蜜雨

「やあ、黒尾くん。その節はウチのがお世話掛けちゃってごめんねえ。今日は宜しく」
「いえいえ、とんでもない。こちらこそ今日はそのちゃんがボクらの面倒見てくれるみたいで、どうもすみませんねえ」

 孤爪回収に伴ってと孤爪が思いの外仲良くなるという隠しイベントが発生したが、ともあれ青城と音駒の練習試合が始まろうとしていた。しかしその前に両主将が挨拶という名の開戦宣言を行うと、うちの子アピールが激しい及川はパワー5握手を黒尾と交わしつつ夜露死苦とガンを飛ばす。握られた手の痛みなど感じさせないほど爽やかな微笑みを張り付けた黒尾は黒尾でさらりと嫌味を吐いている。そしてふたりは同時に「あ、コイツ食えないタイプの奴だ」と考えていたのだった。



第20話




「黒尾くん、手おさえてどうしたの?」
「あー……ちょっとな……」

 黒尾が言っていたように、今日は音駒側にいるが早速黒尾の異変に気付いた。まさかのとこのイケメン5リラ主将と握手した所為とはさすがに口に出せなくて濁していると、少し焦ったが黒尾の手をそっと包み込む。

「さっきの全体練習で突き指したとかじゃないよね? テーピングとかしなくて大丈夫?」

 大怪我を負ってから、怪我には敏感になったの手が必死に黒尾のごつごつした手に触れて心配する様に思わずぐっと胸を打たれる。

「その不意打ちは反則デス……!」
「ちょっと黒尾くんホントに大丈夫?!」

 上昇した体温を鎮めるようにに握られた手はそのままに蹲ってしまった。そんな黒尾がイケ5リ及川さんグッジョブなどと考えていたなんて、慌てるにほっといていいよと声を掛けた孤爪にしかわからないだろう。

「何アレ、ちょームカつくんですけど」

 と黒尾のやり取りを青城のベンチスペースでしっかりと目撃していた及川は、不機嫌さを隠しもせずに悪態を吐いた。

「元はと言えばお前が力加減考えずに手ェ握るからだろーが! この5リラ!!」
「ひっどーい岩ちゃん! 俺はみんなの気持ちを汲んであげただけなのに!!」

 及川の頭をすぱーんと気持ちよく引っ叩いた岩泉も、やはりと黒尾のやり取りが気に喰わないのか心なしかいつもより言葉や行動に怒気が多めに含まれている。

「うるさいぞお前ら! おいコイツら、を……」
「コーチ、今日は音駒につくってさっき自分で「わっわかっている!」

 松川の冷静なツッ込みに溝口まで声を荒げる。いつもの調子でついつい無意識にの名を出し、及川と岩泉の仲裁を頼もうとしてしまったのだ。

「おーい、お前らそろそろ試合始めるぞ」

 猫又と話していた入畑が青城側へとやって来て、あらかじめ設置されていた監督席へと腰を下ろしながら口を開く。

、いつもの頼……すまん」
「監督まで……」

 ここまできたら苦笑を漏らすしかない花巻であった。






「お前ら既に気づいてると思うが、今日はあちらのご厚意でがウチをサポートしてくれることになった。タオル、ドリンク全てが準備してくれたものだ。礼を言うように」
『あざッス!!!』
「この間ご迷惑をかけたお詫びみたいなものなので気にしないで下さい。今日は皆さんの活躍を楽しみにしてます。頑張って下さいね!」

 そうだった――影山は破天荒なところもあるが、まともにしてれば相当な美人だった。の笑顔だけで、女子マネージャーに免疫がない音駒の男バレのテンションが上がったのは言うまでも無いだろう。ちなみに山本は今日限定でも女子マネが音駒にいる事実に感激しすぎて涙ぐんでいた。

「ところでチャンさあ……うちのベンチにいるのに青城ジャージじゃ浮くでしょ? これ着てなヨ」
「音駒の赤ジャージ? え、でもこれ黒尾くんのじゃ……?」
「いいからいいから」

 ニヤニヤしながら黒尾がぐいぐいジャージを押しつけてくるので、は仕方なく音駒の真っ赤なジャージを受け取って羽織った。

「うわっ絶望的に青城の下と赤ジャー合わな!」
「下も貸して欲しいなら貸すけど?」
「いや、そういうこと言ってるわけじゃないから」

 彼ジャーを着せることに成功した黒尾は満足げにほくそ笑みながら、ちらりと青城サイドに視線を送った。すると黒尾とを監視していた青城レギュラー陣(とその他大勢の部員)が人を殺せそうな眼光で睨み返す。その様子を少し離れた場所で遠目で見ていた孤爪は、口を挟むのも面倒なのか呆れた顔で黙って見守っていた。

、ふざけてねえでちっと犬岡のテーピング出来るか?」
「はーい、ただいま!」

 そんな黒尾との間に声を掛けたのは猫又である。いいところだったのにと残念に思う反面、のテーピングに興味がある黒尾はそのままについていく。

「犬岡は元々関節が緩くてな、足が内反しやすい。捻挫予防目的で軽く固定するくらいで頼む」
「わかりました。ホワイトでスターアップ1本入れて、あまりテンション掛けずにキネシオでエイト巻くくらいでいいですか?」
「そうだな、ヒールロックまではいらんだろう」
「怪我してるわけでもないですし、あまり固定力強くし過ぎても負担掛かりますしね」

 トレーナーバッグをあさりながら猫又の言葉に即座に対応するは、先刻のゆるい笑顔と雰囲気を持つ可憐な女子ではない――選手と真剣に向き合うマネージャーの顔をしていた。

「おっお願いしァス!」

 張り詰めたの雰囲気に呑まれた犬岡は、どこか緊張した顔でベンチの端から足を差し出した。

「オーケー。なるべく足関節90度キープしててね」

 犬岡の足裏を自身の大腿に押し付けて90度にさせ、迷いなくテープを貼り出した。その慣れた手つきに皆感心する。マネージャーがおらず、テーピングもコーチに頼むしかないので、マネージャーがテーピングを貼ってくれるのが物珍しいのだ。

「よし、出来上がり!」
「ありがとうございます!!」
「少し動かしてみて? キツかったらハサミ入れて緩めるけど」
「イイ感じッス!!」
「よっしゃ! じゃあいってらっしゃい!!」

 自分の持てる最高の笑顔で背中を叩いて犬岡を送り出すと、結構な強さで叩かれた犬岡は前につんのめってしまった。

「あ、ごめん! いつものクセで思いっきり……!」
「大丈夫ッス! なんか今の元気注入されたみたいですね!!」
「確かに試合前は私がみんなの背中叩いて気合入れてるから、つい……ね」

 眉をハの字にして申し訳なさそうに笑うをからかおうとした黒尾よりも先に、夜久がに声を掛けた。

「いいな、それ。俺も頼めるか?」

 にかっと黒尾と違ってまったく邪気の無い笑みを見せる夜久の次には仏のような微笑みを湛えた海がいて、ちゃっかりと福永も並んでいた。

「あっ、えっ、おっ俺、は……っ!」
「虎、ちゃんと日本語喋って」

 とどうにかして触れ合えるチャンスが巡ってきたが、いざその時が訪れると挙動不審になってしまう山本に孤爪の容赦ないツッ込みが入る。

「けっ研磨も気合入れてほしいって?! しょっしょーがねえ奴だなあ!」
「はあ?」

 孤爪を利用して自分もついでにに話し掛けようと、訝しげに顔を歪めて不快感を露わにする孤爪の背中をぐいぐい押す。孤爪が根性や気合などという精神論とは無縁なことなんて山本はもちろん知っているし、も心情を察したのか孤爪の背中はやんわりと叩くぐらいに留めて、山本には笑顔で思い切り背中を叩いてやった。

「俺もう一生背中洗わねえ…!!」
「汚い」

 自分を出しに使った山本に冷たく当たるが、当然山本は女子の手の感触をしっかりと胸に刻み込むことに精一杯でそれどころではない。これ以上つばさを直視できなくて福永に泣きついていた。

「みんなひでーなあ、主将の俺を差し置いて」
「おやおや? 黒尾くんもして欲しいのかなあ?」

 いつも不敵な笑みを浮かべて底意地の悪さを発揮する黒尾も、夜久を始めとした部員に先を越されてしまって少々不貞腐れ気味だ。そんな黒尾が珍しくて、ついついも黒尾のようなニヤニヤとイヤらしい笑みを零した。してやられた悔しさが滲むが、それよりも他の部員がしてもらったようにの激励が欲しくて、大きな背中を丸めての目の前に差し出す。

「……オネガイシマス」
「ふふっ素直でよろしい! いってらっしゃい! 怪我しないでね!」

 力強く叩かれた背中がじわりと熱を持ち、と会わない間、内に籠って煮え切った想いがぶわりと溢れる。愛だとか好きだとか月並みな言葉で今のこの感情は表せないけれど、確実に黒尾はに感情を支配されて奪われていたのだった。






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