「部屋の奥の扉、向こう側を確認しなくて良かったのかい?」
「開けない方が良い箱なんてごまんとありますから」
「まあ、そうだなあ」
研究室内の物品の写真を撮り、にっかり主査に送信したわたしは、早く地下室から出るように促され、地上に繋がる階段に足を掛けているところである。
顕現を解いた一期一振を置き去りにするのも気が引けたので、鶴丸さんに抱えてもらった。彼は今わたしより先に進み、閉じてしまった入り口が開くかどうか確認してくださっている。細腕で天井をぐいぐい押しているが、びくともしない。
「……残念なお知らせだ。俺の力でも開けられそうにない」
ですよね。そんなところだろうとは思っていましたよ、ええ。どうせ地上では入り口を塞ぐように時間遡行軍の大太刀辺りが座り込んでいるとか、妙な術式で封印されてしまっているとか、そういうオチなんでしょう。
ということは、勿論窓もないこの地下室で、我々が取れる行動は一つしかない。確認しなかった部屋の奥の扉を開けるのだ。嫌すぎる。
「鶴丸さん、先頭よろしくお願いします」
「まあ任せておけ。君よりは確実に強いしな」
それは全くそのとおりである。すごすごと階段を降りて、机の間を縫うように歩く。この薬品のにおいが充満した地下室とおさらばしてもまた地獄が待っているかもしれないとか、考えてはいけない。
扉は会議室によくあるような、鋼製のものに見える。鶴丸さんの手がドアノブを握った。
「……鍵は掛かってないな。準備は良いかい」
もう尻込みしている時間はない。お願いします、と声を出すと同時、鈍い音を立てて扉が開いた。
扉の先は、四畳半の和室だった。左右の壁に夥しい数の呪符が貼り付けられていて、わたしの心はまた死んだ。
「そう気を落とすな、さっさと出ようぜ」
振り返ってこちらを心配そうに見やった鶴丸さんの、明るい声が背中を押してくださる。頑張って一歩ずつ進むしかない。呪符がいつ発動するか固唾を呑んで見守りつつ、和室の唯一の出口である障子を開け放つ。
時間遡行軍の太刀が我々の進路を遮断するように、廊下のど真ん中に立っている。まだこちらに背を向けていて、まだ気配までは察知されていないらしい。
鶴丸さんが手にしていた一期一振の本体をわたしに押し付けた。長い太刀を取り落とさないように抱える。
「いざとなったらそれで殴れ」
そう、わたしが一期一振の顕現を封じたので、そもそも抜刀はできないのである。ここで封印を解除した場合、事態がどう転ぶか全く予想がつかないので、刀としての本来の使途ではないが、君は今から遡行軍及び怪異撲殺棒なのである。よろしく頼む一期一振。
手の中で一期一振がかたかたと震える。肯定か否定か全く分からない。
とりあえず和室を出て、そっと障子を閉める。さっきの本丸の何処かに繋がっているのか、または別の本丸に飛ばされたのか。流石に現世ではないだろうと思うが、確証もない。
鶴丸さんがすらりと自身を鞘から抜いて、遡行軍との間合いをはかっていたかと思うと、厚底の下駄で、わざと廊下の床を打ち鳴らした。
振り返った遡行軍の太刀に向かって、鶴丸さんが一気に肉薄する。
「走れ!」
飛び出した命令文に従って、わたしは駆け出した。今後、本丸に行く業務のある日は、絶対にスニーカーで勤務するぞと心に誓った。
ひとまず廊下なら、畳ほどの惨劇にはならないはずだ。そうであってほしい。
貧弱な職員が遡行軍と真っ向から対峙したらそこで試合終了である。内部構造が分からない本丸の中を逃げ惑うのは危険なので、中庭か、玄関先の転送門を目指すのが良いだろう。
まあ遡行軍も阿呆ではないので、その程度の方針は見透かされているかもしれないが、全く得体の知れない室内に逃げ込む方が、死亡確率が高いだろうナアという話である。
本丸内の空気は先程と変わらず淀んでいる。薄汚れた廊下を走り抜ける最中、ちらちらと見えた室内も荒れていた。
もしかして、ただ「ち本丸」内に戻っただけなのではないか。
ならば、比較的安全な場所がまだ残っている。お弟子さんが保存されている水槽の部屋だ。母屋の中央、審神者の執務室の隣。目的地が定まった。
今、わたしは本丸の端に向かって走っていたので、方向転換せねばならない。立ち止まったその時、背後で何か嫌な気配がした。
倶利伽羅さんの端末で見た、靄のような手が二本、すぐそこまで追ってきていた。背筋に冷たい汗が流れるのが分かる。
「ウワ」
手に持った一期一振を握り締め、震えそうになる足で何とか床を蹴り走り出す。泣けど喚けど靄は待ってくれない。捕まってしまえば詰みである。己の脚力には全く自信がない。
脆弱な体力しかない職員なので、数分も走れば息が上がってくる。肺が苦しい。
隠れようにも、残っている部屋は恐らく刀剣男士の私室か、厨か、厩か、厠か、浴場か、鍛刀部屋か……いや、意外とあるな。
僅かでも活路を見出せたことに、少しだけ気が緩む。
「……あれ?」
くねくねと廊下を爆走してきた訳だが、見渡せど靄の気配はない。振り切ったのだろうか。いや、こうやって安心した瞬間に足元を掬われるのだ。
そう、こんな風に、ひたりと冷たい何かに足首を掴まれるとか。
「アアアアアア無理!」
飛び上がる間抜けはわたしである。右足をガッツリ拘束しているのは靄ではなかった。目に入ってきたのは血色の悪い肌色である。
人の手である。手首までしかない。断面はぼやけていてどうなっているのかよく分からない。恐怖が一周回って笑い声に変わった。
「ははは、いや無理、無理です無理ご遠慮願いますははは」
手首の力は強い。一期一振の鞘をぐいぐい押し付けて剥がそうとすると、余計に力を込められる。折られる程ではないが嫌悪感が身体の中で蜷局を巻いている。早く引き剥がしたいのに全然上手くいかない。歯の根が合わない。
「いやでもまだ死にたくないので!」
得体の知れない謎の手の怪異を足にくっ付けたまま、わたしは走り出した。混乱しているのである。ヤケクソなのである。オカルトは間に合っています本当に。事例集だけでお腹いっぱいです。
足を握る力はどんどん強まってくる。絶望感が半端ではない。
一期一振の封印を解くか? それこそ敵陣の狙いではないのか。
どう足掻いても無駄なのかと思うと、急に頭が冷えてくる。逆上せていた脳がすとんと落ち着いて、あれ、と疑問符が浮かび上がる。
そう言えば、今回の怪異は手の形ばかりだ。
怪異の「顔」を見ていない。目も合っていない。手程度なら、いやまあ怖いが、出会ってすぐに殺されるような脅威ではない。首を絞めたり目潰しをしたりといった手段は置いておくとして。
わたしは敢えて立ち止まった。
「……こんにちは。どなたですか」
挨拶は大事だ。特にこういった怪異には。
足首に絡み付く指が、拘束する力を緩め、ピアノの鍵盤を叩くようにわたしの骨を皮越しに弾いてくる。意思疎通は難しいらしい。まあそんなものだろう。
謎の手をじっと見下ろしていると、一定の感覚で指が動いていることが分かった。
まず、そっと足首を掴み、段々力を込め始め、骨が軋む手前で指を踊らせ始める。一定時間で動作を繰り返すようだ。だが、それ以上の変化はない。動きを三周見て、それ以上のバリエーションがあるとも思えない。
わたしはそのまま廊下にしゃがみ、一期一振の本体をしっかり握る。
「掛かけまくも畏き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓へ給ひし時に生り坐せる祓へ戸の大神等、諸々の禍事・罪・穢れ有らむをば、祓へ給い清め給へと白すことを聞こし召せと恐み恐みも白す」
そしてそのまま、一期一振の鞘を手の怪異に向かって突き立てる。
確かに肉を斬るような感触の後、ざ、と砂が零れるような音を立てて、怪異の姿が消えていく。作法も何もあったものではないが、石切丸総括に祓詞を教わっていて良かった。
ほっと息を吐くと、後ろから何かに首を鷲掴みにされた。
衝撃に呻く間もなく、そのまま体が床から離れてしまう。驚いて一期一振の本体をうっかり手放してしまった。廊下に叩き付けられてしまった彼に深く詫びるも、この現状は打破できない。
首を掴んでいる何かに触れようとするも、今度は感触そのものがない。首元に立ち込める黒い靄を見て、思わず舌打ちをする。宙ぶらりんになった自分の身体が、重い。
さっきの謎の手は囮で、この靄が本命だった訳だ。まあそりゃそうですよね。
どうしよう、鶴丸さんが到着するまで持ち堪えられるか、非常に微妙だ。変に身動ぎして更に自分で首を絞めることになってしまったら笑えない。
ひやりと冷たい感覚だけが首元を包んでいる。わたしの首に恨みでもあるのか。
「動くな!」
鋭い声に、反射的に身を強ばらせる。
ざくりと何かを斬り付ける音が背後で鳴った。首に巻き付いていた靄が霧散していくのと同時、わたしの身体は重力に従って床に打ち付けられ───なかった。
わたしの腹に回った褐色の腕には、黒の龍が巻き付いている。足元には赤い腰布が揺れていた。見慣れた黒のスラックスに革靴、何度も見た色彩のコントラスト。
毛先だけが赤く染まった猫っ毛が、先程までの勢いを殺し切れずにふわりと揺れている。こちらを射抜く琥珀色の双眸を認めた途端、喉の奥で声が渋滞を起こした。
言いたいことが山ほどあって、押し殺して飲み込んで、わたしはひとつだけ言葉を選んだ。
「……遅いですよ!」
鼻声で叫んだわたしに対し、目の前の彼はバツが悪そうに視線を逸らした。何時間振りかを考えることすら惜しく、わたしは自分の首に提げていたカーンのペンダントを服越しに握り、彼の言葉を待つ。
「悪かった」
素直な謝罪の言葉が返ってきて、わたしは思わずぽかんと大口を開けて彼を見上げる。
彼の手がわたしの足を床に降ろし、廊下に悲しくも転がったままになっていた一期一振を拾い上げて手渡してきたので、為すがまま受け取った。
そして彼の「首元」を何となしに見て、わたしは堪え切れずに笑い声を上げてしまった。
また発狂ロールに入ったのかとでも言いたげな視線が返ってきて、わたしは俯いた。
「……いいえ、丁度良かったです」
「は?」
わたしの支離滅裂な発言に、彼は眉間に皺をしっかり寄せた。そうそう、本当に意味が分からないってお顔ですが、これはわたしの願望に過ぎない。
「───『どなた』ですか?」
目の前の男が目を見開いて、わたしとの距離を一歩詰めた。わざわざわたしの顔を覗き込んで、不安そうに瞬きを繰り返す。
「あんた、遂に頭が可笑しくなったのか」
「今更聞きますか? 詰めが甘いですね」
こんな状況下で正気でいられる方が可笑しいだろうに。滑稽な現状に肩が揺れた。
男は「おい、」わたしの肩を掴んで、『しっかりと視線を合わせてくる』。
都合の良い幻を作り出して現実逃避に走るのは、別に珍しくもない。ただし、それは具体に表出することはない。当然だ、現実ではないのだから。
「解釈違い、なんて言う場面に出会すとは思いませんでした」
わたしも随分面倒なヲタクだったんだな、としみじみ思う。いや、分かっていたことだ。それこそ何を今更という話である。
「無理矢理暴かれたいですか?」
戸惑いに瞳を揺らす男に、わたしは静かに声を投げる。
この本丸の大倶利伽羅は傷だらけで、審神者が逃亡している現在、手入れが施される可能性は、ほぼない。今、目の前にいる彼は無傷だ。
ね本丸の大倶利伽羅は、同僚よりも人肌の温度に近い色合いの、もっと凪いだ瞳をしている。目の前の彼の瞳は、より琥珀色に近い。
そしてわたしの同僚は、梵字の掘られたペンダントをわたしに預けてくださった。目の前の彼の首元には、あるはずのないそれが引っ掛かっている。
「聞け、」
「もう一度言いますね。どなたですか?」
怯んだそれは、口篭る。
「名乗れませんか? そうですよね、だってあなたには名前がない」
それは、わたしでも何とかなるという証明に他ならない。ひとりでできるもんである。
「わたしの記憶を読んで現れるんですかね。手が込んでますね」
どうやら物理攻撃から精神攻撃にシフトチェンジしたようだ。どうしてもこちらの心を折りたいらしい。
折っても仕方ないだろうに。既に折れているので。
「じゃあ名前を付けてあげれば良いんですかね? 何が良いですか? 聞くだけで採用はしませんけど」
嘲笑う声が自分のものではないようだ。くしゃりと顔を歪めて、今にも泣き出しそうな瞳が、わたしを見詰めている。
同僚ではない。ただ、わたしの記憶をなぞって、改竄して現れただけの、怪異だ。
もし仮に、別部隊から救援のために登場した大倶利伽羅であったなら、わたしに対する距離はもっと開いていたはずだ。だからこんなに近い「これ」は、味方ではない。
息を吸う。祝詞を唱え始める。一期一振を手に、わたしはそれの懐へ飛び込む。
いやだ、と悲痛な声がする。手がこちらに伸びてくる。助けを求めるように。
怪異は無事に砂と化した。わたしは同僚が常日頃吐いているような深く長い溜め息を落とし、廊下にしゃがみ込んだ。
早く帰りたい。そうですよね一期一振さん。話し掛けてもうんともすんとも言わない太刀である。間違いなくご機嫌を損ねたが仕方あるまい。
ええん、誰か褒めてくれ。
「お! 無事だな!」
廊下の向こうから鶴丸さんが走ってくる。腹の部分の着物を真っ赤に染めて。
「いやー傷が開いてしまった。なかなかの強さだったぜ、あの遡行軍」
鶴丸さんはぽりぽり頬を掻いて、わたしの隣に腰を下ろした。疲れたなあ、と屈託のない笑みを浮かべて、こちらの状況確認に入る。わたしは疲労感と虚無感をまぜこぜにして、こちらの記憶を読み取って姿を現す怪異と対峙したことをぺろぺろと説明した。
「……今回は運が良かったな。もっと厄介な怪異の可能性も、」
鶴丸さんが言い切る前に、突然、わたしの口からびしゃりと透明な液体が吹き出した。
唾液にしては粘性が足りない。胃液にしては無色透明だ。文字通り水のような。
全く意図したものではない。急激に気管が圧迫され、酸素が足りない。
身体をくの字に折り曲げて咳き込む衝撃を逃がそうとしたが、上手くいかない。腹筋に無駄な力が入って、息苦しい肺を手で押さえる。鶴丸さんの手が背中を擦ってくれるものの、咳はなかなか止まらない。
「破水か?」
わたしもちょっと思ったが、妊娠していないし。そんな身体を張ったギャグをお披露目する体力があるなら、今すぐこの場から逃亡している。
作業着のポケットの中で端末が震えている。着信の知らせだ。ごほごほと咳き込みながら何とか画面をフリックするも、力の入らない手から滑り落ちてしまう。
膝を地面に付けてへたり込む。スピーカーモードにし損ねたせいで、端末の向こう側の声は聞き取れない。ぜいぜいと苦しい肺の音だけが反響して、冷や汗ばかりがこめかみを伝った。
「我慢せず咳き込んで良いからな」
背後から覆い被さるようにしてわたしの背中を擦りながら、鶴丸さんが端末を拾い上げて耳元に当ててくれる。自分も怪我をしていて辛いだろうに、随分と気遣ってくださるので申し訳ない。
電話は職場からだろうか。同僚の声が聞きたい。そうしたらもうちょっと頑張れそうな気がする。最早過呼吸に近い状態で、何とか耳元に神経を集中させる。
ザザ、と砂嵐のような雑音。悪い予感に、ひゅ、と吐いた息が巻き戻る。薄らと聞こえるのは、少年の声だ。
『もーいーかーい』
現実は、不条理だ。