『マミー』 の感想です。#鑑賞記録 続きを読む・映画関係者への誹謗中傷へはしっかり対応すると出されていて安心しました。誰にどんな罪があったにせよ、それを公にぶつけていいわけはないと私は考えているためです。(あと加害者側の家族や近しい人々にそういう攻撃がいく現実も知っていますが、それに対してあまりにも守る側が少ないと思うため、正しい表面だと思います。)・人物の名前が出る際のエフェクトがドキュメンタリーっぽくないというか……良くも悪くもYouTubeみたいに見栄えを気にしている雰囲気があるな……と思いました。(ドキュメンタリーは真面目だったり、硬めの題材を扱っていたりすると、名前に対して装飾はあってもこうしたエフェクトが出ること自体がほぼないと改めて気がつきました。なぜならドキュメントなので、エンタメ的に視覚的に楽しい映像効果は優先順位が低いし、むしろ淡々と名前を出した方がドキュメント感が出るのだなと気がつきました。)(映画でドキュメンタリーだったら、こうやって目を引く表現自体不要で、簡潔で視認性の高い文字表示をしてほしいなと考えています。)・題材、構成は面白いものの……あの……はっきりと誰を取材しているか出してくれません?!?!!!とかなり強く思いました。事件を知っていて、息子さんが冤罪では?と言っているのを知らないと、「誰?!」と最初に思ってしまうし、事件など知っていても「この方は事件関係者の○○さんかな……?推測混じりでドキュメンタリーを見るのはよくないよな……偏見が入るから……」と自分の推測が事実と間違っていないかひやひやしながら見る時間がそこそこあり疲れました。・『正義の行方』の出来がよすぎたな……と改めて思いました。『正義の行方』も『マミー』もほぼ同じ題材を扱いながら、細かいところでストレスを感じるか感じないかで、前者は「なるほど、冤罪の可能性あるか。納得するところもある……再審してほしいですね」、後者は「……再審してほしいけど……この映画、……疲れたな……いろいろ思うところがある……」とかなり自分の中で評価が分かれました。・そもそも『マミー』が結構林死刑囚の家族よりでは?と感覚的にと思いました。どこが?と言われるとあまりはっきりとは言えないのですが、林死刑囚の娘さんが心中した事実が別に事件そのもののが冤罪かどうかの疑惑にまったく関係していないところです。「冤罪かもしれない判決で、死刑囚の家族の未来にも悲劇を招いた」みたいな表現で、鑑賞者に対して感情的に「この事件は冤罪かもしれないだろ!加害者側家族が亡くなっているんだぞ!」と訴えられかけているように感じました。『正義の行方』はこういうのは一切なく、あくまで事件の犯人が誤っているか、正しいと思うか、というものに紐づくインタビューや事実を取り上げていたので、比べてしまったのもありますが……(『正義の行方』は死刑を執行されてしまった方のご遺族の方が出ますが、事件のせいで〜といった文脈はなく、事件時の話をしているところに焦点があたっていました。)・それでも、ヒ素を使った保険金詐欺についてはやっていた人の生々しいことが聞けてよかったです。いや、保険金詐欺はよくないのですが……(ヒ素を舐めてみようも分からないし、体を壊すような詐欺が楽勝って……?と価値観の差にぞっとしました。)(でも、確かにヒ素って病気に見せかけて殺害とかにも使われるそうなので、そうなのかも……?と思わなくもないのですが、もう少し言いようがあるのでは?とも思いました。楽勝はどう言ったとしても、こう……誤解を招きやすすぎる……!)・大金って人を狂わせるんだな~!と改めて思いました。詐欺でお金を稼ごう!遺産4000万をギャンブルに使った!なのも私には理解できない価値観で、怖かったです。こつこつ合法の範囲内で収入を得て、のんびり生きようよ……それはともかく、今も反省していないような言い方に私は感じてしまい(別にこれは犯罪をした方の反省を促すものではないため、どうでもいい個人の感情ですが)、「本当に冤罪を訴える気があるのか?」とは疑問に思いました。なぜなら上辺だけでも反省してます、と言っておいた方が印象はよく世間的にも冤罪を訴えやすいのでは?と感情面では考えているためです。(世間というか、人間が感情的なものに扇動されやすいため仕方がありませんが、本当に冤罪を訴えるのであれば「犯罪をしたときは簡単なものだと思っていた→今はそう思っていない」みたいな構造にした方が一般に受け入れやすいのでは……?と思ってしまいました。)・だからといって、こんな人がいた!だけで、めちゃくちゃ報道しよう!とか、犯人の見込みが濃厚だ!みたいな捜査に動いてしまったとしたら、事実に基づいた報道・捜査をしてくれ!と思いました。・個人的には保険金詐欺狙いの人が関係のない人を巻き込む事件を起こすかと言われると「しないのでは?」と私は考えています。昔の保険金詐欺の事件を見ていると、だいたい親が子、夫婦の片方が片方を殺害、など身内でしているためです。(私は事件への関わりも薄く、何を言っても単なる推測となってしまい事件関係者へ失礼な意見になると思っているため、事件の言及はできないと思っています。しかし、保険金詐欺をしていた→無差別殺人のような事件を起こすと思うか?と聞かれれば疑問です。)・カレーに混入されたヒ素が、林家にあったものと違うのでは?というパートは……ちょっと……とびっくりしました。『正義の行方』が鑑定をやり直した結果をしっかり提示したのに対して、『マミー』は事件当時の鑑定は別の専門家からすれば不備があった、事件当時に見つかった紙コップのヒ素と林家のヒ素は違うと主張しています。しかし、『マミー』は改めてヒ素にした鑑定結果を出していません。鑑定結果やどういった鑑定をしたかを提示されなければ、鑑賞者としては納得できませんでした。印象、感情、状況などの曖昧なもので死刑判決が出されて冤罪の可能性があると訴える映画にもかかわらず、証拠が目に見える媒体として出せるはずのヒ素の鑑定結果を出さない選択をしたこの映画を、正直私はあまり信じられないと考えています。・街中で冤罪を訴える人々に絡むおじさんがちょっとあれな人(論破大好きそう、説教大好きそう、そもそも人にだる絡みするの大好きそう、なぜなら人に説教するのが好きすぎて誰も構ってくれなくなっているから)なのを厄介な人だったなという雰囲気を切り取って映す(冤罪を訴える活動をしている人が後から「○○みたいな人だったな〜」という文脈でやれやれ感を出す)のはどうなんだ?と思いました。死刑と決まったものは違いないと信じている人を皮肉めかして表現したいのでしょうが……ここで死刑を信じているか、冤罪と疑うか、の両者の立場で必要なのはお互いの理解であって、「どちらが意識が高いか」みたいに違いを浮き彫りにさせて対立を煽らせることではないのでは?と感じました。あと死刑を疑わない人に説明しても時間の無駄なので……(こういう対立をあえて映して編集で残した意図も、私はよく分からなかったです。冤罪の活動が大変!なのか、死刑を鵜呑みにする人がいてなかなか再審が進まない!なのか……個人的には、冤罪の活動をしていて、こういう厄介な人もいるんだよね……と映して冤罪は正しいのでは?と偏った意見を推している……?と穿って見てしまいました。さすがに穿ちすぎですが)・警察、裁判所関係者に取り合ってもらえないのが、こう……『正義の行方』と何か取材方法で違いがあったんですか……?とつい穿って考えてしまいます。(逆に『正義の行方』はよく取材をあれだけできているな……とも改めて思いました。)・最後に監督が事件関係者の車にGPSを取り付けるために何度も不法に侵入した(うろ覚えなので不確かです。)で、警察に行っていて……もう……合法の範囲内でしてほしいですとしか言いようがありません。警察の捜査や裁判が下した判決を疑いをもって改めて見つめようとする立場が、不正をしてどうする……という絶望があります。印象で左右されてしまうのはどうかと思いますが、やはり人間は印象による影響も大きいため、「不正を暴こうとしている側」はできるだけ「不正をしてほしくない」と思ってしまいます。そうしないと、冤罪だと主張したいあまりに(あるいは、作品的に注目を集める映像を撮りたいために)不正、捏造、映像の編集で事実を誤解させるように伝えているのでは?と考えてしまいます。・いや、監督自身が真実を追い求める(=映像の撮れ高など)あまりに犯罪をしてしまったことが、警察・裁判所の疑いの残る主張にもつながるのではないか?みたいな皮肉的な主張をしたかったのかもしれませんが……・でも、監督が他人の家に勝手に何度も入ったとすれば、入られた側にとってはとても怖いと思うので……この映画の撮影のために監督によって被害者が出てしまった(示談で終わったようですが)事実は変わりようがないため、手放しで褒められないな……と思います。私が『正義の行方』を見てしまっていることもあり、この件がなくとも個人的にはあまり評価はしていませんが……(試み自体は評価されるべきと思います。)・わざわざ作品内のテロップに入れているのは「こんなことをしてしまった=反省している(隠すわけではない)」という意ならいいのですが、なぜ入れる?とも思います。(監督が自らした行動をエンタメ化しようとしているのなら、嫌だなと思います。なぜなら、私は人生すべてをエンタメ化してエンタメとして済ませてはいけないことまで、エンタメとして消費しているように見えるためです。)・題材と踏み込み方は興味深いものの、同様のテーマを扱う『正義の行方』と比較して見てしまいました。その結果、ドキュメンタリーという表現、何を伝えたいか、冤罪に関わる感情的な感覚、を改めて考えてしまいました。(この映画そのものに関わることではなく、ドキュメンタリーによる情報伝達、製作陣の意見の偏り等を疑ってみることの重要さを考えました。)畳む 鑑賞記録 2024/08/10(Sat) 20:38:36
#鑑賞記録
・映画関係者への誹謗中傷へはしっかり対応すると出されていて安心しました。
誰にどんな罪があったにせよ、それを公にぶつけていいわけはないと私は考えているためです。
(あと加害者側の家族や近しい人々にそういう攻撃がいく現実も知っていますが、それに対してあまりにも守る側が少ないと思うため、正しい表面だと思います。)
・人物の名前が出る際のエフェクトがドキュメンタリーっぽくないというか……良くも悪くもYouTubeみたいに見栄えを気にしている雰囲気があるな……と思いました。
(ドキュメンタリーは真面目だったり、硬めの題材を扱っていたりすると、名前に対して装飾はあってもこうしたエフェクトが出ること自体がほぼないと改めて気がつきました。なぜならドキュメントなので、エンタメ的に視覚的に楽しい映像効果は優先順位が低いし、むしろ淡々と名前を出した方がドキュメント感が出るのだなと気がつきました。)
(映画でドキュメンタリーだったら、こうやって目を引く表現自体不要で、簡潔で視認性の高い文字表示をしてほしいなと考えています。)
・題材、構成は面白いものの……あの……はっきりと誰を取材しているか出してくれません?!?!!!とかなり強く思いました。
事件を知っていて、息子さんが冤罪では?と言っているのを知らないと、「誰?!」と最初に思ってしまうし、事件など知っていても「この方は事件関係者の○○さんかな……?推測混じりでドキュメンタリーを見るのはよくないよな……偏見が入るから……」と自分の推測が事実と間違っていないかひやひやしながら見る時間がそこそこあり疲れました。
・『正義の行方』の出来がよすぎたな……と改めて思いました。
『正義の行方』も『マミー』もほぼ同じ題材を扱いながら、細かいところでストレスを感じるか感じないかで、前者は「なるほど、冤罪の可能性あるか。納得するところもある……再審してほしいですね」、後者は「……再審してほしいけど……この映画、……疲れたな……いろいろ思うところがある……」とかなり自分の中で評価が分かれました。
・そもそも『マミー』が結構林死刑囚の家族よりでは?と感覚的にと思いました。
どこが?と言われるとあまりはっきりとは言えないのですが、林死刑囚の娘さんが心中した事実が別に事件そのもののが冤罪かどうかの疑惑にまったく関係していないところです。
「冤罪かもしれない判決で、死刑囚の家族の未来にも悲劇を招いた」みたいな表現で、鑑賞者に対して感情的に「この事件は冤罪かもしれないだろ!加害者側家族が亡くなっているんだぞ!」と訴えられかけているように感じました。
『正義の行方』はこういうのは一切なく、あくまで事件の犯人が誤っているか、正しいと思うか、というものに紐づくインタビューや事実を取り上げていたので、比べてしまったのもありますが……
(『正義の行方』は死刑を執行されてしまった方のご遺族の方が出ますが、事件のせいで〜といった文脈はなく、事件時の話をしているところに焦点があたっていました。)
・それでも、ヒ素を使った保険金詐欺についてはやっていた人の生々しいことが聞けてよかったです。
いや、保険金詐欺はよくないのですが……
(ヒ素を舐めてみようも分からないし、体を壊すような詐欺が楽勝って……?と価値観の差にぞっとしました。)
(でも、確かにヒ素って病気に見せかけて殺害とかにも使われるそうなので、そうなのかも……?と思わなくもないのですが、もう少し言いようがあるのでは?とも思いました。楽勝はどう言ったとしても、こう……誤解を招きやすすぎる……!)
・大金って人を狂わせるんだな~!と改めて思いました。
詐欺でお金を稼ごう!遺産4000万をギャンブルに使った!なのも私には理解できない価値観で、怖かったです。
こつこつ合法の範囲内で収入を得て、のんびり生きようよ……
それはともかく、今も反省していないような言い方に私は感じてしまい(別にこれは犯罪をした方の反省を促すものではないため、どうでもいい個人の感情ですが)、「本当に冤罪を訴える気があるのか?」とは疑問に思いました。
なぜなら上辺だけでも反省してます、と言っておいた方が印象はよく世間的にも冤罪を訴えやすいのでは?と感情面では考えているためです。
(世間というか、人間が感情的なものに扇動されやすいため仕方がありませんが、本当に冤罪を訴えるのであれば「犯罪をしたときは簡単なものだと思っていた→今はそう思っていない」みたいな構造にした方が一般に受け入れやすいのでは……?と思ってしまいました。)
・だからといって、こんな人がいた!だけで、めちゃくちゃ報道しよう!とか、犯人の見込みが濃厚だ!みたいな捜査に動いてしまったとしたら、事実に基づいた報道・捜査をしてくれ!と思いました。
・個人的には保険金詐欺狙いの人が関係のない人を巻き込む事件を起こすかと言われると「しないのでは?」と私は考えています。
昔の保険金詐欺の事件を見ていると、だいたい親が子、夫婦の片方が片方を殺害、など身内でしているためです。
(私は事件への関わりも薄く、何を言っても単なる推測となってしまい事件関係者へ失礼な意見になると思っているため、事件の言及はできないと思っています。しかし、保険金詐欺をしていた→無差別殺人のような事件を起こすと思うか?と聞かれれば疑問です。)
・カレーに混入されたヒ素が、林家にあったものと違うのでは?というパートは……ちょっと……とびっくりしました。
『正義の行方』が鑑定をやり直した結果をしっかり提示したのに対して、『マミー』は事件当時の鑑定は別の専門家からすれば不備があった、事件当時に見つかった紙コップのヒ素と林家のヒ素は違うと主張しています。
しかし、『マミー』は改めてヒ素にした鑑定結果を出していません。鑑定結果やどういった鑑定をしたかを提示されなければ、鑑賞者としては納得できませんでした。
印象、感情、状況などの曖昧なもので死刑判決が出されて冤罪の可能性があると訴える映画にもかかわらず、証拠が目に見える媒体として出せるはずのヒ素の鑑定結果を出さない選択をしたこの映画を、正直私はあまり信じられないと考えています。
・街中で冤罪を訴える人々に絡むおじさんがちょっとあれな人(論破大好きそう、説教大好きそう、そもそも人にだる絡みするの大好きそう、なぜなら人に説教するのが好きすぎて誰も構ってくれなくなっているから)なのを厄介な人だったなという雰囲気を切り取って映す(冤罪を訴える活動をしている人が後から「○○みたいな人だったな〜」という文脈でやれやれ感を出す)のはどうなんだ?と思いました。
死刑と決まったものは違いないと信じている人を皮肉めかして表現したいのでしょうが……
ここで死刑を信じているか、冤罪と疑うか、の両者の立場で必要なのはお互いの理解であって、「どちらが意識が高いか」みたいに違いを浮き彫りにさせて対立を煽らせることではないのでは?と感じました。
あと死刑を疑わない人に説明しても時間の無駄なので……
(こういう対立をあえて映して編集で残した意図も、私はよく分からなかったです。冤罪の活動が大変!なのか、死刑を鵜呑みにする人がいてなかなか再審が進まない!なのか……個人的には、冤罪の活動をしていて、こういう厄介な人もいるんだよね……と映して冤罪は正しいのでは?と偏った意見を推している……?と穿って見てしまいました。さすがに穿ちすぎですが)
・警察、裁判所関係者に取り合ってもらえないのが、こう……『正義の行方』と何か取材方法で違いがあったんですか……?とつい穿って考えてしまいます。
(逆に『正義の行方』はよく取材をあれだけできているな……とも改めて思いました。)
・最後に監督が事件関係者の車にGPSを取り付けるために何度も不法に侵入した(うろ覚えなので不確かです。)で、警察に行っていて……もう……
合法の範囲内でしてほしいですとしか言いようがありません。
警察の捜査や裁判が下した判決を疑いをもって改めて見つめようとする立場が、不正をしてどうする……という絶望があります。
印象で左右されてしまうのはどうかと思いますが、やはり人間は印象による影響も大きいため、「不正を暴こうとしている側」はできるだけ「不正をしてほしくない」と思ってしまいます。
そうしないと、冤罪だと主張したいあまりに(あるいは、作品的に注目を集める映像を撮りたいために)不正、捏造、映像の編集で事実を誤解させるように伝えているのでは?と考えてしまいます。
・いや、監督自身が真実を追い求める(=映像の撮れ高など)あまりに犯罪をしてしまったことが、警察・裁判所の疑いの残る主張にもつながるのではないか?みたいな皮肉的な主張をしたかったのかもしれませんが……
・でも、監督が他人の家に勝手に何度も入ったとすれば、入られた側にとってはとても怖いと思うので……この映画の撮影のために監督によって被害者が出てしまった(示談で終わったようですが)事実は変わりようがないため、手放しで褒められないな……と思います。
私が『正義の行方』を見てしまっていることもあり、この件がなくとも個人的にはあまり評価はしていませんが……(試み自体は評価されるべきと思います。)
・わざわざ作品内のテロップに入れているのは「こんなことをしてしまった=反省している(隠すわけではない)」という意ならいいのですが、なぜ入れる?とも思います。
(監督が自らした行動をエンタメ化しようとしているのなら、嫌だなと思います。なぜなら、私は人生すべてをエンタメ化してエンタメとして済ませてはいけないことまで、エンタメとして消費しているように見えるためです。)
・題材と踏み込み方は興味深いものの、同様のテーマを扱う『正義の行方』と比較して見てしまいました。
その結果、ドキュメンタリーという表現、何を伝えたいか、冤罪に関わる感情的な感覚、を改めて考えてしまいました。(この映画そのものに関わることではなく、ドキュメンタリーによる情報伝達、製作陣の意見の偏り等を疑ってみることの重要さを考えました。)
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