革張りの椅子には、派手な太刀が物言わず横たわっている。持ち上げると手の中でかたかたと小さく震えた。意識までを眠らせた訳ではないようだ。
 わたしは作業着の裏側から、刀剣を封じる札を取り出し、躊躇うことなく鍔と鯉口をしっかりと繋ぐように貼り合わせ、余った部分を鞘に巻き付ける。ひとまず椅子へ立て掛ける。
 さて、いつまでもこの部屋の中でうだうだと管を巻いている訳にはいかない。とりあえず目の前の問題に挑戦しなければ前に進めない。

「……鶴丸さんはわたしの護衛をお願いします」
「ああ。だが、罠だと確定しているのに試すのかい?」

 パイプ椅子に腰掛けて腕と足を組み、鶴丸さんは顎でデスクトップパソコンを指した。腕を組んでいても咄嗟の時には問題なく抜刀できるという余裕が姿勢に現れている。
 それに比べてわたしは、咄嗟の時に何ができるだろう。

「これで即死するならまあ、その時はその時です。作業着のポケットに端末を入れていますので、倶利伽羅さんに連絡をお願いできますか」
「君……」

 生唾を飲み込む。意図せず肩で呼吸をしていて、己がかなりの緊張状態にあることを自覚する。堪らずデスクの前にあったオフィスチェアに座り込んでしまった。
 そりゃそうだ、パスワードを入力して突破できたとして、こちらに有利な状況になるとは限らない。「贈り物」なんて嫌な言い回しをしてきた一期一振が最早憎い。

「まあわたしを殺してしまうのは簡単ですが、この本丸の審神者さんの願いは『妹の生存』ですので。使えそうな駒を使いもせず、むざむざ捨てるような阿呆でもないんじゃないですか。知りませんけど」

 投遣りに鼻で笑えば、鶴丸さんが息を詰めた。わたしは端末を取り出して、何処かに潜んでいる刀剣男士に頸動脈を狩られる予想をしつつ、デスクの方に近付く。
 まだ、攻撃はない。気配も読めない。とりあえずキーボードを叩いて、パスワードが何文字入力できるのかを確認する。八桁。
 何度失敗できるのかも分からない。生唾を飲み込んで逡巡していたその時、テーブルの上に置き去りにしていた端末が震えた。急ぎ椅子から立ち上がり、テーブルの方へ向かう。
 倶利伽羅さんからメールが届いていた。待ち侘びていましたとも。
 件名には日付であろう数字が打ち込まれているが、時間に開きがあるせいで、今のわたしから見ると未来の日付になっている。
 本文は文字化けしてしまっていて、どうにも読めない。エンコードを再設定しても上手くいかず、諦めるしかなかった。時空の歪みがこんなところで影響してくるとは。
 しかし、添付ファイルは無事だったようで、開けば簡潔にまとめられた資料が目に飛び込んでくる。流石倶利伽羅さん、仕事が早い。
 いや、それだけ時間の差が広がっているのだが。送信時刻と受信時刻の差を確認して、何度目かの白目を剥く羽目になった。
 わたしは無事に帰れるんだろうか、と無駄な心配をしてしまう。

「……ワア……」

 資料を読み進めるにつれ、悲しみの感嘆詞が溢れ出た。端末の画面をスクロールして、机に顔を伏せてげんなりと息を吐く。

「行方不明者、結構出ていますね……一期一振さんの供述にあった実験の協力者、やっぱり協力じゃなくて強制じゃないですかーヤダー」
「何か特徴があるのかい」

 テーブルに頬をぺたりとくっつけたまま、端末内の情報を指でなぞる。

「……行方不明者の年齢は、十代後半から三十代前半ですね。ちょっと幅が広いな」
「それ、この本丸の審神者と妹御の年齢で上限下限を設定してやいないかい」

 彼の言葉にはっとする。白く長い睫毛をぱたぱたと瞬かせて、鶴丸さんはわたしの返事を待っている。

「……鶴丸さん、実は推理小説とかよく読んでました?」
「俺はりある脱出げーむの方が好きだな」
「そうですか」

 大変頼りになって有り難い限りだ。現場考察はわたしより絶対に向いている。最大限活用してこの窮地を乗り越えたいが、彼の舌に仕込まれた口封じの術が邪魔である。
 逸らし続けた話題も限界が来た。そろそろパスワード入力のエンターキーを押す勇気を振り絞らなければならない。
 ならば、別の手段に挑むべきだ。

「鶴丸さん」
「何だい」

 黄金色の瞳は逸れることなくこちらを射貫く。言葉を迷っている場合ではない。

「……命令の上書き、わたしにでもできますかね」
「やっと前向きになったか! 偉いぞお」

 鶴丸さんが破顔して、わたしの頭をぐりぐりと撫でた。待っていてくださったなら、もっと匂わせてほしいものである。

「札を使う感じではないですよね? 手順が全く分からないので、ご教示いただきたく」
「勿論だ。まず手始めに……」

『もーいーかーい』

 暫く空気を読んでいてくれたはずの幻聴である。ご遠慮願いたい。一気に顔が死んだわたしを見て、鶴丸さんが肩を震わせている。

「……じゃ、君の血を少し貰おうか」

 久し振りの良い笑顔だ。祝詞はこれだ、と鶴丸さんがこちらのキーボードに手を伸ばして文字列を打ち込んでくださる。予想以上に速いタイピングに目を剥きながら、ややこしげな祝詞を視線でなぞる。見たことのない詞だ。

「呪術関係ってこんなんばっかりですね」
「そうだな。うーん、俺本体じゃ斬れすぎるな。針とかないのかい」
「残念ながら、ありますねえ……」

 トートバッグの中には、本来の業務で使用する個包装の殺菌処理済みの針がある。まさかこんな場面で役立つとは。鶴丸さんも「そりゃあ良い」うんうん首を縦に振って、さっさと刺せと脅してくる。

「指の腹で良いですか」
「うん。薬指で頼むぜ」

 言われるがまま個包装を破り、銀色の細い小針を取り出す。薬指の腹に突き立て、不愉快な痛みに顔を顰めて針を抜くと、ぷくりと血が膨れ上がるように出てきた。元々、本丸の神気濃度確認の業務で慣れているとは言え、小さな傷でも痛いものは痛い。
 鶴丸さんの手がこちらに伸びてくる。見守っていると、骨張った指で手首を掴まれ、少し持ち上げられる。テーブルに肘を付く形で落ち着いた。血が垂れる前に次の手順を教えてほしい。

「じゃ、頼むぜ」

 了承の意を伝えるよりも先に、じくじく痛むわたしの指は、伏し目がちになった鶴丸さんの口の中へと消えた。

「な、」

 指の付け根に彼の歯が当たった。随分深く咥え込まれ、指を這う舌の感触に、逃げ出したい気持ちが走り回っている。勿論、非力な社畜では敵うことなく、じうと音を立てて吸われるばかりである。

「聞いてませんよ!」

 声を荒げるわたしとは裏腹に、鶴丸さんは涼しい顔で鉄分を補給している。
 他の指が彼の顔に押し付けられてしまうのに、全く頓着する様子がない。白い肌のきめ細やかさをわたしの指が知っただけだった。
 刀剣男士は、人間の血に飢えて仕方がない個体が時たま出現することがある。今回はそれに該当しないとしても、人間を斬る道具が血を浴びることに忌憚しないのは、本能的なものなのだろうと思う。そもそも血を厭っていたら斬れない。
 手の拘束が解ける気配もない。己に与えられた役割を果たすしかない。無心で端末に打ち込まれた祝詞を読み上げる。何とか噛まずに唱え終えても、指は未だ口の中であたためられていた。
 どちらかと言えば饒舌な方に分類される鶴丸さんが、無表情で他人の指を咥えている図は端的に言って恐ろしい。いつこの指を噛み切られても可笑しくない。背筋が震える。

「……あーふまん、もうふこひまひぇ」

 もう少しってどれくらいですか。黄昏時に迎えに行くと表現するなど、この鶴丸さんの時間感覚は当てにならない。
 むぞむぞする指をどうすることもできずに、わたしは鶴丸さんに掴まえられたままの腕に巻き付いた時計の秒針を見やる。三周してやっと、わたしの指は外気に触れた。

「確認してくれ」

 んべ、と赤い舌を出してみせた鶴丸さんだった。先程までは黒い文字がぐちゃぐちゃと刻まれていた舌には、何も残っていない。
 革張りの椅子の上で、かたかたと太刀が震えて音を立てた。急に動かないでいただきたい。めちゃくちゃ吃驚した。

「おいおい、羨ましがっても遅いぜ。たいみんぐはあっただろうに」

 はんと鼻で嗤って煽る鶴丸さんである。よく分からないが小学生みたいな張り合い方をするのだなあと思う。そう何度も他刃に指を咥えられるのは勘弁してほしいので、このタイミングが最適だったのだろう。多分。

「よし、まあ完全に解除できた訳でもないんだが、後は俺の神気でねじ伏せればおーるおっけーという奴だ」

 太陽属性の鶴丸国永が爆誕したことをひとまず喜び、そして現実に向き合って一気に気分が沈んだ。
 逃避していたパスワードの入力画面が、煌々と存在感を出している。八桁。本丸の識別番号の数字はぴったり合致するが、誕生日や住所をパスワードに設定するようなものだ。流石にこの本丸の審神者がそこまでの愚か者だとは思えない。
 八桁。西暦と月日か? それこそ誰かの誕生日という訳でもあるまい。わたしはオフィスチェアの前で唸った。何かヒントがないかと、肩に提げていたトートバッグの中を漁る。
 紙ファイルの裏、手書きの数字の羅列がある。八二七四一六九五。水槽の部屋にあった紙に記載されていたものだ。

「……」

 いや、もうこれ以外に何かあるか? 全く脳が仕事をしないので、わたしは素直にそのまま数字を入力した。この本丸の大倶利伽羅さんが与えてくださったヒントを信用しないルートなんてないのである。
 そうは言っても、エンターキーの上に置いた指は震えていた。正直、何が起こるか全く予想ができない。選択肢が広すぎるのだ。
 パイプ椅子を座ったままぎこぎこ引き摺って、鶴丸さんがわたしの隣に腰を落ち着けた。その手にきちんと本体を持って、口の端を吊り上げてこちらを見ている。

「君はすぐひとりで挑もうとするなあ。もっと頼ったらどうだい」

 呆れたような声だった。同僚がわたしを諫めるのと同じ温度だ。伊達家にあった刀は、軒並み諭したり慰めたりするのが上手い。事例集では頻発する。

「相棒ってのは段々似てくるもんなのかねえ……」

 しみじみと言う彼は、わたしの肩に自分の肩をぴったりくっつけて、あざとい上目遣いでそんなことを言った。

「何の話ですか」
「君と伽羅坊の話だよ」
「えっ何ですかそれ詳しく」

 急に前のめりになったわたしの額を手で押して、きちんと距離を取る鶴丸国永である。すみませんね、つい。推しの話になると色んな判断がバグるもので。
 ひとまず、後のことは鶴丸さんに任せるとして、覚悟を決めてエンターキーを押し込んだ。 画面上にはコマンドプロンプトが出現し、次々と処理が走っていく。
 研究データの抹殺処理か、研究室の爆破スイッチか、時間遡行軍の襲撃の合図か、室内への毒薬の散布命令か。何が起きても不思議ではないが、ただ画面を睨んでいることしかできない。

「……ん?」

 コマンドの中に、見慣れた文字列があった。歴史保安庁が管理しているサーバへアクセスする時に見かける数列だ。流石に庁内本体で使用しているものではなく、外部のデータサーバの中でも一時ファイル置き場に使われているものだったが。
 今回の一件は、情報分野にかなり秀でた人物が協力者にいると思っていたが、もしもその協力者が、歴史保安庁からのスパイとして動いていたとしたら。
 コマンドはどんどん進んでいく。わたしでは分からないコードの羅列が暫く続き、そうして動きが止まった。

「!」

 読みは、当たった。
 手にしていた端末が震える。歴史保安庁大和国の電話番号だ。流石に下四桁の数字を全て暗記している訳ではないので、どの部署かまで特定はできないが、確信はあった。

「……もしもし」
『本丸支援課のサイトーさん、お疲れさま。用地整備課のにっかり青江だよ』

 ぬるっと穏やかな声に、安心のあまり思わず脱力する。鶴丸さんは刀を片手に目を白黒させていたが、彼に説明するのは後だ。
 用地整備課の担当業務は、本丸構築の際の膨大で複雑なセキュリティシステムを組むことだ。選りすぐりのシステムエンジニアの中でも、にっかり主査の技術力はかなり評判が高い。

『無事に実行してくれてありがとう。ふふ、待ってたよ……君がエンターを押すのをね』

 にっかり主査の案件だったとは。わたしの悪運の強さが発揮された瞬間である。

『そう。三ヶ月前から、ね本丸に協力を仰いでね』

 極秘プロジェクトだったのだろう。担当課限りで情報が止められているのは、よくある話だ。命拾いした現実に特大の溜め息を吐いて、椅子にしっかりと体重を預けて宙を仰ぐ。
 生きて帰るぞお。おー。

『うん。今回、誰が橋渡しになってくれるかまでは分からなかったからね。君で良かったよ』
「こちらこそありがとうございます。生きる希望が見えてきました」
『それは何よりだ』
「良かったなあサイトー」

 うりうりと孫を可愛がるように頭を撫で繰り回してくる鶴丸さんであるが、わたしは敢えて享受し、首がもげそうになるのを我慢しながらにっかり主査の説明を聞く。これは秘匿回線なので、安心して情報共有ができる。スピーカーモードでどうぞ、と主査が言うので、指示に従う。
 わたしがパスワードを入力したことで、研究データの吸い上げに成功したようだ。頑張ってくれてありがとうとにっかり主査からお褒めの言葉まで頂戴したので、わたしは満面の笑みでやり取りを続ける。鶴丸さんは結構引いている。すみませんね。

『ああでも、その地下室、現世のラボの一室と融合してしまっている空間には違いない。座標はかなり不安定だから、共有後は早く脱出した方が良いよ』
「分かりました」

 しかし悲しいかな、この案件はまだ終わった訳ではない。この本丸の審神者を引っ捕らえて、わたしの腹の中の怪異を何とか取り除いてもらわないことには安心して眠れない。
 にっかり主査には、うちの課の厚藤四郎課長補佐から情報共有と協力申請があったようで、こちらの事情は大体把握してくださっているようだった。
 でもねえ、とにっかり主査の沈んだ声に身構える。

『遠隔じゃ怪異は斬れないんだよねえ。当然だけど』
「…………」

 悪運が強いわたしであるが、不運がなくなった訳ではないのだ。土壇場で何とか生き残ることばかり求められる人生だが、まだ終わらせるには未練が山積みで化けて出てしまう。

「俺にも腹の中のソイツを何とかするのは難しいしな」

 物理でなら解決できるが、と嗤う鶴丸さんの脇腹を肘で突く。割腹したら必要な処置を施さないと人間はぽっくり死んでしまうんですよ。本日のわたしの業務目標は「生きて帰る」なので、その選択肢は画面に現れない。

『座標は特定したけど、今度は年数が分からないんだよねえ。その地下室が存在している時代の特定は、ちょっと折れてしまいそうだね……骨が、だよ』

 刀剣男士が折れるとか簡単に言わないでいただきたいものである。心臓に悪い。

『石切丸総括も忙しいんだろう? 太郎太刀総括も次郎太刀主査も、今は別件対応中だし、僕は手が離せそうにないし』

 絶望に絶望を塗り重ねるのも得意なにっかり主査である。彼自身はこれから入手した情報を使ってあれやこれやと東奔西走しなければならないし、つまり、こちらで何とかするしかないという事実は変わらない。
 有り難いことに、鶴丸国永の協力は得ている。何とか踏ん張って、来た道を辿れば戻れるのではないだろうかと楽観的なことを述べると、回線の向こうで主査が考え込むような声を出した。

『……いや、君との相性を考えるなら、早く求めた方が良いと思うよ……大倶利伽羅に、助けをね』

十二進法の遠景|22

201101
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