目蓋を押し上げると、何度か見た水槽が聳え立っていた。中を漂っているお弟子さんの姿も健在で、寝惚けていた頭が叩き起こされてしまう。憂鬱の極みである。
身に纏っていたのは、歴史保安庁指定の作業着である。間違ってもセーラー服ではなかったことに安心し、身体があちこち悲鳴を上げていることに嘆き、そして目覚めた場所が場所だけに、不安が腹の中で盛大に暴れ始めた。
実家擬きの冒険譚はどうやら無事に終了したようだ。しかし、何もかもが終わったなら、きっとわたしは職場か病院で目が覚めるものと思っていただけに、この現実はいただけない。どうしたものか。
打ちひしがれるわたしであったが、原因は分かっている。腹の中の怪異だ。
倶利伽羅さんのペンダントで霊力を上手いことアレソレしていただいている訳だが、こいつを何とかしないことには終わりが見えない。
め本丸の審神者さんも、ち本丸の審神者の容態も気になるが、わたしが今一番気にしなければならないのは自分自身の腹の中である。どうやって取り出せば良いんだろう。割腹しかないのか? 病院で何とかしてもらえるのか?
どう転んでも大人なのでひとりできちんと上半身を起こし、作業着のポケットに入れていた端末を思い出す。とりあえず報連相。社会人の基本である。
ワンコールで通話は繋がった。
「お疲れさまです、サイトーです」
『遅い』
早速罵られた。あれだけ飴を振る舞われていたので温度差で風邪を引きそうだが、堪えて言葉を続ける。寧ろこれは通常運転である。
「わたしの位置の特定は」
『問題ない』
こちらが言い切るよりも早く言葉を被せてくる倶利伽羅さんだった。かなり焦れている。わたしはそんなに眠っていたのだろうか。もう体内時計は狂いまくりで何も分からない。
「では、よろしくお願いしまあす」
『あんたが喚び出すんだが』
「何と……」
『早くしろ。こちらの準備は済んでいる』
はあい、と従順に返事をして、通話を切断する。手順は既にメールボックスに届けられていた。添付ファイルを開き、指示を読み込む。
本日何度目か、針で指先を傷付け、己の血を倶利伽羅さんのペンダントトップに擦り付ける。ものすごく罰当たり感があって申し訳ないのだが、これで本当に大丈夫なんだろうか。
不安に駆られると同時、視界が強い光で覆われ、呻きながら目を閉じた。
次に瞬きをすれば、宙を舞った桜の花弁越しに、待ち望んだ倶利伽羅さんの姿があった。見慣れた赤と黒のコントラストに、わたしは自分がきちんと生きていることを実感する。
「待ってましたア!」
「喧しい」
素っ気ない口振りだが、彼の唇からは確かに安堵の息が零れ出ていた。わたしは呻き声を上げながら転がるようにして同僚にタックルを仕掛けたが、普通に躱されて地面を転がる羽目になった。予定調和。
そして転がった拍子に込み上げた吐き気に、わたしは固まった。
「うっ……」
駄目だ吐く。調子に乗ったせいか。いや、兎に角堪えたい、こんなところで嘔吐は勘弁だ。倶利伽羅さんが貰いゲロしてしまったら大惨事である。穢れが断ち切れなくなるぞ。石切丸総括が到着するまでは何としても胃の中に収めておかねばならぬ。
か細く息を吸うも、食道に迫り上がってきてしまっているのが分かる。駄目だ耐えろ、耐えるんだ、飲み会でしこたま飲まされてめちゃくちゃ揺れる快速電車内でも何とか耐えられたわたしなら大丈夫だ、揺れがなければいける!
「おい、我慢するな」
悪魔のような囁きと共に、倶利伽羅さんの大きな手が背中を擦る。やめてくれ、神の前で嘔吐なんぞ許される訳がない。今後の業務と人生に支障が出る。
「……抵抗するなら吐かせるまでだ」
それは尋問拷問の時に言うべき台詞であって、呪詛のせいで可哀想なことになっている同僚に向ける言葉ではない。断じてない。僅かに首を横に振るも、倶利伽羅さんは寧ろその身をわたしの背後に寄せてきた。
背中を擦るのと別の手が、顎を強く掴む。
「無駄だ」
それは悪役に投げ付けるべき台詞であって、必死に両手で口を覆って我慢している同僚に伝えるべき言葉ではない。やっぱり断じてない。
嫌な汗がこめかみを伝う。息が整わない。些細な刺激が加われば一気にリバースである。
倶利伽羅さんの指が、口を懸命に押さえるわたしの指を容易く引き剥がしていく。嗚呼無情。神などいない。いやこの同僚が神さまだけど。
長い指はわたしの両手を絡め取り、革手袋に包まれた細長いものが唇を割る。片手で一纏めにされてしまった哀れなわたしの両手は宙ぶらりん、無防備な口元に呆気なく指が入ってくる。
「や……」
羞恥やら苦しさやらで目頭が熱い。僅かにでも動けばわたしは死ぬ。社会的に死ぬ。わたしはまだ生きていたい。吐くしかないなら、せめて少し離れたところでゲロゲロさせてほしい。
「ちっ」
願いがようやく通じたのか、恐ろしいことに舌を押さえようとしていた倶利伽羅さんの指は口から出された。
震える喉でほっと僅かに息を零した、その時だった。
「見え見えだ」
いやだからそれは遡行軍に伝えるべき台詞であって、やっとの思いで踏ん張っている同僚の背中に落とす言葉ではない。
背中に添えられていたはずの手が、わたしの頭をぐっと地面に向かって押さえつけた。強制的な前傾姿勢に最早パニックである。
込み上げる気持ち悪さに背筋をとにかく戻そうと、力の抜けていた足先に意識を向けたのが駄目だった。刀剣男士に力で敵う訳がないのに、迂闊だったとしか言いようがない。
さっき逃げたはずの長い指が、舌の根っこ付近を強く押さえた。ぼろりと涙が地面に落ちていく。
「! ……っぐ、ゲホッ! ぐ、ウッ……ん、うっ……」
「全部吐き出せ。我慢するなら奥まで突っ込むぞ」
「オェ、ン、う……ゲッ……エェッ……」
悲しみの嗚咽を零す社畜の姿は哀れだろう。指は舌から離れる素振りがない。汚れてしまったであろう手袋を早く洗いに行ってほしいと声高に叫びたいところであるが、生憎全く余裕がない。嘔吐すると一瞬で体力を持って行かれる。
無理。わたしは死んだ。もう生き返らない。
「変に堪えるからだ」
素手で背中を擦る同僚は悪びれた様子もない。鬼だ。貰いゲロをしていないだけやっぱり強いなと思う。頼むから、日頃みたいにもう少し人間に対して慮ってくださってもよいのですよ。本当に。
言葉どおり全てを吐き出した。肩で荒く息をせざるを得ない。勝手に出てくる涙が鬱陶しい。吐瀉物は幸いにもと言うべきか胃液ばかりで、食道が焼けて喉の奥がひりひりする。立ち上がる気力もなかった。
背後で倶利伽羅さんが刀を抜いている音がする。いっそ切り捨ててくれ。
「……ふん。吐き出してしまえばこちらのものだ」
肩越しに、美しい鋼の刀身が視界に入ってくる。言葉通り吐き出してしまった中に蠢いていたそれに、刀身が突き立てられた。
てらてらと濡れた身に刃を受けた山椒魚は、手足をぴんと張り詰めさせてから動かなくなり、拍子抜けするほど簡単に消えてしまった。
「いつまで不貞腐れているつもりだ」
「そう易々と回復すると思ったら大間違いですよ」
畳に転がったまま、わたしは力なく返事を投げる。周囲はがやがやと騒がしい。企画業務課の石切丸総括とヤマダ主査だけではなく、途中ではぐれた鶴丸国永の姿があった。無事で何よりである。
「何だ、反抗期か? 腹が減ってご機嫌斜めか?」
「暫くご飯は大丈夫です。まだお腹と喉、気持ち悪いですし……」
先程の醜態を思い出すだけで気分が滅入る。押しの目の前で嘔吐して自己嫌悪に陥らない人間がいるなら教えてほしい。
鶴丸さんはによによと新しい玩具を見付けたことを隠しもしない表情で、うりうりとわたしの頬を指で突いてくる。抵抗する気力は旅立ったので、為すがままである。
「ほら伽羅坊、相棒が可哀想じゃないか、少しは飴を振舞ってやりな」
「どうして俺が……」
全力で嫌そうな声を出されると、現実味があって良い。
「何卒……」
「拝むな」
寝転びながら拝むのは失礼かと思い、姿勢を正す。嫌そうな顔を崩さず、わたしの不審な動きを見張っている倶利伽羅さんだったが、ちらちらとわたしの腹やら首やらに視線をくださるので、心配してくださっているようだ。
怪異の影響が何処まであるのか分からないが、とりあえずこれで一件落着で良いだろうか。
「報告書が待っている。他課をかなり巻き込んだから、それなりの量になるだろうな」
うへえと呻くわたしに、倶利伽羅さんは膝を立てて部屋の壁に背を預け、通常運営の素っ気ない表情のままだ。鶴丸さんだけが楽しそうにわたしの頬を突いていて、テンションの差が凄まじい。そろそろ鶴丸さんはわたしの頬に飽きても良いと思う。
「そうだ、良い知らせだ。俺の主が意識を取り戻したぞ!」
「本当ですか!」
思わず飛び上がると、鶴丸さんからベアハッグ並みの抱擁を賜った。背骨が折れそうというか、中身がこんにちはしそうである。
とりあえず、良かった。お弟子さんの状況を何とかするには、彼の研究が進むことが必要不可欠だ。鶴丸さんの腕をバシバシ叩いてギブアップの意を伝える。
ね本丸の事後処理は医療機関が絡むから、総務課に相談しなければならない。長谷部総括を頼るとして、乱さんのお化粧の禁術判定はどの部署だ。とりあえず企画業務課か。転送門開発課にはもう二度と足を向けて眠れない。審神者支援課への情報提供も忘れずにしなければならないし、そもそもこの組織体制では業務が上手く回らない。人事課のむっちゃんさんと今度ご飯に行くとして。ああ、考えるだけでもどんどん仕事が増える。怖い。
本来の担当業務をきちんとこなせる日が戻ってくるのだろうか。考えるだけで胃が痛い。
畳を踏み締める足音に顔を向けると、穏やかな笑顔の石切丸総括と目が合った。急いで姿勢を正すと彼はくすくす笑って、わたしの前で膝を折った。
「サイトーさん、お疲れさま」
「色々とありがとうございます、総括」
いえいえ、と彼は微笑んで、わたしの背を支えてくださった。石切丸総括に教えてもらった祝詞と、用意してもらった御札がなければわたしは今頃お空の星になっていたことだろう。深々と頭を下げると、「まずは加持祈祷だよ」という声に、急ぎ顔を上げる羽目になった。
みっちり八時間祈祷する気満々の石切丸総括である。業務時間内にお願いしたい。
「とりあえず、入院は確定しているからねえ……病室でやるのが手っ取り早いだろうか」
「何と」
とんでもない文言が飛び出した。入院ガチャ確定となると、いよいよ担当業務のことを考えて血の気が引く。
同僚を見やると、彼は涼しい顔でこちらを一瞥してから、遠くに視線を向けた。
「あんたの机は書類の山で埋めておいてやる」
「そんな殺生な……山ひとつじゃなくて山脈にする気なんですよね知ってますよ……」
ふん、と倶利伽羅さんはいつものように鼻を鳴らした。完璧な塩対応である。
日常が戻り始めていた。ひとまず残業申請はどうなるのだろう。というか、今は何月何日なのか。端末にはうちの課の厚課長補佐からの鬼電の通知が堪っている。報告、報告……
石切丸総括が残務処理のために立ち上がり、鶴丸さんがその後ろを雛のようについていくのが見える。
部屋は一気に静かになった。障子の向こうは目映い朝が待っている。
また今日が始まる。平日か、休日かも分からない。とりあえず生きているからそれで良いのだ。わたしは疲労に塗れた息をそっと吐く。
「……昼飯を一緒に食いに行くんだろう。さっさと治すことだな」
「く、倶利伽羅さん!」
「拝むな」
網膜を焼き切りそうな朝焼けの中、倶利伽羅さんが柔らかく目蓋を伏せたのが見えた。
終