の声がする。寧ろまだ通話が途切れていない奇跡を喜んでおこう。

『通話が途切れる毎に、こちらとの時間は三十分程度乖離している。協力要請はうちの課長補佐が他課に通した。座標はまだ特定できていないが、必ず向かう』

 聞きましたか。「必ず向かう」ですよ。あの不器用な心優しき青年が代名詞の倶利伽羅さんが。信じて業務に励む以外の選択肢は滅却されましたね。頑張りましょうね。
 さて、この本丸の座標の隠蔽は、随分と念入りなようだ。うちの課だけで見付けられないのなら、特殊な隠蔽技術が用いられていることになる。少なくとも「普通の」審神者には不可能である。歴史修正主義者が協力者にいる可能性が濃厚になった。
 端末の向こうがしんとした静寂に包まれた。わたしは未だに痛む股関節を騙しながら子羊のようにゆっくりと立ち上がり、背後の鶴丸さんを見上げる。
 金の瞳が弧を描く。

「地下、案内してください」
「お安い御用だ」

 胸を張った鶴丸さんが、縄ではなくわたしの手を掴み、ずんずんと廊下を進んでいく。迷子センターに連行される子どもの気分を味わいながら、負傷した刀剣男士達といたずらに擦れ違う。
 本当に直接攻撃されないので、素直に驚く。
 この本丸に最初に足を踏み入れた時よりも、空気が悪くなっているのが分かる。僅かに息苦しく、薄ぼんやりとした灰色の靄が所々に浮遊していた。
 本丸の奥に配置されていた執務室に入る。本棚には乱雑に書類が突っ込まれていて、部屋は散らかっている。畳の上に歴史保安庁からの通知文やら何やらが散乱していて、どうやらこの本丸の審神者は整理整頓が苦手なようだ。気持ちは分かる。

「地下はこの部屋からしか行けない。審神者の研究室だ。まあ、本人は不在だろうがな」
「所在の目星は付いているんですか」
「さてな。そもそも、都合の悪いことはなあんにも」

 彼はべ、と舌を出して見せた。赤いそれには、口封じの術式が描かれていた。言論の自由は奪われているという訳だ。胸糞悪いことである。

「ま、こうして手足が動くということは、君は招かれている訳だ」

 つまり罠である。ですよね。知ってました。伽羅えもーん助けてー。
 虚しくなってきたので三秒で眠れる男児ごっこは中止して、首から掛けた倶利伽羅さんのペンダントを服越しに掴む。縋るものがこれしかない。脳裏に浮かぶ同僚の溜め息だけではそろそろ限界が近い。

「ちょっと離れてな」

 よっこいせ、と顔に似合わぬ声を上げながら鶴丸さんが文机を動かし、その下の畳を引き剥がす。埃が舞わないので、この畳は頻繁に剥がされていたようだ。
 出てきたのは、人ひとり分が通れる地下への階段である。当然真っ暗で、中の様子は伺い知れない。
 地下から強襲されたらそれでお終いな訳だが、かと言って鶴丸さんを先行させてわたしが背後から斬り捨て御免でお陀仏する未来も嫌だ。ないものねだりは得意である。

「あ、鶴丸さん、部屋の一番右端の畳もお願いできますか」

 首を傾げたものの、鶴丸さんはこちらの願望どおりにもう一枚畳を剥がしてくれた。いそいそと近付く。
 あった。モデムだ。鷲掴んで引っ繰り返す。裏側に書いてある小さな番号を確認し、急ぎ端末で写真を撮って倶利伽羅さんに送信した。紙ファイルの裏側にメモするのも忘れない。
 ち三二七一五五六四。ね本丸の最後の演練相手に間違いない。
 モデムにまで本丸の識別番号が記載されていると知っているのは政府職員だけだ。敵陣に裏切った政府職員がいないことを祈る。

「終わったかい? 先に行くぜ」

 選択肢が強制的に与えられた。鶴丸さんはこちらの手をしっかり掴み、そのまま地下への階段をずんずんと進んでしまうので、わたしは足を踏み外さないよう必死に彼の後ろを追う。
 光源がない中、鶴丸さんの足取りは緩まることも早まることもなかったので、一定のリズムを刻みながら階段を踏み締めることができた。妙なところで気遣ってくれるひとである。
 少しずつ目が慣れてきて、鶴丸さんの白い輪郭が像を結んでいく。全身真っ白なひとでも見えてくるまでかなり時間がかかったので、倶利伽羅さんだったら殆ど見えていなかっただろう。こればかりは鶴丸さんに感謝だ。

「鶴丸さんはこんな暗いところでも見えているんですか」
「短刀程じゃないが、君よりは見えているさ」

 残り十段だ、と軽やかな声がわたしを励ましてくれる。伸びた襟足が階段ごとにふわりと揺れて、薄く花のにおいと、血のにおいが鼻腔を突く。

『もーいーかーい』

 励ましの矢先、童子の声が耳元で響く。叫び出さなかったわたしは褒められて然るべきだ。
 ええい幻聴だ。聞こえていても聞こえていない。負ける訳にはいかんのだ。上げて落とされるのには慣れている。精神的ダメージは蓄積し続けるが。

「鶴丸さん」

 気分を紛らわせる手法など幾らでも転がっている。握ってくださっている手に力を込めて呼びかければ、彼は足を止めてこちらを振り返ってくれた。
 暗闇の中、こがね色は不思議とよく見えた。単純に顔が近付いていた。毎度あざとい動作である。

「怖いかい?」
「分かりきったことを聞くなんて意地が悪いですね」
「何を言う、老婆心だ」
「親切心で留めておいてください」

 むう、と鶴丸さんが頬を膨らませた。その茶目っ気も心遣いのひとつなのだろう。鶴丸国永という刀剣男士は、わざとらしさで本心を隠すのが上手い傾向にある。

「さ、残り三段」

 誘導されるままに三段進み、地下の地面に降り立った。就活の面接の時のように緊張でどくどくと脈打つ心臓が口から飛び出そうだ。汗でべとべとに成り果てた手のひらで、鶴丸さんの薄くて硬い手を握り締める。

『もーいーかーい』

 全く良くない。御遠慮いただきたい。今のタイミングで再度声掛けする必要性は皆無だったはずだ。突然の子どもの声は本当に心臓に悪い。

「……耳を塞いでやろうか?」

 またしても老婆心を発揮して、鶴丸さんが笑いを噛み殺しながら言う。どんな手段に出られるか想像もできないので「自分で塞ぎますのでお気遣いなく……」わたしは力なく拒否した。
 そもそも、この声は鶴丸さんにも聞こえているのか。

「俺は半分『あちら側』に堕ちているからだろうな」

 またしても聞きたくなかった事実を告げられて胃が痛む。今回の案件は遂行しなければならない事項が多過ぎる。タスクを細分化する時間を与えてほしい。
 鶴丸さんは優しいので、社畜の湿り切った手を振り払うことなく、壁伝いに部屋を進んでいく。わたしの目も漸く暗がりに慣れて、部屋の中の物体の輪郭を捉え始めた。しかし依然真っ暗なので、これではまともな捜査は不可能だ。懐中電灯を常備しろとでも。

「電気は……」
「何だ、覚悟は良いのかい?」

 何故部屋の灯りで脅されなきゃならんのですか? 心配そうな声で尋ねないでほしい。覚悟なんざ職場のデスクに置いてきた。

「そりゃ君、この本丸の連中を見ただろう?」

 絶望に絶望を塗り重ねた回答に、もう早く意識を手放して楽になりたいともう一人の自分が全力で駄々を捏ね始める。
 欠損の目立った刀剣男士から導き出される答えなど限られている。胸糞悪い事態しか思い描けない。それでも目の前の仕事を優先しなければならない旨を伝えれば、彼は可哀想になあとぼやきながら、電気のスイッチの捜索に出た。

「眩しくなるぜ」

 ぱち、とスイッチの入る音がして、視界が急に光に包まれる。目を瞬かせ、明るさに慣れるのを待つ。
 光を許容した目にまず飛び込んできたのは、分厚い専門書の山である。次いで書類が雪崩を引き起こしそうなスチール製のデスクと、付箋が大量に貼り付けられたデスクトップ型のパソコン、カップラーメンの亡骸が複数、茶渋の付着したマグカップ、投げ出されたボールペン。
 デスクの前に置かれた草臥れたオフィスチェアは、無人だ。

「───お待ちしておりました」

 デスクの横、革張りの椅子にお行儀良く腰掛けた、空色の髪の軍服姿の青年の姿があった。

十二進法の遠景|20

201101
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