酸素計画

日記など雑多な文章

日記未満のことを書きます。

映画『ジョニーは戦場へ行った』(4kリマスター)の感想です。

【注意】
・作品の内容に触れています。
これは感想です。レビューではありません。
#鑑賞記録



『ジョニーは戦場へ行った』の感想

・冒頭のアーカイブ映像?を見ていると、当時この記録を撮った人々がどのような目的で、どのように使われることになって、どのような意味を持つのか、何を考えて撮っていたのかが気になります。
あと大勢の人々の考えが同じ方向に向くことの恐ろしさみたいなことを感じます。
(偶然、鑑賞前日に『オルクセン王国史』のコミカライズ版を読んでおり、「確かに軍は突然出現するわけではなく、人々の人生があり、日々のくらし、築いたライフライン、文化があるんだよな……それが戦争につながることへ社会システムの物凄さと、あまりにも人が多すぎて理解を越えてしまう。私の脳では処理できない情報で想像すらできない」と改めて思いました。)

・戦争はやはり当時の最先端医療が注ぎ込まれて、実験場でもあり、人間の負う損傷(攻撃)も研究され尽くしてきたんだろうなと実感します。
(インターネットなどの通信技術は戦争で発達し、最先端の医療技術は軍で試されることがある、など。戦争は国家などの集団がありとあらゆることにおいて技術を発達させなければいけないのだと感じます。戦う前にあった豊かさや文化芸術、娯楽、心の余裕を楽しむ余裕がなくなるのも当然ですが、やはり戦争でいろいろなものが失われていくのは私は嫌だと思います。)

・志願から戦場に行くまでの間に、ジョーは「俺は大丈夫」と本当に思っていたのか、国家や軍に思わさせられていたのか、それともそう思わないとやっていけなかったのか……そんなことを考えてしまいました。

・カリーナとジョーの二人のもどかしい距離感は本当にほほえましいのですが、これから第一次世界大戦なんだよな……になってしまい……

・塹壕で爆発を食らったら衝撃が逃げないのでひどいことになるので、本当によく生き残ったなと思いました。(ジョーからすれば、生き残ってしまったというべきかもしれませんが……)

・自分の体がないことに気づいていく描写があまりにも辛かったです。

・乙一『失はれる物語』で考えたことはありましたが、自分にあった機能が失われる恐ろしさは想像することさえもおこがましいなと思います。

・年数をカウントしていくところの喜びと虚しさがすごくて、辛かったです。
(かつてのままなら亡くなっていたものを、人間の技術や介入で生きながらえさせることは正しいのか?などと考えてしまいます。)
(しかし、そもそも生と死を比べて生に価値を置いていないか、無条件に生きることをよしとした固定的な思考になっていないか、そこには善悪もなく、人間が勝手に価値を持ち込んでいるだけでは?と思います。)

・鎧戸が開けられた瞬間の開放感と、開けてくれた看護師さんの強かさがすごく好きです。

・現実は白黒で、夢の世界?はカラーなのが印象的でした。
特に夢の世界は鮮やかで、回想と後悔、思慕が混ざりあってどこまでが回想で、どこからがジョーの夢(現実ではなかったこと)なのかが分からず、悪夢のようでいて美しく、風や陽射しまで伝わるようで目が離せませんでした。
(お父さんの釣り竿あたりは、「なんでそんなこと言うんですか?」と思いました。平凡こそ最高だろ!!!!平凡をやめたくて、大人になっても虚言とかフェイクニュース拡散とかやめられないより素晴らしいだろ。)(これ自体が過去になかったかもしれませんが。)(釣りが趣味で、たくさん動物を育てて、子どももいて、養蜂までやっているのは、めちゃくちゃ体力があって「どこが平凡なんですか?!すごすぎですよ!!!」と思いました。)
(犬と猫と鳥が出てきて嬉しかったです。)

・カリーナが本当にかわいくて、流行が一周してめちゃくちゃ最新に見える!と思いました。
特に出征する列車に乗るジョーを見送るときの服装がかわいかったです。
ジョーの見送りのためにこんなにおしゃれをしてきてくれて……本当に戦争はよくないです。

・新しい看護師さんの距離感が怖いというか、人間として扱ってくれるのは分かるけど、急に胸に触れるのは少し驚きました。

・クリスマスを書いて伝えてくれるときの、ジョーの見たものが本当に怖かったです。
分かるようで分からない夢の中にいるようでした。

・キリスト?らしい人が出たり、死後の世界を象徴するような場面もあり、表現が今見ても全然古くないどころか、見ていてずっと興味深かったです。

・相手に意思疎通ができても、「みんなに見せてほしい(見世物になるから、そこで稼いだお金を自分にかかるお金にあててくれ)」が、周りからは「反戦の象徴として扱ってほしいのか?(そうでないとしても、戦争でそうなったと知った人の中では、反戦の象徴として掲げる人も出てくるだろう。)」になってしまい、あの部屋で戦争に対する利益、継続、イデオロギーみたいなものが出てきて辛くなりました。
人道ではなく、国家や情勢への影響を考える人々を見て「政治だ……」となりました。
(「政治」という語句の使い方は間違っていて、私の感覚として「政治にはこういう側面があるよな……」という気持ちで使っています。)

・殺してくれと繰り返すジョーに、それでも私は人道的には殺せないと思ってしまいました。
安楽死は正しいのか、どんな状態でも生かすことが最善なのか……(そもそも生かすことを優先すること、生きることを死より優先させている現在の価値観まで含めて考えなければいけないと思いますが、そうすると生死を使って命に優先順位をつけようとするのが今までの歴史で証明されてしまいかねないので、一律で「生を優先する」価値観は運用として楽なのかもしれません。この価値観を変えると、人種、能力、身分等に価値をつけて虐殺しかねないので。私としては、どんな命であっても生きていける余裕のある世界になってほしいです。)(罪人はどうするんだ、といった問題は例外としてここでは考えに含めていません。そこまで考えると、また別の方向に話が広がるので……)

・ジョーの呼吸をとめた看護師さんの気持ちは分かる以外に言えませんでした。
分かるけれど、その行動すべてを肯定することはできないと思いました。

・最後に真っ暗になっていく画面に、これがジョーの世界なんだと息苦しくなりました。
辛さと絶望が想像を越えていて凄まじいとしか言いようがありません。

・最後にどれだけの人が亡くなり、負傷したか、イデオロギーと一緒に出ますが、皮肉がすごかったです。本当に戦争はよくないです……
(よくないというか、人は国家などの集団を作り出し、その集団の利益のためならイデオロギーを振りかざして失われたあまりにも多くの命に勝手に価値をつけて、勝手に尊い犠牲にして、戦争で使っていくおぞましさを理解して、再度戦争をしていかないようにしなければ、と思います。)
(私は戦争を知らない世代で、戦争はよくないと教育されてきたために甘っちょろい理想を考えなしに振りかざしているだけかもしれせんが、理想でも平和を求めていくしかないのだろうと思います。それくらい戦争は嫌です。)

・江戸川乱歩の『芋虫』も反戦ものと評価されながらも作者はそういうつもりはないとどこかで書いてあったのが印象的でしたが、『ジョニーは戦場へ行った』を見たあとだと、『芋虫』は確かに反戦を訴えるものではなく、フェチがすごいと思いました。
フェチというか、身体を失った人への興味が……(ここでの興味は倫理的な側面ではない、好奇、欲望といった意です。オブラートに包んでいるつもりです。)
(読んだ当時から「これは反戦ではないのでは……江戸川乱歩の好奇心がすごいので……」と思っていましたが……)

・戦争や虐殺にまつわるドキュメンタリーをときどき見ますが、「第二次世界大戦時にナチスドイツの収容所で生き延びた人々」や、「東京大空襲の生存者」、「キエフ裁判」「世界大戦時の空襲」などのドキュメンタリーを見ていても、やはり話される方々は被害を受けた(=巻き込まれた人々、被害があった人々)であり、兵士側や戦勝国側で利益を得た、戦争での成功体験(=いい思い出)がある人々の話はなかなかないため、一度調べてみたくなりました。
なぜ戦争を肯定する立場にいるのかを、私は分からないためです。
しかし、そういう立場側の話は、私にとってやはり快いものではないため避けてきました。ただ、そういう立場や価値観も知らないと、いつかは私も教育、イデオロギーで戦争や差別、虐殺を肯定してしまうのではないかと考え、恐ろしいと思いました。
(虐殺をする・肯定する側の作品だと『ヒトラーのための虐殺会議』『風が吹くとき』くらいしか見た記憶がありません。『風が吹くとき』も反戦の内容で、主人公のセリフに「戦争はよかった」というニュアンスがあるくらいですが。『ジョジョ・ラビット』は反戦の話で、主人公も戦争に巻き込まれた側だと考えています。)
(戦争に対していい思いをしている側からすると、「戦争で被害を受けた側の不利益など知ったことではない。自分に利益があれば戦争をしてもいい」という考えにもなってしまいそうで、戦争はひどいことばかりだからしてはいけない、という教育や伝え方だと限界がありそうでは……と最近考えています。他人の人権を認めず、暴力や恐怖で支配し、差別をして利益を搾取することの楽さより、感情的にも労力的にもコストが高く利益が少ない平和を選べるよう人類が家畜化されて、穏やかになるまで努力し続けるほかないのかもしれません。)
(やはり伊藤計劃『ハーモニー』みたいに人類からは意思をなくして、特定の行動への価値評価を高くしてシステム的に行動させて、意思決定に委ねるべきではないのかもしれないなど考えてしまいます。平和に至るまでの決定に対して、人間は非合理的な利益を求めて平和の決定ができなくなる要素が多すぎるため。あと、伊藤計劃『虐殺器官』のように、人間は言葉の力で良心を外して人々を殺してきた過去があるため、簡単に外せない良心を社会システムで構築するしかないのかも……など考えてしまいます。)
(私の思考が人間への失望へ傾いてきたため、いったん考えるのをやめます。)

・ガザ地区にまつわるドキュメンタリーを見ていても、やはりガザ地区の人々か、パキスタン側、イスラエルで政府のやり方や考えに反対する人の映画ばかりを見ていて、戦う兵士側の人々の考えを知らないのは問題だと思いました。
軍のやり方や戦いを肯定する人々はどのようにその考えを支えているのか。教育か、イデオロギーなのか、誰がその考えを主導しているのか、私は知りたいです。
(なぜなら、日本もそういう教育をしてきて、戦争や植民地支配を肯定して、やってきた歴史があるためです。)
(私も、時代や環境、受けられた教育次第では戦争を肯定していたのかもしれない、今の戦争反対という考えも自分自身でその考えを覆すような情報ばかりを調べて戦争に反対できなくなって賛成するのかもしれない、という可能性を忘れずにできるだけ長く平和を望み続けていたいです。)

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