真っ暗な部屋の中、倶利伽羅さんは早速電気をつける。内装は、わたしが想像していた小学生の弟のものとは異なっていた。
家具の配置は記憶と違わないが、畳の上にはランドセルの代わりにボストンバッグが投げ出されている。わたしの通っていた中学校と同じものである。
さて、どなたでしょうねえ。
倶利伽羅さんが足音もなく部屋の中を進み、カリカリと音の鳴る押し入れの前で足を止めた。鯉口を切った状態で、彼は襖に手を掛ける。
倶利伽羅さんが振り返って抜刀したと気付いたのは、わたしの背後で「何か」が斬られて畳に打ち付けられる音がしたからだった。
「降ろし損ねたんだろう」
的確な説明である。わたしは斬られた「それ」に視線を落とした。
黒い兎のぬいぐるみだった。胴体で真っ二つになったそれは、中からどろりと赤い液体を零している。詰め込まれているのは米粒のはずだが、見当たらない。
倶利伽羅さんはそのまま、すぱん、と軽い音を立てて押し入れの襖を斬り捨てた。
薄暗い空間の中には、両膝を抱えて丸まっている少年の姿があった。すん、と鼻を啜った彼は俯いていて、こちらからは旋毛しか見えない。
「良いご身分ですね」
安い挑発に乗る相手ではないだろうが、沈んだ頼りない肩はわたしの嘲りに反応して少し揺れた。
「ひとり隠れんぼの成果は如何ですか? 妹さんは降ろせましたか?」
はは、と思わず笑い声が出てしまう。わたしも随分性格が悪い。まあ、こんな酷い目に遭わされたのだから大目に見てもらいたいところである。
「無理だったんですよね? 素人が簡単に降ろせるなら、そこらにごろごろと死者に取り憑かれた人間が転がっているでしょうよ」
得体の知れないものを自分で呼び出しておいて怯えているとは、まあ。煽る言葉はいくらでも湧き出てくるのだが、わたしは業務を遂行しなければならない。
「大和国本丸識別番号ち三二七一五五六四の審神者さんとお見受けします。あなたのせいで中学生の姿になっておりますが、こちらは歴史保安庁大和国本丸支援課配属のサイトーと申します。本丸に戻ったら刀剣男士の手入れを真っ先に行っていただきますが、ひとまず事情聴取にご協力をお願いします」
少年からの返事は、ない。
「まあ協力と言いますか、強制連行になるのですが。とりあえず動機を拝聴しても?」
「……妹を救いたかった」
それだけ聞いたなら、妹思いの兄だっただろう。問題は方法だ。
「力があるなら正しく使わねばなりません。審神者は公務員、仕事ですので」
審神者は口を閉ざしている。響いているかどうかも分からない。
倶利伽羅さんは抜き身のまま、わたしの隣で周囲の警戒をしてくださっている。先程、媒体となるぬいぐるみは斬り捨てにした訳だが、他にも偶然発生した怪異がないとも言い切れない。
「では、事実確認に移ります。誤りがあればご指摘願います」
隣の部屋で書き殴ったルーズリーフを手元に、ひとつ深呼吸する。
「その必要はないよ」
突然、低い男の声が鼓膜に触れたかと思うと、わたしの腹の中で何かがぞわりと蠢いた。
感じたのは熱だった。何かが這い出るような感覚と共に、背中に悪寒が走る。
「ッ、退け!」
倶利伽羅さんの命令文と共に、わたしの身体は後方へと弾き飛ばされた。受け身を取るのに盛大に失敗し、畳の上に無残に転がった。恥である。
何が起こったのか分からない。とりあえずこんな時にぼんやり転がっていたら命の灯火があっさり消えてしまう。急ぎ姿勢を立て直すと、腹の中の違和感は消えていた。
その代わり、目の前に黒の燕尾服が見える。長い足が畳を踏み締めていて、すらりと長い刀身が蛍光灯の光を浴びて、ぎらぎらと反射した。
倶利伽羅さんがわたしの隣まで戻ってきてくださり、すっかり腰の抜けた社畜を支えて、信じられないものを見る目で、現実を確認している。
「……今更名乗るのも何だけど。燭台切光忠だよ」
聞き慣れているはずの燭台切光忠の声なのに、一音一音に込められた怒りの感情が、内臓を鷲掴みにするようにして零れてくる。
どうやって顕現したのか。倶利伽羅さんに視線を送るも、小さく首を横に振られた。腹の違和感。サンショウウオを介して? いやいやまさか。
「サイトーさん、ありがとう。君のおかげだよ」
こちらを振り向いた燭台切光忠は、人懐っこい笑みを浮かべてはいる。表面上は。
しかもこちらの名前まで知られている。こんな場面で登場するとしたら、彼は。
「大和国本丸識別番号ね四七一三四六五九から、わ八九二一七五八三に譲渡された燭台切光忠だって言えば、納得するでしょう?」
水槽の裏で無残に折れていたはずなのに、目の前の彼の存在感は何だろう。隣の倶利伽羅さんも生唾を飲み込んで、鯉口を切ったまま静観している。
どう手出しして良いものか分からない。いや、邪魔してはいけないと、本能が警鐘を鳴らしている。
何故なら、彼はめちゃくちゃに怒っている。笑顔に隠れているようで、その感情は剥き出しも同然だった。
「そう、分かるよね。大切な人の尊厳を踏みにじられたことに僕は怒っている」
押し入れの中の少年はずっと震えたまま、顔を上げる素振りもない。
「僕を目印にしたんだよね。僕の最初の主を傷付けようとしたのが、君の過ちの一つ目だ」
どうやら、こちらの推測は当たっていたらしい。
め本丸とわ本丸への時間遡行軍の襲撃は、ち本丸の審神者の与り知らぬところで、歴史修正主義者の手によって実行された。
その後、ち本丸の審神者は、め本丸の一振目の燭台切光忠に何らかの術を仕掛け、時間遡行軍を手引きして本丸を襲わせた。ただ、彼が自分の妹の本丸に不正譲渡されていたことを知らず、彼女は致命傷を負った。
淡々と燭台切は述べ、「二つ目」演説は続く。
「妹が大事なのは良いよ。でも縛り付けるのは間違っている。人間じゃない僕でも分かるよ」
その台詞を聞いて、倶利伽羅さんが納刀した。燭台切の背中から滲み出ていた「手出し無用」をきちんと読み取ったからだ。
「三つ目。自分の仕出かしたことは、自分で責任を取るべきだ。君は何処までも周囲を巻き込んで、最後は言い逃れする気だったでしょう。駄目だよ、反省して」
諭すような声音なのに、盛りに盛った殺気が溢れている。仕事中だが、わたしは早く気絶して楽になりたい。
『もーいーかーい』
幼子の、鈴の転がるような声だ。兄を探して、不安そうな。
「ほら、終わりにしよう」
彼の表情はこちらから窺うことはできないが、きっと神さまらしい笑顔をしていることだろう。
しかし、燭台切光忠の言い分をこのまま全肯定する訳にもいかなかった。わたしは抜けた腰を叩いて、倶利伽羅さんの肩を杖代わりに立ち上がる。同僚はこちらの狼藉に舌打ちすることもなく、妙に穏やかな表情でわたしの行動を見守っている。
「しょ、くだいきりさん」
場の空気に呑まれ、早速噛んだ。抜刀したままの彼は「なあに」人の良い笑みを浮かべてこちらを振り返った。背後に「邪魔するな」という文字が見えている。
「大変申し訳ありませんが、彼は法で裁かれなければなりません。死なない程度でお願いします」
「……善処するよ」
ああ、今回の案件はお蔵入りする可能性が限りなく高まってしまった。しがない一職員には圧倒的に力が足りない。発言力も権力も実力も霊力も。無念。
「諦めてどうする」
同僚が鞘で尻を叩いてきた。いや、じゃあ倶利伽羅さんが止めてくださいよ。わたしなんざ一瞬で斬り捨て御免ですよ。流石にちょっと。
殺気に包まれた空間で意味の分からない主張をしていた矢先、燭台切光忠の切っ先の残像が、見えた。
ぱっと血飛沫が天井に飛んだ。少年の叫び声が耳を劈く。
見事に手遅れである。始末書を何枚書けば良いだろう、と現実逃避をしたところで、こちらの要求も虚しく刀を振るってしまった彼が、わたしの顔を覗き込んでいた。
「ごめんね、飛んじゃった」
黒の手袋に包まれた手が伸びてきて、わたしの頬を優しく拭った。中学生の視点では、彼の顔をしっかり見ようとすると首が痛い。
「一応、死んでないよ」
物騒な発言に感謝しながら、わたしは押し入れに近付く。彼の言うとおり、確かに死んではいない。今のところは。痛みに呻き、荒い呼吸を繰り返す少年を見下ろしていても、ただ時間が過ぎるだけである。
「倶利伽羅さん、職場への連絡ってすぐ繋がりますか」
「分かっていて聞くな」
「ですよね……」
つまり助かる可能性は限りなく低い。わたしは頭を抱えた。
「とりあえずメールだけでも試してもらえますか……」
仕方なさそうに倶利伽羅さんは端末を取り出し、ぬいぬいとフリック操作を開始した。めちゃくちゃ素直に従っていただき有り難い限りである。
『……おにいちゃん?』
女児の声が、ふわりと耳元に降りてくる。兄を心配する幼い妹の声を聞いて、押し入れの中の少年が、一筋涙を流した。
「もう良いんだよ。僕もそっちに行くから」
蜂蜜を更に煮詰めたような声音だった。
『でも、ひゃくねんご、やくそくでしょ?』
押し入れの中で血塗れになっている少年が、わっと声を上げて泣き出した。
約束の内容は分からない。別に分かろうとする必要もないだろう。当人が理解していれば、それで十分だ。
ごめん、ごめん。繰り返される謝罪の言葉に、燭台切光忠が静かに目蓋を伏せた。
「あの子、本丸が最初に襲われた時、兄が危ないと思ってメッセージを残したんだ。二回目の襲撃で、僕は本当に許せなくて、塗り潰しちゃったけど」
燭台切光忠の、蜂蜜色の瞳に憂鬱が浮かぶ。後悔と絶望に包まれた悲しみは誤魔化せない。
「彼女は律儀なんだ。『約束したから』だって。そこまで心を砕く必要が本当にあったのかな」
「……あんたはもう眠れ」
倶利伽羅さんが、彼の怒りを否定することなく、ただ静かに次の行動を促した。もうこれ以上、怒り傷付く必要はないのだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて。サイトーさん、迷惑掛けて本当にごめんね」
上辺だけの謝罪ではなかった。ただ、あの場で斬らないという選択肢もなかった。こちらとしては最善を尽くしたつもりではあるが、結果は散々だ。
畳の上には、折れた燭台切光忠の刀身が横たわっていた。
セーラー服のスカーフを抜き取り、刀身を包むために膝を折ると、押し入れから響いていた泣き声も途絶えた。痛みで気絶しただけだと思いたい。倶利伽羅さんが端末を片手に押し入れを覗き込んだ。
「……いや、消えている」
「そんな馬鹿な」
散々どころの話ではない。どうやって報告しろと言うのだろう。絶望に打ちひしがれていると、彼が端末をタップしながら、仮説を話し始めた。
「恐らくあの審神者は、本丸に戻っているだろう。あの少年の姿は、この時代に合わせて作られた形代に過ぎないと推測する」
ただ、刀剣男士から受けた傷は、そのまま本人の身体に反映されている可能性が高い。同僚が淡々と述べるので、わたしは燭台切光忠を慎重に拾い上げて、タスクが山積みで悲鳴を上げている脳味噌から、今一番に優先しなければならない事項は何かを引っ張り出した。
「それで、わたしはどうやって帰れば良いんでしょうかね」
そう、職場に戻らなければ。こんな訳の分からない過去の実家擬きで息絶えるなんて嫌である。
窓の外には、朝日が昇り始めていた。カーテン越しの太陽光に、頭が睡眠時間を求めてずきずきと痛む。徹夜である。いや、今回の案件は時間感覚が完全に狂っているので、わたしは何時間連続で働いているのか、考えるだけで恐ろしい。
「とりあえず眠れ」
「ええ……」
スカーフごと刀身を受け取った倶利伽羅さんは、別の手のひらでわたしの目蓋の上を覆った。殺気に塗れた空気から解放されたことで、どっと疲労感が降りてくる。しかし眠れと言われましても、後のことが気がかりで胃が痛い。
こちらの不安を察知して鉛色の溜め息を零した彼が、よく聞け、と前置きをした。珍しいことが続くものだ。
「……鯛めし屋に行くんだろう。俺ひとりで勝手に行って良いのか」
何故この同僚は、一方的でしょーもない約束をきちんと覚えていてくださるのだろう。
「おい、返事をしろ」
寝ろと言ったり、返事をしろと言ったりと急がしい。
どうしよう、涙が出そうだ。奇跡も魔法もあるのだ。
「是非、一緒にお願いします」
ぐずぐず鼻を鳴らしたまま、わたしは同僚の指示に従って大人しく目を閉じる。
わたしの神さまは、いつだって最強に優しいのだ。