「ご足労いただき感謝します、職員殿」
愛想良く口許を緩めてみせた粟田口の長兄だったが、状況が状況なだけにわたしは素直に返事もできない。全く気配を感じなかったのも理由のひとつだが。
何故、一期一振なのか。審神者の狙いが読めない。こちらをさくっと亡き者にするなら、適任は短刀だろう。こんな狭い室内にわざわざ太刀を配置する理由は何だ。
バタン、と天井が大きな音を立てる。もしかしなくとも、地下室への入り口が閉じられたのだろう。密室殺人には最適である。鉛色の息を吐いて、部屋の中を見回す。
書棚で埋まった壁と、デスクで塞がれた壁と、べたべたと写真や書類を貼りまくった壁と、一番奥には扉が設置された壁がある。その扉の向こうに出た時、名状しがたい何かと出会すか、それとも無事に生きて帰れるのか。考えるだけ無駄である。
「散らかっておりますが、そちらのテーブル席にどうぞ」
カフェの店員さんのような口振りだ。鶴丸さんは何も言わず、憂鬱で頭を垂れるわたしの手を引いて部屋の壁伝いに設置されたテーブル席に着いてしまったので、わたしも自然と倣うしかなかった。
壁に無地のマスキングテープで貼られた書類が気になるが、ひとまずトートバッグの持ち手は肩に引っ掛けたまま、折りたたみ式のパイプ椅子に腰を下ろす。いつでも逃げ出したい気持ちの表れである。
「足の腱を負傷しておりまして、失礼ですが着座にて説明させていただきます。私はこの本丸で主の研究の補佐をしておりました、一期一振です。いま主は不在ですが、職員殿が訪ねてくださった際の対応は一任されております」
一期一振はにこやかに穏やかに、幼い見目の短刀の弟達を寝かし付ける時のような声音で語り始めた。物騒な文言が初っ端から登場したために、咄嗟の判断が遅れる。
この場でどれだけ正しい情報を掴めるかは甚だ疑問だが、まずはこちらも正攻法で業務に取り組むことにする。
「歴史保安庁大和国本丸支援課のサイトーと申します」
定型文を述べて頭を下げ、本題を提示する。
「この本丸の審神者さんの行方を教えていただきたいのですが」
「説明すると言った手前、非常に申し訳ありませんが、それはお答えできません」
想定内の返答だ。わたしはなるべく声の温度を平坦に保つよう努め、口を開いた。
「拒否権はありません」
「そこの鶴丸殿と同じ理由ですよ」
べ、と出された一期一振の赤い舌には、口封じの術式である黒い文字が刻まれていた。
デスヨネ。分かってはいたが聞かない訳にもいかんのだ。こちらの物言いを断ち切るようにぴしゃんと言い切るのではなく、一期一振が本当に申し訳なさそうな表情をしていたので、諦めて次の質問を投げることにする。
腹を括った一期一振を説得できるのは、刀剣男士では多分、鳴狐ぐらいだ。今回の援軍には望めないので、わたしのコマンドは「諦める」しか表示されていなかった。言い訳は以上である。
「……本丸にあった水槽と、その中身についてご教示いただけますか」
「ええ、それは勿論です。とは言っても、恐らく見当が付いていらっしゃるのでは」
穏やかな口調だが、こちらを試すような物言いを額面どおりに受け取るのは危険だ。毅然とした態度を作って対応しなければならないと肌で感じ、ひとつ咳払いをした。
「説明していただくことに意味がありますので」
「分かりました。では、こちらの資料をご覧下さい」
一期一振が、審神者のデスクの上に置いてあった八センチのドッチファイルを差し出してくる。ずしりと重いそれを、わたしの代わりに鶴丸さんが受け取ってテーブルの上に広げてくださったので、有り難くそのまま中身を確認する。
部屋の散らかり具合とは打って変わって、ファイルの中はインデックスのタックシールが美しく貼られている。学会での発表用らしきスライドシートを印刷したものや、学術誌用の論文、そしてバックデータが理路整然と綴じられている。
「……君、分かるかい」
ひそりと声を零した鶴丸さんだったが、研究室内が静かなので一期一振にもはっきり聞こえていることだろう。部屋の中に盗聴器が仕掛けられている可能性も考慮して、わたしは口を開いた。
「さっぱりです。数式が並んでいるなあと」
「おいおい」
本気で呆れた顔を向けてくる鶴丸さんだったが、わたしはただのしがない政府職員である。こんな専門的な学術書レベルの数式をすらすら解読できるなら、今頃研究者に転職しているところだ。
「コールドスリープの研究をされているとお聞きしておりましたが……」
「そうです。我々はハイバネーションと呼んでおりますが、これは生物の身体を限りなく仮死状態に近付けるものです」
一期一振の睫毛、長いナアと思いながら、メモを取る許可を取った。映像化したキーボードをテーブルに展開し、話の続きに耳を傾ける。
「冬眠期間を伸ばす研究は、海の向こうの国でも盛んに行われておりますが、今のところ、主の所属する研究室が最長記録を保持しております。また、目覚めた時にきちんと身体が動くようにするためには水中での冬眠が最も効率が良いということも、主が解明しました」
書棚をよくよく見やると、その奥、壁沿いに小型の水槽がずらりと並んでいる。
ガラス製の四角い器の中には、白い小動物のようなものが浮かんでいた。あんまり直視しない方が良いと本能が告げているので「水槽の中は特殊な液体なんですか」と小学生のような質問をぶつけてみる。
「鶴丸殿の主が調合に成功したものです。脱色は避けられませんが、防腐効果はそのままに、蛋白質の凝固を可能な限り抑えることが可能です」
「ホルマリンと違って、中身が硬くならないということですか」
一期一振は首を縦に振った。
「しかし、ずっと水中だと身体がふやけるのでは?」
「浸透圧を調整しておりますので、問題ありません」
「仮死状態と言えど、脳に酸素が行かない状況でも大丈夫なんですか」
「はい。血液中に体温を下げる薬品や強い鎮痛剤を流し込み、心臓の動きを一時的に止めておりますので」
わたしの阿呆のような質問にも、一期一振は丁寧に答えてくれるので、大変有り難いことである。しかし聞いているだけで頭がぐるぐる回りそうだ。世の中の研究者というのはすごいなあ、と思うばかりである。
「一期一振さんは、出陣の合間に実験の補佐をされていたんですか?」
「正直に申し上げますと、実験の合間に出陣しておりました。なので、練度はそちらの鶴丸殿の足元にも及びません」
少し恥ずかしそうに肩を竦めた一期一振さんだった。彼は鶴丸さんとは違って、無自覚に周囲に死人を作るタイプだ。お兄ちゃんムーブから急にあどけなくなる表情によって息絶えた審神者の数など星と比べられる。
ちなみに鶴丸さんは全てを狙って振る舞っていると分かってもなお、特大のダメージを与えてくるので大変危険である。個体差が激しいので、事例集は分厚くて仕方ない。
まあ倶利伽羅さんに至っては半分は作戦で半分は無意識なので、わたしは毎度瀕死になっているのだが。
「鶴丸さんも実験の補佐は頻繁にされていたんです?」
「いや、俺の主が本丸でやっていたのは成分分析ぐらいだからなあ。でかい機械は現世のらぼにしか置けんと言って、あまり派手な実験はしてくれなかったしな。俺は主の手元の反応を見て楽しんでいた程度だ」
「まあ、普通の本丸の設備ではそうでしょうな。この地下室は、現世の一室と繋がっておりますので」
「君の主は、現世から本丸に通っていたクチか」
「ええ。初期刀の加州殿が本丸の指揮を取っておられたので、問題はありませんでした」
さらっと「現世の一室と繋がっている」なんて供述があった訳だが、適法なのか? 怖くて突っ込みたくないが、メモにはきちんと残しておく。何処かの所管課の仕事が確実に増えてしまうが仕方ない。
業務量の増加に怯える社畜の心を宥めるように、一期一振さんは言葉を積み重ねていく。逆に、わたしの隣の鶴丸さんは椅子の背もたれに体重を預け、大袈裟な退屈ですアピールに励んでいる。おじいちゃん、すぐに結論に辿り着かないのは業務上仕方ないことです。頑張って耐えてください。
「そちらのファイルのインデックス、一から三までは実証済みです。ハイバネーションの対象は、現時点で大型犬までは何の問題もなく実行可能という段階まで来ました」
「対象を人間とした場合は?」
「データの母数が足りておりませんでしたので、現世で協力者を見繕い、時間遡行により実証を進めていたところです」
またもやしれっと時間遡行で実験を行っていたという発言が出たが、これは限りなく黒に近いグレーゾーンなのではないか。懸案事項がどんどこ増えるので胃が痛い。
「水槽の中の女性は、どなたですか」
「私の主の妹御です」
成る程、血縁者である。ね本丸のお弟子さんという属性だけでは足らず、余計に闇が深まった。白目を剥いて逃避しようとするわたしの手の甲の皮を鶴丸さんが容赦なく抓ってきたので、仕方なく目の前の辛い現実に向き合う。
伊達家にいた刀は、大凡手加減という言葉を知らないらしい。
「……経緯をご説明しましょうか」
白の手袋に包まれた指を組んで、一期一振は語り始める。鶴丸さんは欠伸を零しながらわたしの観察に熱を注いでくれているらしく、肌に突き刺さる視線が居たたまれない。わたしより部屋の中を警戒していただきたいんですけども。
「今から大凡三ヶ月前でしょうか。主の妹御の本丸が、時間遡行軍から襲撃されました。救援要請があり、我々は二部隊で本丸に向かいましたが、辿り着いた頃には本丸は既に壊滅しておりました……」
空中展開したキーボードに文字列を打ち込み、わたしはげんなりした。全部こちらを足止めするためだけの法螺話だったら良かったのになあと思うが、そうもいかない。
この話が真実なのかどうかは、職場のデータベースの海を爆速で泳いでくださっているであろう上司や他の課の職員の手で簡単に明らかになるだろう。こちらは只管、聞き取った内容をまとめて迅速に共有することが第一だ。
しかし、現時点で既に、ね本丸で乱さんから聞いた話と噛み合わない。
ね本丸は一度、時間遡行軍に襲撃されている。その際、同時にお弟子さん───この本丸の妹さんの本丸も襲われたようだったが、一部の刀剣男士が折れたものの、両本丸の審神者はまだ生存していた。
推測するに、今の一期一振さんの説明した襲撃は「二度目」だ。
一度目の襲撃の時点で政府への通報が上手くいかなかったのは、この本丸の審神者の手引きがあったからではないか。二度目の襲撃は、この本丸の審神者が仕組んだとか。悪い想像はどんどん膨らませることができる。外れていることを願う。
「本丸で生き残っていたのは、燭台切殿だけでした。妹御を抱えて、呆然としている様子でした」
先程水槽の中を漂っていた、お弟子さんの姿を思い浮かべる。白い背中に走った一本傷は、暫く忘れられそうにもない。
「妹さんの背中の傷は、遡行軍の攻撃で?」
「いえ。あの傷は、燭台切殿が」
は?
タイピングの手を思わず止めてしまう。鶴丸さんの視線は、依然わたしの方へ向けられている。彼は人差し指で己の口元を示し、それ以上はうんともすんとも言わない。
都合の悪いことを喋ることができないように細工されているという鶴丸さんの言葉を信じるなら、一期一振の説明には多数の虚構が仕込まれているということになる。嫌な話である。
「彼女の命令だったようです。自分の身体を囮にして、遡行軍を斬れと」
燭台まで斬った逸話のある刀だ。性能が良すぎて、遡行軍だけでなく妹さんまでも斬ってしまった───有り得ないと軽く一蹴するには、少し厳しい。
「我々は本丸内にいた遡行軍の残党を殲滅し、妹御の身体と燭台切殿を、こちらの本丸へと避難させました。瀕死の状態だった妹御を何とかこの世に繋ぎ止めるためには、もうハイバネーションしか手段が残っていませんでした」
医療機関に繋ごうにも、あまりにも出血が多かったので。粟田口の長兄は強く両手を握り締め、悔しそうに首を振った。
「それで、あの子を仮死状態にして、いつ目覚めさせるんだ?」
ぼんやりしていた職員に代わり、鶴丸さんが切り込んでくださったので、わたしは慌ててタイピングの速度を上げる。
夏の晴天のような色の髪をさらりと揺らして、軍服の男が俯いた。
「……失敗しているのです」
「は?」
鶴丸さんの掠れた声が、耳に触れる。
「我々の実験できちんと冬眠から目覚めさせることができたのは、大型犬まででした。研究者である主は、大事な妹御を助けるために、彼女自身を実験台にせざるを得なかった……」
ということは、時間遡行して現世から引っ張ってきた「協力者」は軒並み死亡しているか、植物状態になっている可能性が高い。
もう嫌だ。今すぐ倶利伽羅さんの腰布に顔を埋めて気絶したい。
心の中で何を考えようが自由である。項垂れながらも指を動かし続け、あまり振り返りたくない文字列を繋げていく。
「失敗のない実験なんて、そんな都合の良い事象は存在しません。ですが、妹御を失敗作として終える訳にもいきません」
兄である審神者の心境を想像したのだろう、一期一振の声は僅かに震えていた。
「妹さんは、本当に仮死状態なんですか」
「職員殿は思ったより嫌なことを聞きますな」
ようやっと顔を上げた彼の目尻に光った雫を見て、罪悪感はあった。ただ、こちらも仕事なので、寄り添える範囲がそもそも少ないのだ。
向日葵の色の瞳を潤ませたまま、彼はこちらを真っ直ぐに見据え、言葉を紡ぐ。
「出血量から見て、かなり危険な状態を無理矢理繋ぎ止めましたが、主の研究の仲間には医療関係者もおりましたので、あれこれ手を尽くしていただき、状態は仮死と言って間違いありません。後は、彼女が目覚めるのを待つだけなのです」
「で、目覚めないって?」
結論を急ぐ鶴丸さんの、底冷えするような声が鼓膜を凍り付かせた。
「……職員殿のお力をお貸しいただきたい」
わたしは天を仰いだ。ありませんよそんなもの。奇跡を起こすにはそれなりの材料が必要である。わたしが必死に念じても水は葡萄酒にならないし、海水が割れることもない。
「いいえ、あなたは自覚がないだけです」
急に前向きに諭されても、わたしはしがない社畜である。一体何に利用するつもりなのか、恐ろしくて聞く気力が湧かない。
自覚のない力? 少年誌の時空じゃないんだぞ。未だかつて業務中にそんな胸躍る展開が待ち受けていた試しはない。大抵の場合、精神が摩耗する事態に陥るだけだと知っている。
「別の水槽に二十九体、妹御そっくりの器があったでしょう」
やはりアレは器に過ぎないのか。器。中身は空っぽ、ガワだけの存在。
では、足りない中身は?
「もしも妹御の肉体が限界だった場合、用意した別の器に中身を定着させることができれば、彼女は問題なく目覚めるでしょう。課題は精神転送のみです」
それは本当に問題ないのか? 研究者の倫理観はよく分からない。
とりあえず、現時点で問題となっている中身は、臓器ではなく霊魂の類か。はい、特に専門外です。石切丸総括がこちらに辿り着く可能性を考察し、止めた。
有り得ない希望に縋っていては仕事ができない。現実的な解決策を模索する方が先だ。
「この本丸の刀剣男士は、かなり傷だらけのようですが、審神者さんは手入れしてくださらないんですか?」
「主の霊力も、手入れに必要な資源も限りがありますから。致命傷と言うほどでもありませんので」
足の腱を負傷していたら出陣どころか日常生活もままならないだろうに、この一期一振の穏やかな表情は一体何なんだ。致命傷ではないからと言って、痛みがない訳ではない。
「……あの器達には、刀剣男士の肉体の一部が使用されているんですか」
「おや、誰かが証言しましたかな。ええ、ご認識のとおりです」
きょとんと大きな瞳を丸くした一期一振だったが、すぐに愛想笑いを繕ってみせた。嫌だなあ、取り繕うなら今のも嘘だって言ってくれ。頼むから。
「主の妹御ですから、主の霊力で顕現した刀剣男士の一部があれば、より魂が馴染むかと」
うーん、そうなんですかね。分かりませんね。事例集で見たことがない訳でもないですが、そうそうある案件ではない。
刀剣男士に人権はない、と偉い人が零していたのを聞いたのは、歴史保安庁に配属されてすぐのことだった。かと言って、彼らを大事にしない免罪符にはならない。
「じゃ、俺の主も同じように器を用意してやれば良いってのかい」
机を指先で叩きながら、忌々しそうに鶴丸さんが発言した。
「ええ。特に鶴丸殿は相性が良いでしょうな」
何の悪気もなく一期一振が言ってのける。さも当然といった口振りだ。
わたしは頭から血がすっと引くのを感じていた。人工呼吸器を付け、心拍数はゼロを刻んでいた、ね本丸の審神者さんの姿を思い出したからだ。
「一期一振さん、申し訳ないんですが、今此処で職場に電話しても良いでしょうか」
「構いませんよ。地下ですが、きちんと回線は引いております」
慌てて端末をタップし、職場の電話番号を表示させる。なかなか呼び出し音が途切れない。
嫌な汗が滲んできた七コール目で『どうした』やっと繋がった。そう久し振りでもないのに、同僚の声に思わず涙腺が緩んだ。条件反射である。
「ね本丸の審神者さんの容態、どうなっていますか」
『ヤマダ主査が所管課に連絡を入れて、既に病院に搬送された』
まだ、間に合うだろうか。焦りで端末を持つ手が滑りそうになる。わたしは縺れかけた舌で、何とか言葉を紡ぐ。
「特殊な仮死状態かもしれません。念入りに確認をお願いします」
『分かった』
同僚の返事を信じ、通話を切った。まだばくばくと、心臓がいやに大きく震えていた。
現実逃避の手段として、通話はかなり有効だ。倶利伽羅さんと延々と長電話していたい。ほぼほぼわたしが一方的に喋って相槌を打ってもらえるだけで十分なので。褒美のひとつとして候補に入れておいてほしい。
叶わぬ願望を垂れ流したままでは社会人に戻ることができないので、わたしは入念に職員の仮面を被り直した。
「失礼しました。お話の続きをお願いします」
「……あなたは不思議な人だ。我々の思惑を知っていて尚、こちらの手のひらの上で踊ってくださるのですな」
踊らなければ速攻で斬り捨てるくせに、と口にしないわたしは賢明だった。妙に感心した様子でこちらを見ている一期一振も、苛立たしさを誤魔化すのを止めた鶴丸さんも、わたしの手には負えないから仕方ないのである。
刀剣男士の優先順位を考えるだけ時間の無駄である。歴史を守るという大前提を除けば、彼らが最優先するのは審神者だ。政府職員なんて下から数えた方が早い。
「ただの職員に対して過剰に期待されても何も出ませんよ」
「手厳しいですな」
はっはっはと顔に似合わず豪快に笑った彼は、背筋を伸ばし直し、お兄ちゃんの顔でこちらの説得を開始した。
「話を戻しましょう。職員殿の霊力は、審神者と刀剣男士の『繋ぎ』に最適なのです」
ハンバーグを生成する時のパン粉や卵のような扱いをされて喜ぶとでも思ったか。
と、声を荒げるのは簡単だが、文字どおり丸め込まれて美味しく焼かれてしまうのが目に見えている。もう少し様子を見て動きたい。まだ材料にされる訳にはいかないのだ。
「誤解を与えてしまっておるかもしれませんが、あなたの命を捧げてほしいという意図ではありません。少し霊力を注いでいただければ」
「二十九体に?」
「はい」
新喜劇だったら頭からずっこけているところだった。わたしは耐えて、横に首を全力で振りたいのを必死で我慢して、堪えて、ひとまず沈黙を守った。
「君は馬鹿なのかい」
同僚にも同じことを散々言われていますが、と申し伝えるのも憚られるくらいに、鶴丸さんの声には温度がない。いつわたしの頭を鷲掴みにして机に叩き付けるかとヒヤヒヤしていると、彼の薄い手のひらがこちらに伸びてくる。
え、本当に机に叩き付けられる?
「交渉の余地なしだ。君は君の仕事をするんだろう」
危惧は具現化せず、鶴丸さんは苛々しながらわたしの額を小突くに終わった。こんなにときめかないデコピンもなかなかない。
仰るとおりで。鶴丸さんは結構痛かった額を押さえて力なく返事をしたわたしを他所に、にこにこと口の端を吊り上げたままの一期一振を睨み付けたまま、言葉を続ける。
「繋ぎにするには量が足らんだろうに。中途半端に搾取して捨てる気満々で、よくもまあいけしゃあしゃあと言えたもんだぜ」
ヤリチンを窘めるような口振りだが、現実はもっと殺伐としているのでプラマイゼロというか、やはりマイナスである。そうか、霊力を搾り取られた後はゴミのように捨てられるんだな。人体って簡単に燃えるし。
「……妹御は、そちらの審神者殿にとっても大事な存在でしょう。失うことになっても良いと?」
「俺の主は弁えて研究していたさ。そっちこそ、身内だからって倫理に外れた贔屓をするのはどうなんだい」
「建前は結構です。それに、研究の進歩の可能性を逃すには惜しいでしょう」
二振りの温度差は開くばかりで、社畜はただ必要な文言だけをキーボードに打ち付けて時が来るのを待つ。今すぐ同僚が乗り込んできてくださってハッピーエンドにならないだろうか。死人が出そうというか、ほぼ出るのが確実な時点でハッピーからは程遠いが。
「……話にならんな。そろそろ君自身の言葉で喋ったらどうなんだ」
「どういう意味でしょう」
首を傾げる一期一振は、本来こんな薄暗い地下室よりも、太陽の下、桜並木を粟田口一派と並んで歩いている方がよっぽど似合う。が、これはわたしの願望の押し付けに過ぎないので、胸に秘めたままにしておく。
「あの審神者の傀儡でいるのは、そりゃ楽だろうさ。だが、君はそんなお上品な奴じゃないと俺は知っている」
「はあ、全く失礼な御仁ですな」
首を僅かに傾けて、不満そうに唇を尖らせた一期一振である。鶴丸さんが大きく舌打ちをした。かなりご機嫌斜めである。
「良いから早く本音を言え。何なら『繋ぎ』に使う前に俺が独り占めしたって良いんだぜ」
それはわたしの殺害予告で良いのだろうか。抵抗する気力を使い果たしている職員は、見えぬ同僚に向かって合掌しておく。助けてください。
痺れを切らした鶴丸さんが立ち上がり、大股で一期一振さんの座る革張りの椅子へと近付く。刀剣男士の中でもかなり細い方に分類される鶴丸さんの腕が、黒のネクタイに伸びた。
ネクタイを乱暴に引っ張られたことで無理矢理に立ち上がるしかなかった一期一振さんが、眉間に皺をはっきりと刻んで、ひとつ呻いた。視線が彼自身の足に落ちている。
立ち上がるのすら困難なくらいに深い傷を足に負っているのに、先程までは痛みをおくびにも出さなかったことに、わたしの胃がまた痛む。
「……我々の感情がどうであれ、主を止められなかったこの本丸の刀剣男士に、罪がないとは言いません」
ふん、と鶴丸さんが鼻を鳴らして嗤う。話の続きを促す意味だったのだろう。苦痛に顔を歪めたまま、一期一振さんは目蓋を伏せた。
「ですが、何度時間を巻き戻しても、我々はきっと同じ行動を取ります」
主である審神者に望まれた、刀剣男士の宿命に過ぎない。
鶴丸さんの手はネクタイから離れる様子はなく、寧ろその拳には更に力が込められているように見えた。
「…………」
白髪の男は忌々しそうに口を開いて、何も発さずにまた閉じる。一期一振は椅子に投げ出され、咳き込みながらも姿勢を正した。
舌に施された呪術の威力の強力さをまざまざと見せ付けられ、代わりにわたしが発言しなければならなくなった。
「一期一振さんでも、意外と詭弁を弄ぶんですね」
「人の身を得たからこそ、でしょうな」
花霞の似合うような笑みだ。そしてそれを崩すのは、いつだって人間なのだ。
「……申し訳ありませんが、今後の捜査のために、一時的に顕現を解いていただきます」
顕現を解くだけでなく、封印の札も貼らせてもらうが、敢えて言わない。それくらいの振る舞いは許されるだろう。
「構いません。時間稼ぎの茶番によく付き合っていただきました」
「……」
そうだ、一期一振とはこういう刀だ。丁寧な物腰の割に、一歩踏み込めば明け透けでざっくばらんで、意外と適当なところもあるが、審神者の前ではきちんと律した姿だけを見せる。
部外者だけが拝むことのできる奔放な姿を浴び、腹立たしさや物悲しさを腹の中で掻き混ぜて、わたしは沈黙を噛む。
「では、私から職員殿へ贈り物を。モニターをご覧ください」
いつの間にか、デスク上のパソコンの電源が入っている。デスクトップのカーソルが勝手にすいすい動き、フォルダをさくさく開いていく。彼の手は膝の上で大人しいまま。
パスワード入力のポップアップウィンドウが現れると同時、「ご武運を」眦を緩めた一期一振の顕現が、解けた。