蜜雨

其之三十六

 たまには身体を休めるのも大事ということで、今日は基礎的な修行だけで終わった。だが、もはや趣味が強くなることや強い相手と戦うことである悟空にとって休みは地獄でしかなかった。仕方なくひとりでも出来ることをしていたが、それも限界がきてしまい、に組手の相手を頼もうと図書室に来ていた。ここにがいなかったら一生来ないであろう本だらけの図書室を見渡す。本、本、本、本だらけだ。小難しい文字が並んでいて悟空にはなにが面白いのかさっぱりわからないが、はよく時間を見つけては本にかじりついている。一度なぜそんな勉強するのか訊いたことがあるが、力では救えない命を救うためだと言っていた。純粋に力を求めている悟空にとって、の言葉はいまいち理解できなかったが、もそれがわかって笑っていたから深くは考えなかった。

「おーい、

 深閑な図書室全体に悟空の声が響き渡る。

「おー……い? ?」

 の名を呼びながら図書室を適当に歩き回っていたら、机に何冊か本を積み上げてノートとペンを広げたまま、腕を枕にしてうたた寝しているを見つけた。どうりで呼んでも返事がないわけだ。規則正しく肩が上下し、悟空が近寄っても起きないほど熟睡している。こんなを起こせるはずもなく、組み手は諦めてなにか掛けるものでも持ってこようかと踵を返した。

「ん……ご、く……」

 悟空がから離れようとすると、がもぞもぞと動いてなにか言葉にならない音を発した。自分の名を呼ばれた気がした悟空は再度に向き直る。いまだに強い光を宿す瞳は瞼によって隠され、スッと通った鼻筋や、やわらかそうな頬、どこからあんな力が出るのか永遠の謎であるほどの華奢な体、長く伸びた艶やかな黒髪――どこをとっても悟空を魅了させる材料にしかならなかった。
 が動いたことでさらりとこぼれた黒髪が口の中に入りそうなので、よけて耳に掛けてやる。たったそれだけのことなのに、無骨な自分の手がに触れるだけで胸が早鐘を打つ。

……」

 思わず名を呼ぶが、静寂に落とされた悟空の声に応えはない。
 指での少しだけカサついた唇をなぞると、その指先からぞわりと電撃が走った。あの時はキスの本当の意味も知らず、好きなら口と口をくっつけるものだと思っていた(実際亀仙人もそう教えていたが、好きの捉え方に相違があっただけである)。今思えば自分の欲求に従っていただけなのかもしれない――以外にしようとは思わなかったからだ。
 もし想いが通じ合ったら、もう一度やわらかなのここにキスをしたい。は果たして許してくれるだろうか。
 悟空がどれほど恋焦がれても、は起きなかった。だが、それでよかった。
 悟空は修行のことも忘れ、ただただ静かにじっとを見つめるのだった。






 其之三十五 / 戻る / 其之三十七