蜜雨

 は自身の気や体調が安定してきたこともあって、妊婦でありながらもバリバリと仕事をこなせるようになっていた。家をふっ飛ばす前は距離が距離なので、たまに舞空術でカプセルコーポレーションへと出社するくらいであったが、現在はブルマの家にお世話になっているおかげで毎日出社が可能だ。ただし気の使用で母体にどう影響が出るかわからないので、悟空や神から舞空術での移動は禁止されている。そこで悟空がの送り迎えを名乗り出た。はじめは筋斗雲を貸してくれるだけでいいと断ったのだが、自分の手から離れるのを許すのだから送り迎えくらいは譲歩してほしいというのが悟空の主張である。のこととなるとてこでも動かない悟空。もちろんが折れた。

 悟空が送り迎えをするようになって早数週間。いつの間にか悟空はカプセルコーポレーションで有名になっていた。朝は名残惜しそうにと別れ、帰りはお腹を空かせて今か今かと主人()を待つ姿はまるで忠犬。あのピッコロ大魔王を倒して天下一武道会を優勝した、おそらく世界一強いであろう男が妻にぞっこんだなんてとんだギャップである。おまけに精悍な顔つきに剛健な肉体、しかし纏う空気感はあたたかくもやわらかい――要は人目を引くのだ。
 他にも悟空を人気者にさせた要因がある。
 ある日、いつもよりもの帰りが遅く、悟空の腹の虫が鳴り止まないときがあった。見かねたカプセルコーポレーションの女性社員がお菓子をあげると、食べ物には目がない悟空は眩しいくらいの笑みを浮かべた。その笑顔に見事女性社員はノックアウト。それから悟空の噂はますます広がり、今では食べ物を差し入れする女性社員が後を絶たない。
 悟空の話を社内で耳にするたびにの心は嫉妬で黒く渦巻く。正直まさか自分がここまで嫉妬深い人間だとは思わなかった。いや、きっと悟空だからだろう。はどうにもならない醜い感情を深いため息に込めて吐き出す。そうして今日もまた女性社員から大量に差し入れをもらって嬉しそうに笑いながら自分を待つ悟空の元へと帰るのだ。



其之五十八




 悟空がお風呂に入っている間はとブルマのガールズトークの時間だ。楽しい時間なはずなのに、はクッションを抱えてソファでくつろぎながらも渋い顔をしていた。

「はぁ……」
「なぁに、そんなおっきなため息なんか吐いちゃって。もしかして孫くんのこと?」
「ぅえ゛?!」

 のわかりやすすぎる反応にブルマは苦笑をもらす。悟空といいといいハチャメチャに強いくせに、こと恋愛に関してはまるで無力だ。
 もちろんカプセルコーポレーション内で囁かれている悟空の噂はブルマの耳にも入っている。ただでさえが入社したとき、その美しい容姿もさることながら早々に立ち上げた新事業で話題になったというのに、今度は旦那が注目の的だ。もはやカプセルコーポレーションの名物夫婦であることは、本人たち以外には周知の事実であった。

「モテる旦那が不安?」

 ニヤリと口角を上げるブルマには口を噤む。どうやら図星のようだ。
 確かにチビの頃の悟空と比べたら、顔や体つきも男らしく格好良くなったとは思う。しかし中身はチビの悟空のまんまで、今も昔もずーっとしか見えていない。これ以上ないくらい悟空はに入れ込んでいるというのに、まだ不安に思うだなんて贅沢な悩みである。しかし嫉妬や独占欲などとは無縁だと思っていたがこれほど欲にまみれるなんて意外だった。も大概悟空しか眼中にないというわけか。

「……似たもの夫婦ねえ」
「? なんか言ったブルマ?」

 ぼそりとブルマはひとり呟いた。

「ま、の気持ちはじゅーぶんに伝わってきたわ! このブルマさまに任せなさい!」
「私なんにも言ってないんだけど……?」

 急に高笑いしだしたブルマについていけず首を傾げる。そしてその図を目撃した風呂上がりの悟空も、と同じように首を傾げるのだった。



 がもんもんと思い悩んでいる一方で、実は悟空ものモテっぷりをどうにかできないかとブルマに愚痴をこぼしていた。
 長年男装をしていたせいかは男性のみならず、女性からも親切でカッコかわいいと人気があった。重い物を男性よりも軽々と持ったり、セクハラやナンパを撃退したりとのモテ要素は枚挙にいとまがない。加えての都会に染まらない可憐で清楚な見た目と純朴な雰囲気に魅了される者が続出。あの悟空ですらに複数の好意が向いているのに気づいてモヤモヤしているというのに、自身はまったく気がついていない。それもこれもで悟空に一途すぎるせいである。
 そんなお互い様の状況を打破するためにブルマは考えた。
 今後一切贈り物は受け取らないこと、の送り迎えは目立つ正面玄関ではなく人気のない屋上で行うこと、そしてを安心させるためと、余計な虫が寄らないよう指輪をプレゼントすることを悟空にアドバイスした。以前結婚式を挙げる際にもちろん指輪の話も出たのだが、も悟空も必要ないときっぱり断っていたのだ。理由は組手や料理のときに邪魔になるし、なにより壊してしまうからというなんともふたりらしい言い分であった。

「そこで孫くんにはカッチン鋼を採ってきてほしいの!」
「カッチン鋼?」

 宇宙一の硬度を誇るカッチン鋼は、険しい山脈が連なるどこかの洞窟にあり採取は困難とされている。だが悟空ほどの手練れであれば、たいした問題はないだろう。それにカッチン鋼なら、さすがのや悟空でも壊せないはずだ。
 悟空はブルマの提案に戸惑うが、が喜ぶ顔を見たくないのかとブルマにせっつかれる。そういえば最近思いっきり笑ったの顔を見ていない気がする。そんなが笑顔になるのなら、自分はなんだってしよう。悟空は今度こそ飛び立った。



*




 屋上のドアを開ければ、ひんやりとした夜風がの髪を弄ぶ。いつもならばドアを開けた先で悟空が待っているはずなのに、その場所に悟空はいない。果てない暗闇ばかりが広がっていた。

「悟空……?」

 まさかなにかあったんじゃ――いや、悟空に限ってそんな――不安に駆られたがか細い声で悟空を呼ぶ。



 背中へあたたかな声が降り注ぐ。まるで太陽のような絶対的な安心感を与えてくれるその声の主はもちろん――

「ごくっぅわぷ!!」

 振り返りながら悟空の名を紡ごうとしたが、の前になにか差し出されてかなわなかった。

「っこれ……?!」
「へへ、この花前にが好きって言ってたろ?」

 は悟空のまばゆい笑顔とともに差し出された花束を受け取る。買ってきた綺麗に飾られた花束ではなく、無造作に摘まれた花の束を渡すあたり悟空らしい。
 この花は師匠の墓の近くの丘にしか咲かない花だった。天下一武道会が終わった後、師匠の墓参りをするときに摘んだ花。それは師匠との好きな花であった。たった一度きりしか話していなかったのに、悟空はしっかりと覚えていてくれたのだ。

、左手出してくれ」

 言うがいなや悟空はの無防備な左手を取り、薬指になにかはめ込む。はすぐに指輪だと気がつき、悟空と自分の左手を交互に見つめ、やがてふにゃりと泣きだしてしまった。

「う゛ぅう゛~……っ!」
「なんだよ、泣くこたねえだろ」

 困ったように笑う悟空は泣いて紅潮しているの両頬を両手で包み込み、次々とあふれる澄み切った雫を親指で拭い続けた。互いのどろどろとした感情が洗い流されていく。

はオラのもんだ。誰にも渡さねえ」

 ずいぶんと遠回りしてしまったように思う。結局はは悟空に夢中だし、悟空はに夢中だというのに、他人の目に振り回されていた。しかしこれからはこの指輪では悟空を感じ、悟空もまたが自分のだと思える。たったひとつの愛の証がこうも自分たちを繋いでくれるとは思わなかった。

「笑ってくれよ、

 泣いた顔や怒った顔のだって好きだけれども、やっぱり笑った顔が一番好きだ。何度だって恋をしてしまうくらいに。



*




「なあ、。この花なんていうんだ?」

 放射状に広がる花びらや、寄り添うように花を咲かせる様はまるで夜空に光る星々。花言葉は、きみを忘れない。
 この清らかな花が無数に咲き乱れるあの丘でと沙門は出会った。花に囲まれながら泣き叫ぶ赤子のを沙門が見つけてくれたのだ。今でははるか遠くへいってしまった師匠との大切な思い出。今度はこの花を見つけるたびに師匠だけでなく、悟空も思い出されるのだろう。そうして思い出は決して褪せることなく続いてゆく。

「この花の名前はね――」






 其之五十七 / 戻る / 其之五十九