作品ID:1593
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永遠の終わりを待ち続けてる
小説の属性:一般小説 / 未選択 / 感想希望 / 初級者 / 年齢制限なし / 完結
前書き・紹介
消えてはいない
前の話 | 目次 | 次の話 |
『私のヴィリーが』と綾袮は言った。けれど、ウィリアムはヴィルフリートのことを、綾袮の前でヴィリーと一度も呼んではいない。ヴィルフリートとは呼んだ。俺の従兄弟とも呼んでみせた。
けれども、遠い昔に少女が従兄弟を呼んだ愛称をウィリアムは綾袮の前で使っていない。ヴィルフリートも名乗りはしていない。それは、普段からの習性でもあった。
シエルリーデが眠りに就いてから、ウィリアムとヴィルフリートがお互いの本当の名前を呼ぶことを許したのは、一年の間で遠い昔にシエルリーデが永い眠りへと旅立ったその日、その日だけ。
それがウィリアムとヴィルフリートの暗黙の了解となっていた。それ以外の日々、シエルリーデの生まれ変わりであるとしか思えない少女が現れた今日を除いて。
二人がお互いの名をその日以外に呼んだことなど、この数百年。一度たりとてなかったのだ。なのに、綾袮は当然のように彼の愛称を口にしてみせた。それは、綾袮の中に確かにリーデがいるということ。
大事なお嬢様が突如として自室に籠り切ってしまったことに、使用人達は皆一同に頭を悩ませていた。千年家の一人娘、綾袮お嬢様は、この三日間、自室から一歩たりとも出ようとはしない。
使用人達がどれだけ呼び掛け、話を聞こうとしても、頑なに扉の鍵を開けようとも、誰かと一言話そうともしてはくれない。常にはないお嬢様の態度に、使用人達は困り果てていた。
千年家のお嬢様の御両親は、年中多忙を極める御二人で、日ごろのお嬢様のお世話は使用人達が引き受けている。なので、お嬢様のお世話に関することで使用人達が二人に連絡を取ることは殆んど無い。
けれど、この数日間のお嬢様の様子は只事ではないと判断した使用人は、お嬢様の御両親にこの数日間のお嬢様の様子を添えて一報を入れた。
「……綾袮ちゃん、お母さんよ」
扉の外から聞こえた声に、綾袮はベッドからのそりと起き上がった。聞き違えでなければ、今、扉の外から母親の声が聞こえはしなかっただろうか?
「綾袮ちゃん、お母さんの声が聞こえる?」
「お母さま? お母さまがどうして……」
聞こえる声はやはり母親のもので……。困惑して問い掛けた綾袮に、柔らかな声が扉の外から響く。
「この数日間の綾袮ちゃんが、あんまりにもおかしいって、みんな心配してくれてたのよ? 綾袮ちゃんの様子がおかしいのは確かなんだけれど、自分達じゃ駄目みたいだからって……」
返された言葉に、使用人達が両親に連絡を入れたのだと綾袮は知る。
「綾袮ちゃん、何か困ってるなら、お母さんには話せない? もう随分、きちんと食事もしていないんでしょう? そこまで綾袮ちゃんを追い詰めちゃったのは、どんな困りごとかしら?」
「心配をかけてごめんなさい。困っているわけではないの。ただ、悩んでることがあって、どうしていいのか自分自身でも答えが出せないだけで……」
綾袮の言葉に、扉の外から小さな息が聞こえる。
「綾袮ちゃんを追い詰めちゃってる悩みは、お母さんに話せることかしら? お母さんは聞いてあげられることが出来る? お母さんが力になれること?」
柔らかな母親の言葉に、綾袮は泣きそうになりながら黙り込んだ。それを綾袮の返事と、察しのいい母親は受け取ってくれたらしい。扉の外から再び柔らかな声が響く。
「お母さんね、追い詰められちゃってる綾袮ちゃんを、これ以上追い詰める気はないわ。だから、綾袮ちゃんが話せないって言うことを、無理やり聞き出そうとはしない。
でも、お母さんの出来る範囲で力にはならせてね。ここ数日お部屋に閉じ籠って、それでも悩みの答えは出なかったんでしょう? なら、今度はちょっと気分を変えてみないかしら。
お母さんと久しぶりにお出かけしない? 行き先は綾袮ちゃんの行きたいところで構わないわ。遊園地でもいいし、水族館でも動物園でも映画館でも。
勿論、ふらっと街を歩きながら、ウィンドウショッピングとか、お買い物とか、ケーキ屋さん巡りとかでもいいわ。なんなら、アイスクリームやクレープの食べ歩きにだって、お母さん、付き合っちゃうわよ?」
母親は仕事で多忙なはずなのに、心から綾袮を心配して、綾袮の悩みがどうすれば解消するかを探そうと提案してくれる。数日間籠城した自室の扉の鍵を開き、綾袮は泣きながら肯いた。
母親の提案の中から綾袮が選んだのは、ウィンドウショッピングとお買い物、それから綾袮の好きなケーキ屋さんでのゆっくりしたティータイム。
大量の買い物袋の山を携えて、お気に入りのケーキ屋さんで一番好きなケーキとブレンドティーを注文して、日頃は中々無いチャンスに、母親とゆっくり色々な話をして……。
綾袮は小さな頃の記憶を少しだけ思い返した。一人娘の綾袮には色々な才能を伸ばすチャンスや機会を与えようと、両親は綾袮がほんの小さな頃から数えきれないお稽古やレッスンに取り組ませてくれた。
ピアノ、バレエ、演劇、水泳、声楽、外国語、ヴァイオリン、茶道に華道、社交ダンス、と、いった具合に。けれど、決して強要はしなかった。辛いなら辞めていいからね、それが母の口癖で……。
バレエと水泳はなんだか合わなかったから、一番に辞めさせてもらった。それから、演劇も。お茶とお花は好きだったから、本格的に習い始めた。社交ダンスも楽しかったから、苦痛には思わなかった。
ピアノや声楽も、大好きで仕方がなかった。毎週のレッスンが楽しみで楽しみで……。音楽狂いの綾袮と呼ばれるくらいである、音楽に関するものなら、どれも大好きだった。
そう、ヴァイオリンだって、最初の内は大好きだったし、レッスンを受けるのも楽しみにしていたのだ。それがいつしか変わってしまったのは、音楽教室の合同演奏会。
同じ教室に通う少年が舞台でヴァイオリンを演奏したときだった。そのときの綾袮はピアノで舞台に立っていたのだけれど、舞台に立つ少年がヴァイオリンを弾く姿に、何故か感じてしまったのだ。
綾袮にとって、ヴァイオリンは自分自身で演奏するものじゃない、と。綾袮にとっては、ヴァイオリンは誰かが演奏する姿を見る方が楽しい楽器なのだと。
突然にヴァイオリン教室を辞めたいと言い出した綾袮に、それまでの楽しそうな綾袮を知っていた両親は当初は驚いてはいたものの、二日間話しあって辞めさせてもらった。
ごめんなさいと言った綾袮に、母親はちょっと困ったような顔をして、謝らなくていいのよと告げた。謝らなくてもいいのよ、綾袮ちゃん、と。
やりたくないことはやりたくないと言っていい。そういうお約束で、お父さんもお母さんも色々なお稽古とレッスンに引っ張り出したんだから、と。
ケーキ屋さんでのんびりと会話を楽しみ、昔話にも花を咲かせながら、綾袮は一つ、結論を出す。ポットで頼んだブレンドティーの最後の一杯に口を付けてから、綾袮は母親に切り出した。
「お母さま、連れ出してくれて有り難う。なんだか少しだけ振っ切れそう。それでね、お願いがあるんだけれど、聞いてもらえる?」
綾袮の言葉に母親はニッコリと微笑んだ。
「ええ、勿論。お母さんが叶えられる範囲のことなら何でも聞くわよ? お母さん、言ったでしょう? 『お母さんの出来る範囲では力にならせて』って」
無理やりで無茶苦茶だとも取れるような綾袮の頼みを、母親は二つ返事で引き受けてくれた。
「……僕はリーデに何をしたんだろう…………。あの子があそこまで僕を拒絶するような原因を、僕が作ったってあの子の言葉はそういうことだ。僕の起こしたことで傷付いて、僕を封じたって。
僕があの子にしたことで、あの子は傷付いた。だから、僕のことも僕らが過ごした日々のことも無いことにしてしまった。だけど、何を? 僕はなにをしたんだ!?」
俯いて唇を噛み締めるヴィルフリートを、ウィリアムは何を言うことも出来ずに、ただ、見守るしか出来ない。今、ヴィルフリートとウィリアムがいるのは、テレビ局の控室だ。
ヴィルフリートとウィリアムのlamiaの収録自体は終わっているが、編集だか何だかに問題が有ったらしく、出演者は全員待機させられている。
綾袮と出逢ったあの日から、数週間が経とうとしていた。あの日、彼女はヴィルフリートやウィリアムの制止の言葉を振り切って、逃げ出すようにして走り去ってしまった。
ウィリアムもヴィルフリートも、あれから一度も綾袮の姿を見かけたことはない。彼女の方にはもう、二人と連絡を取るつもりなどないのかもしれない。
綾袮に、シエルリーデに詰られたあの日から、ヴィルフリートは彼女が自分のことを忘れてしまった原因が、何処にあったのかに躍起になって思いを巡らせている。
けれど、正解などみつからない。みつかるはずもないのだ。ヴィルフリートが自分自身で簡単に導けるようなところに、ウィリアムが簡単に辿り着けるようなところに答えがあるのなら……。
そもそも最初から、ヴィルフリートやウィリアムが、そんな真似を仕出かすわけはなかったのだから。だからこそ、ヴィルフリートは思い悩んでいるし、ウィリアムの方も頭を抱えている。
あの日以降、ヴィルフリートもウィリアムも、自然と自分達の名前を日常に使うことを解禁させた。勿論、人目のある場所では、ルイスエンド・ルヴィスとエイスエルド・エディルのlamiaだけれど。
そこに、控室の扉を叩く音が響いて、ウィリアムはヴィルフリートの肩を叩いた。スタッフが呼びに来たのならば、自分達は仮面を被らなくてはいけない。lamiaは控室の客を受け付けない。扉が叩かれたのならば、それは十中八九スタッフだ。
「lamiaは収録取り直しかい? っと、失礼。不遜な口調がどうもいけないね。気を悪くしないで頂けたら嬉しいのだけれど」
控室の中からウィリアムが演じたエディルの言葉に、思いがけぬ反応が扉の外から寄せられた。
「ふざけた口を叩いていないで、扉を開けて部屋に入れては頂けないの? 三秒待って、それでも開けても入れても頂けないようなら、わたしは帰りますから!!」
座っていた椅子を派手な音を響かせて倒し、扉の前に歩み寄ったのはヴィルフリートだ。ウィリアムは何が何だか解らないまま、間抜けに立ち尽くした。
ヴィルフリートが開いた扉の向こう、黒髪ストレートのロングヘアーを丁寧に編み込んで、複雑な髪型に美しく結い上げた、色素の薄い瞳を持つ、綺麗な女の子。千年綾袮が口を曲げて立っていた。
「リーデ!! ……じゃなかった、綾袮? ど、どうして…………」
叫んだヴィルフリートに綾袮は威圧的な口調で告げる。
「残り二秒よ。わたしは、『部屋に入れて頂けなくても帰る』と言ったわ」
慌てて扉の内に招き入れ、扉の鍵を落とした瞬間、綾袮は思い切り剣呑な目付きでもって、ヴィルフリートとウィリアムを睨み付けてきた。
「お訊きしてもよろしいかしら? 貴方達二人、大馬鹿なの? それとも、単にわたしに喧嘩を売るだけ売りたかっただけなの? どちらなの?」
あまりな発言にヴィルフリートとウィリアムが二人して呆気に取られていると、綾袮は眦を吊り上げて更に睨みつけてくる。
「lamiaの公式発表は絶対的に守られてるのよ!? そんな中で、わたしはどうやって貴方達二人にコンタクトを取れると? 貴方達、確かに言ったわよね? わたし達には時間が必要だって。
あれは、貴方達とわたしが話したりする時間が必要だという意味だと、わたしは受け取ってたんだけど、違ったみたいね。いわゆる別れ文句だったわけ。とてもややこしい別れ文句。
『ぼくたちには距離と時間が必要だよ』っていう類のね!! ええ、この数日でよく解ったけれど、それならそうと、最初から解りやすく言って欲しかったわ!!」
矢継ぎ早に繰り出された言葉に、ウィリアムは慌てて制止の言葉をかけた。
「ま、待った、綾袮!! 俺達が言った『必要な時間』はその意味じゃない! きみが受け取った通り、俺やヴィリーと話をする時間や共に過ごす時間を作って欲しいって言う意味だ!!」
ヴィルフリートも慌てて否定する。
「ウィルの言う通りだよ、僕達と過ごす時間を作って欲しいって意味だった。でもキミはこの数週間ずっと音沙汰無しだったし……。もう、無理なのかと思ってた」
ヴィルフリートの言葉に、綾袮が噛み付いた。
「ねぇ、わたしの話、聴いてくださってた? 繰り返しますけれど、lamiaは『ステージ以外のプライベートを完全に守られた、普段は都会の喧騒に紛れてひっそりと正体を闇に隠して生きる吸血鬼』よ!!
これで、どうやってわたしが貴方達を探し出せると思うのかしら? 貴方達二人がわたしの家を探し当てる方が簡単でしょうっ!! それとも人を困らせて遊ぶ趣味でも持ち合わせていらっしゃるの?
テレビ局のスケジュールと出演者を探し当てるのと、ここまで来ることに、どれだけお母さまに無理を頼み込んだと思っているのよっ!?」
綾袮の方は完全に怒り心頭の様子だが、ヴィルフリートは綾袮の指摘するところに思い至って、間抜けな声を上げた。
「あ……!!」
控室のソファーで、ヴィルフリートの前に座った少女は、静かに語り出した。
「貴方達のライブから走って帰った後、わたしは屋敷の自室で数日間、籠城してたの。使用人達がみんな心配してくれたけれど、絶対に部屋の鍵を開けなかった。
あからさまにわたしの様子がおかしいって言うので、屋敷の人間が母親に連絡を入れてくれたのよ。わたしの両親は普段から凄く多忙を極める人達で、普段、屋敷の人間はそんなことはしないんだけどね。
わたしの様子を聞いて、心配したお母さまが、忙しい中で無理やり時間を取って下さったの。『言えないことなら無理に聞き出そうとはしない』って言ってくれて……。
気分転換に外に出てみないかって引っ張り出してくださったのよ。いろんなお店を巡って、お買い物をして、ケーキ屋さんでのんびりしたティータイムをして、色々お喋りして……。
わたし、幼稚舎くらいまでの小さい頃の記憶が凄く曖昧なんだけれど、そのときにお母さまに教えて頂いたの。小さな頃のわたしって、絵本を読むのも大好きだったんですって。それも、王子様のお話が特に。
それを知ってる周囲の大人に、『綾袮ちゃんはどんな王子様が好き?』って訊かれたわたしの答えを教えて頂いて、わたしはやっぱり貴方達と話すべきなんじゃないかと思ったの」
瞳を伏せて静かに話す綾袮の言葉に、ヴィルフリートは口を挟んだ。
「綾袮は何て答えてたの? 僕らと話そうと思えるような内容って?」
「わたしはね、『どんな王子様が好き?』って訊かれて、『わたしの王子様は年を取らない死なない人なの』って答えていたって、お母さまが教えてくれたの。
無邪気な子どもの夢だと思って、『みつかるといいね』って言った大人達に、わたしは、『わたしの王子様はわたしに気付かないの。だから、わたしをみつけられることはないのよ』って返していたのよ。
そう、お母さまが教えてくださったわ。だから思ったのよ。わたしは貴方達ともう一度だけでも話をするべきのではないかって……」
『綾袮ちゃんは絵本の物語の王子様が本当に大好きね。綾袮ちゃん、お姫様になりたい?』
幼稚舎の先生の優しい声が響く。応えて綾袮は言う。
『綾袮は最初からお姫様よ?』
普通に聞けば可愛げのない綾袮の言葉は、無邪気な園児特有のものと思えばこそ、逆に大人達には微笑ましいものに映っていたのかもしれない。優しい声が重ねて尋ねる。
『そう、綾袮ちゃんはお姫様だったのね。お姫様の綾袮ちゃんはどんな王子様が好きなのかしら?』
優しい声が紡ぐ言葉は、シンデレラの王子様や白雪姫の王子様、眠り姫の王子様に美女と野獣の王子様、絵本の物語に出てくるような王子様から、どんな人が好きなのかしら、と。けれど綾袮は答えるのだ。
『先生、綾袮はね、お姫様なの。だけどシンデレラや白雪姫じゃないの。綾袮はそんなお姫様達にはなれないの。綾袮の王子様は年を取らない死なない人よ。綾袮は普通のお姫様にはなれない』
綾袮の言葉に呆気に取られ、それでも無邪気な子どもの夢と大人達は笑って受け入れる。
『そうなの。綾袮ちゃん、とっても凄いお姫様なのね。綾袮ちゃんの王子様、みつかるといいね』
優しい言葉に返した綾袮の言葉は殆んど拒絶に近い。
『ありがとう。でもね、先生。綾袮の王子様は綾袮をみつけてはくれないのよ。綾袮の王子様は綾袮に気付いてはくれなかったの。だからね、王子様が綾袮をみつけてくれることはもうないの』
母親と話をしたその日の夢の中、綾袮はそんな光景を、言葉のやりとりを見た。それは多分、綾袮がいつの間にか封じてしまった幼い頃の記憶で、きっと本当に成されたやりとりだ。
静かに語る綾袮の言葉を聞いて、ヴィルフリートは瞳を伏せた。綾袮の言葉を聞いていれば、やはり、ヴィルフリートが原因となった出来事がある。その出来事が、彼女がヴィルフリートやウィリアムを知らないと主張する一番の要因なのだ。
「綾袮、僕はキミに何をしたのか教えて欲しい。キミは僕の何に傷付いたことがあって、それはいつの出来事だったのか、僕にどうか教えて欲しい」
ヴィルフリートの言葉に、綾袮は首を振った。
「知らないの。わたしは知らない。貴方があの日、わたしとわたしの友人の差し出した手を裏切ったこと以外で傷付いたことなんて、わたしは知らない。貴方のことなんてわたしは知らないわ。
傷付いた覚えなどない。貴方に傷付けられた覚えなどない。当然でしょう? 何度も言うわ、わたしは貴方を知らないの。知らないはずなのよ、なのに何故? どうしてわたしは貴方を懐かしいと感じるの?」
知らないと答える綾袮の言葉は半分予測していたものではあったのだけれど、それでも鋭くヴィルフリートの胸を抉った。けれど、綾袮は言葉を続けた。
「……だから、教えて欲しいのよ。貴方達のライブから帰ったあの日以降、いつのまにか、自分でも意識しない間に、わたしはわたしではなくなってしまっていた。それは、どうして? 貴方達が原因なの?
あの日を境に、わたしは千年綾袮ではなくなってしまった。今のわたしはもう、貴方達に出逢うまでの綾袮ではなくなってしまっているのよ。わたしの意志でも、もう、戻れなくなってしまっているわ」
綾袮の台詞に、そこまで黙って聞いていたウィリアムが口を挟んだ。
「…………どういうことかな?」
綾袮は静かに答える。
「言葉通りよ。ねぇ、貴方達は気付かない? 今のわたしの口調、まるで何処かの貴族の姫君のようだわ。おかしいとは感じない? わたしの家は確かに裕福だし、お嬢様と呼ばれて育ったのも確かよ。
けれどね、貴方達のライブ会場から走って帰ったあの日まで、わたしは日本の普通の女の子だったし、普通の女の子の喋り方をしていたわ。こんなお姫様がかった口調、わたしは使いなどしなかったのよ。
けれど、今のわたしはもう、こんな話し方しか出来ないの。どれだけ元に戻そうと試みてみても、おかしな違和感と不自然さからくる不快さの方が強くなって、昔の綾袮の話し方をもう取り戻せないの」
綾袮の言葉に、ヴィルフリートは瞑目した。そう言えば、綾袮を初めてみつけたあの日、綾袮は日本の今の女の子の話し方をしていた。綾袮はもうそれを取り戻せないのだと訴えている。
ヴィルフリートとウィリアムの前に飛び出し、『貴方達は人に害を加えるか?』と、問うたとき、綾袮の口ぶりは昔のシエルリーデのもの。ローマ王朝の血筋を汲む誇り高い貴族の姫のそのものだった。
けれど、ヴィルフリートやウィリアムは自分達や人々に危害を加えたりしない。そう、友人を説得していた綾袮は、確かに、今を生きる女の子の口調で喋りかけていた。
けれども綾袮が自分で言う通り、今、ヴィルフリートの前に腰掛け、ヴィルフリートとウィリアムと話す綾袮の口調は、当時のシエルリーデのものそっくりだ。綾袮は強い口調で言い切った。
「貴方達がこの原因を知っていると言うのなら、わたしはそれを知りたいの。いいえ、教えて頂かなければ、わたしは困るのよ。貴方達は知っているのでしょう? こんな話し方をする誰かとわたしの繋がりを。
こんな風に、まるで人が変わってしまった状態で、何もなかったような顔をして日常生活になど、もう戻れるはずもないでしょう。クラスメート達にだって、不審に思われるのが目に見えているもの。
お母さまに無理をお願いして、学校には休学届を出させて頂いたわ。表向き、千年綾袮は事故に遭ったことにして頂いているの。この状態でクラスメート達と出逢ってしまっても不自然にならないように、少しだけ話を作らせて頂いて、学校に通して頂いているわ。千年綾袮はこれまでの記憶を失ったと。
事故の衝撃で今迄の自分に関する記憶を全て失ってしまっていて、自分自身を見失ってとてもショックを受けているから、これ以上の刺激を与えて無理に負荷を抱え込ませないように療養させていることにね。
ねぇ、教えては頂けない? どうしてわたしはこんなことになってしまっているの? 貴方達はわたしにとって何? いいえ、それは少し違うわね。
わたしが一番、疑問を感じるのは、ルヴィス、貴方だわ。ルイスエンド・ルヴィス、貴方よ。貴方はわたしに関する何かを知っているのね?」
綾袮は強い視線を背けようともしないまま、ヴィルフリートの返す言葉を静かに待っている。綾袮が向ける強い視線は、確かに遠い昔に愛した少女のものだと、ヴィルフリートは思った。
瞳の色も髪の色も名前も変わった。けれど、今、ヴィルフリートの目の前でヴィルフリートの答えを静かに待ちながら、強い色を湛えた瞳は、遥か昔の少女のものだ。
ヴィルフリートとウィリアムの前から走り去ったあの日を境に、自分は変わってしまったと目の前の少女は言う。そして、『その原因は貴方達にあるのでしょう?』と。
綾袮はヴィルフリートを知らないと今でも言い切る。そして、綾袮がヴィルフリートを知らないと言う要因は、どこかでヴィルフリートが作ってしまったもの。
けれど、綾袮はこうしてヴィルフリートの前に自分からやって来た。あの日逃げたままに耳を塞ぎ、何も知らないと言い続ける道とて選べたはずなのに。
ならば、時をかければ取り戻すことも可能だろうか。遠い昔に逝ってしまった少女の話を語って聞かせれば、ヴィルフリートが綾袮を探し続けて数百年を生きてきたことを根気強く語ったならば。
「そうだね。僕はキミを待ち続けて生きてきた。シエルリーデ・セントカティルナ・ドゥ・ルディエット、君のことを。綾袮、キミは遥か遠い昔、そう、もう数百年も昔の話になるのかな、違う名前で生きていた。
シエルリーデという名前の古代ローマ帝国の王室の血筋を汲む高貴な姫君だよ。そして、別の意味でもとても高貴な姫君として君の名前は有名だったんだよ。綾袮、キミは僕が従兄弟から血をもらっていた場面を見て飛び出してきた。
あのとき、キミは頭の中で『一般人を巻き込んではいけない』という冷たくて冷静な声が頭の中に響いたんだと言ったね?
それは、シエルリーデ姫の声だよ。古代ローマ王朝の血を引く高貴な血筋の聖なる家系、天の御使いに守護された闇を狩る者。尤も高貴な血筋のヴァンパイアハンター、聖女シエルリーデ姫のものだ」
「どういうこと? わたしは貴方を退治るものだったということなの? それならどうしてわたしの中に貴方を心配するような声が響いたのよ?」
ヴィルフリートの言葉に綾袮が困惑しているのが解ったが、ヴィルフリートは続けた。
「キミが最初に聞いた声はヴァンパイアハンター、聖女シエルリーデ姫のものだろうね。僕と出逢う前の、聖女と呼ばれた高貴な姫君のものだ。そして、多分というか、推測にしかならないんだけれどね。
僕を心配していたとキミが言う声は、僕が愛した僕の恋人のものだろうと思うよ。自分の生きた世界を捨てて、人間の世界を捨てて、永遠を僕と生きようと誓い合ってくれた子。
僕の愛に応えてくれた僕の最愛の女の子だ。綾袮、僕はリーデと呼んだんだよ。僕の手を取ってくれた聖女様だった女の子のことを、リーデと呼んだんだ」
ヴィルフリートの言葉にこんがらがった様子の綾袮が眉を寄せて考え込んでいる様子がおかしくて、ヴィルフリートは少し笑った。
「まだ、分からない?」
「……同じ名前?」
眉根を寄せたまま呟いた綾袮に、ヴィルフリートは微笑んだ。
「そう。同じ名前だ。同じ女の子だったんだからね。僕の手を取ってくれた僕の最愛の女の子の名前は、シエルリーデ・セントカティルナ・ドゥ・ルディエット。
古代ローマ王朝の血を汲む高貴な血筋のお姫様で、正真正銘、聖女様と呼ばれて育った女の子だったんだよ。そして綾袮、キミの昔の名前だ。
僕の本当の名前は、ヴィルフリート。ヴィルフリート・アルヴィス・フォン・レ・ラインフェルド。遠い昔、キミは僕のことをヴィリーという愛称で呼んだ。僕がリーデと愛称で呼んだようにね」
ヴィルフリートの言葉に、補足を入れたのはウィリアム。
「付け足しとくと、俺はウィリアム。ヴィルフリートの従兄弟で、きみが従兄弟の手を取ってくれたことをとても喜んだ。きみも俺を兄のように慕ってくれていた。
まぁ、蛇足かとも思うけど、フルネームを名乗っておけば、ウィリアム・エイディル・フォン・レ・アディルフェンドっていう。エイスエルド・エディルの本当の名前をね」
けれども、遠い昔に少女が従兄弟を呼んだ愛称をウィリアムは綾袮の前で使っていない。ヴィルフリートも名乗りはしていない。それは、普段からの習性でもあった。
シエルリーデが眠りに就いてから、ウィリアムとヴィルフリートがお互いの本当の名前を呼ぶことを許したのは、一年の間で遠い昔にシエルリーデが永い眠りへと旅立ったその日、その日だけ。
それがウィリアムとヴィルフリートの暗黙の了解となっていた。それ以外の日々、シエルリーデの生まれ変わりであるとしか思えない少女が現れた今日を除いて。
二人がお互いの名をその日以外に呼んだことなど、この数百年。一度たりとてなかったのだ。なのに、綾袮は当然のように彼の愛称を口にしてみせた。それは、綾袮の中に確かにリーデがいるということ。
大事なお嬢様が突如として自室に籠り切ってしまったことに、使用人達は皆一同に頭を悩ませていた。千年家の一人娘、綾袮お嬢様は、この三日間、自室から一歩たりとも出ようとはしない。
使用人達がどれだけ呼び掛け、話を聞こうとしても、頑なに扉の鍵を開けようとも、誰かと一言話そうともしてはくれない。常にはないお嬢様の態度に、使用人達は困り果てていた。
千年家のお嬢様の御両親は、年中多忙を極める御二人で、日ごろのお嬢様のお世話は使用人達が引き受けている。なので、お嬢様のお世話に関することで使用人達が二人に連絡を取ることは殆んど無い。
けれど、この数日間のお嬢様の様子は只事ではないと判断した使用人は、お嬢様の御両親にこの数日間のお嬢様の様子を添えて一報を入れた。
「……綾袮ちゃん、お母さんよ」
扉の外から聞こえた声に、綾袮はベッドからのそりと起き上がった。聞き違えでなければ、今、扉の外から母親の声が聞こえはしなかっただろうか?
「綾袮ちゃん、お母さんの声が聞こえる?」
「お母さま? お母さまがどうして……」
聞こえる声はやはり母親のもので……。困惑して問い掛けた綾袮に、柔らかな声が扉の外から響く。
「この数日間の綾袮ちゃんが、あんまりにもおかしいって、みんな心配してくれてたのよ? 綾袮ちゃんの様子がおかしいのは確かなんだけれど、自分達じゃ駄目みたいだからって……」
返された言葉に、使用人達が両親に連絡を入れたのだと綾袮は知る。
「綾袮ちゃん、何か困ってるなら、お母さんには話せない? もう随分、きちんと食事もしていないんでしょう? そこまで綾袮ちゃんを追い詰めちゃったのは、どんな困りごとかしら?」
「心配をかけてごめんなさい。困っているわけではないの。ただ、悩んでることがあって、どうしていいのか自分自身でも答えが出せないだけで……」
綾袮の言葉に、扉の外から小さな息が聞こえる。
「綾袮ちゃんを追い詰めちゃってる悩みは、お母さんに話せることかしら? お母さんは聞いてあげられることが出来る? お母さんが力になれること?」
柔らかな母親の言葉に、綾袮は泣きそうになりながら黙り込んだ。それを綾袮の返事と、察しのいい母親は受け取ってくれたらしい。扉の外から再び柔らかな声が響く。
「お母さんね、追い詰められちゃってる綾袮ちゃんを、これ以上追い詰める気はないわ。だから、綾袮ちゃんが話せないって言うことを、無理やり聞き出そうとはしない。
でも、お母さんの出来る範囲で力にはならせてね。ここ数日お部屋に閉じ籠って、それでも悩みの答えは出なかったんでしょう? なら、今度はちょっと気分を変えてみないかしら。
お母さんと久しぶりにお出かけしない? 行き先は綾袮ちゃんの行きたいところで構わないわ。遊園地でもいいし、水族館でも動物園でも映画館でも。
勿論、ふらっと街を歩きながら、ウィンドウショッピングとか、お買い物とか、ケーキ屋さん巡りとかでもいいわ。なんなら、アイスクリームやクレープの食べ歩きにだって、お母さん、付き合っちゃうわよ?」
母親は仕事で多忙なはずなのに、心から綾袮を心配して、綾袮の悩みがどうすれば解消するかを探そうと提案してくれる。数日間籠城した自室の扉の鍵を開き、綾袮は泣きながら肯いた。
母親の提案の中から綾袮が選んだのは、ウィンドウショッピングとお買い物、それから綾袮の好きなケーキ屋さんでのゆっくりしたティータイム。
大量の買い物袋の山を携えて、お気に入りのケーキ屋さんで一番好きなケーキとブレンドティーを注文して、日頃は中々無いチャンスに、母親とゆっくり色々な話をして……。
綾袮は小さな頃の記憶を少しだけ思い返した。一人娘の綾袮には色々な才能を伸ばすチャンスや機会を与えようと、両親は綾袮がほんの小さな頃から数えきれないお稽古やレッスンに取り組ませてくれた。
ピアノ、バレエ、演劇、水泳、声楽、外国語、ヴァイオリン、茶道に華道、社交ダンス、と、いった具合に。けれど、決して強要はしなかった。辛いなら辞めていいからね、それが母の口癖で……。
バレエと水泳はなんだか合わなかったから、一番に辞めさせてもらった。それから、演劇も。お茶とお花は好きだったから、本格的に習い始めた。社交ダンスも楽しかったから、苦痛には思わなかった。
ピアノや声楽も、大好きで仕方がなかった。毎週のレッスンが楽しみで楽しみで……。音楽狂いの綾袮と呼ばれるくらいである、音楽に関するものなら、どれも大好きだった。
そう、ヴァイオリンだって、最初の内は大好きだったし、レッスンを受けるのも楽しみにしていたのだ。それがいつしか変わってしまったのは、音楽教室の合同演奏会。
同じ教室に通う少年が舞台でヴァイオリンを演奏したときだった。そのときの綾袮はピアノで舞台に立っていたのだけれど、舞台に立つ少年がヴァイオリンを弾く姿に、何故か感じてしまったのだ。
綾袮にとって、ヴァイオリンは自分自身で演奏するものじゃない、と。綾袮にとっては、ヴァイオリンは誰かが演奏する姿を見る方が楽しい楽器なのだと。
突然にヴァイオリン教室を辞めたいと言い出した綾袮に、それまでの楽しそうな綾袮を知っていた両親は当初は驚いてはいたものの、二日間話しあって辞めさせてもらった。
ごめんなさいと言った綾袮に、母親はちょっと困ったような顔をして、謝らなくていいのよと告げた。謝らなくてもいいのよ、綾袮ちゃん、と。
やりたくないことはやりたくないと言っていい。そういうお約束で、お父さんもお母さんも色々なお稽古とレッスンに引っ張り出したんだから、と。
ケーキ屋さんでのんびりと会話を楽しみ、昔話にも花を咲かせながら、綾袮は一つ、結論を出す。ポットで頼んだブレンドティーの最後の一杯に口を付けてから、綾袮は母親に切り出した。
「お母さま、連れ出してくれて有り難う。なんだか少しだけ振っ切れそう。それでね、お願いがあるんだけれど、聞いてもらえる?」
綾袮の言葉に母親はニッコリと微笑んだ。
「ええ、勿論。お母さんが叶えられる範囲のことなら何でも聞くわよ? お母さん、言ったでしょう? 『お母さんの出来る範囲では力にならせて』って」
無理やりで無茶苦茶だとも取れるような綾袮の頼みを、母親は二つ返事で引き受けてくれた。
「……僕はリーデに何をしたんだろう…………。あの子があそこまで僕を拒絶するような原因を、僕が作ったってあの子の言葉はそういうことだ。僕の起こしたことで傷付いて、僕を封じたって。
僕があの子にしたことで、あの子は傷付いた。だから、僕のことも僕らが過ごした日々のことも無いことにしてしまった。だけど、何を? 僕はなにをしたんだ!?」
俯いて唇を噛み締めるヴィルフリートを、ウィリアムは何を言うことも出来ずに、ただ、見守るしか出来ない。今、ヴィルフリートとウィリアムがいるのは、テレビ局の控室だ。
ヴィルフリートとウィリアムのlamiaの収録自体は終わっているが、編集だか何だかに問題が有ったらしく、出演者は全員待機させられている。
綾袮と出逢ったあの日から、数週間が経とうとしていた。あの日、彼女はヴィルフリートやウィリアムの制止の言葉を振り切って、逃げ出すようにして走り去ってしまった。
ウィリアムもヴィルフリートも、あれから一度も綾袮の姿を見かけたことはない。彼女の方にはもう、二人と連絡を取るつもりなどないのかもしれない。
綾袮に、シエルリーデに詰られたあの日から、ヴィルフリートは彼女が自分のことを忘れてしまった原因が、何処にあったのかに躍起になって思いを巡らせている。
けれど、正解などみつからない。みつかるはずもないのだ。ヴィルフリートが自分自身で簡単に導けるようなところに、ウィリアムが簡単に辿り着けるようなところに答えがあるのなら……。
そもそも最初から、ヴィルフリートやウィリアムが、そんな真似を仕出かすわけはなかったのだから。だからこそ、ヴィルフリートは思い悩んでいるし、ウィリアムの方も頭を抱えている。
あの日以降、ヴィルフリートもウィリアムも、自然と自分達の名前を日常に使うことを解禁させた。勿論、人目のある場所では、ルイスエンド・ルヴィスとエイスエルド・エディルのlamiaだけれど。
そこに、控室の扉を叩く音が響いて、ウィリアムはヴィルフリートの肩を叩いた。スタッフが呼びに来たのならば、自分達は仮面を被らなくてはいけない。lamiaは控室の客を受け付けない。扉が叩かれたのならば、それは十中八九スタッフだ。
「lamiaは収録取り直しかい? っと、失礼。不遜な口調がどうもいけないね。気を悪くしないで頂けたら嬉しいのだけれど」
控室の中からウィリアムが演じたエディルの言葉に、思いがけぬ反応が扉の外から寄せられた。
「ふざけた口を叩いていないで、扉を開けて部屋に入れては頂けないの? 三秒待って、それでも開けても入れても頂けないようなら、わたしは帰りますから!!」
座っていた椅子を派手な音を響かせて倒し、扉の前に歩み寄ったのはヴィルフリートだ。ウィリアムは何が何だか解らないまま、間抜けに立ち尽くした。
ヴィルフリートが開いた扉の向こう、黒髪ストレートのロングヘアーを丁寧に編み込んで、複雑な髪型に美しく結い上げた、色素の薄い瞳を持つ、綺麗な女の子。千年綾袮が口を曲げて立っていた。
「リーデ!! ……じゃなかった、綾袮? ど、どうして…………」
叫んだヴィルフリートに綾袮は威圧的な口調で告げる。
「残り二秒よ。わたしは、『部屋に入れて頂けなくても帰る』と言ったわ」
慌てて扉の内に招き入れ、扉の鍵を落とした瞬間、綾袮は思い切り剣呑な目付きでもって、ヴィルフリートとウィリアムを睨み付けてきた。
「お訊きしてもよろしいかしら? 貴方達二人、大馬鹿なの? それとも、単にわたしに喧嘩を売るだけ売りたかっただけなの? どちらなの?」
あまりな発言にヴィルフリートとウィリアムが二人して呆気に取られていると、綾袮は眦を吊り上げて更に睨みつけてくる。
「lamiaの公式発表は絶対的に守られてるのよ!? そんな中で、わたしはどうやって貴方達二人にコンタクトを取れると? 貴方達、確かに言ったわよね? わたし達には時間が必要だって。
あれは、貴方達とわたしが話したりする時間が必要だという意味だと、わたしは受け取ってたんだけど、違ったみたいね。いわゆる別れ文句だったわけ。とてもややこしい別れ文句。
『ぼくたちには距離と時間が必要だよ』っていう類のね!! ええ、この数日でよく解ったけれど、それならそうと、最初から解りやすく言って欲しかったわ!!」
矢継ぎ早に繰り出された言葉に、ウィリアムは慌てて制止の言葉をかけた。
「ま、待った、綾袮!! 俺達が言った『必要な時間』はその意味じゃない! きみが受け取った通り、俺やヴィリーと話をする時間や共に過ごす時間を作って欲しいって言う意味だ!!」
ヴィルフリートも慌てて否定する。
「ウィルの言う通りだよ、僕達と過ごす時間を作って欲しいって意味だった。でもキミはこの数週間ずっと音沙汰無しだったし……。もう、無理なのかと思ってた」
ヴィルフリートの言葉に、綾袮が噛み付いた。
「ねぇ、わたしの話、聴いてくださってた? 繰り返しますけれど、lamiaは『ステージ以外のプライベートを完全に守られた、普段は都会の喧騒に紛れてひっそりと正体を闇に隠して生きる吸血鬼』よ!!
これで、どうやってわたしが貴方達を探し出せると思うのかしら? 貴方達二人がわたしの家を探し当てる方が簡単でしょうっ!! それとも人を困らせて遊ぶ趣味でも持ち合わせていらっしゃるの?
テレビ局のスケジュールと出演者を探し当てるのと、ここまで来ることに、どれだけお母さまに無理を頼み込んだと思っているのよっ!?」
綾袮の方は完全に怒り心頭の様子だが、ヴィルフリートは綾袮の指摘するところに思い至って、間抜けな声を上げた。
「あ……!!」
控室のソファーで、ヴィルフリートの前に座った少女は、静かに語り出した。
「貴方達のライブから走って帰った後、わたしは屋敷の自室で数日間、籠城してたの。使用人達がみんな心配してくれたけれど、絶対に部屋の鍵を開けなかった。
あからさまにわたしの様子がおかしいって言うので、屋敷の人間が母親に連絡を入れてくれたのよ。わたしの両親は普段から凄く多忙を極める人達で、普段、屋敷の人間はそんなことはしないんだけどね。
わたしの様子を聞いて、心配したお母さまが、忙しい中で無理やり時間を取って下さったの。『言えないことなら無理に聞き出そうとはしない』って言ってくれて……。
気分転換に外に出てみないかって引っ張り出してくださったのよ。いろんなお店を巡って、お買い物をして、ケーキ屋さんでのんびりしたティータイムをして、色々お喋りして……。
わたし、幼稚舎くらいまでの小さい頃の記憶が凄く曖昧なんだけれど、そのときにお母さまに教えて頂いたの。小さな頃のわたしって、絵本を読むのも大好きだったんですって。それも、王子様のお話が特に。
それを知ってる周囲の大人に、『綾袮ちゃんはどんな王子様が好き?』って訊かれたわたしの答えを教えて頂いて、わたしはやっぱり貴方達と話すべきなんじゃないかと思ったの」
瞳を伏せて静かに話す綾袮の言葉に、ヴィルフリートは口を挟んだ。
「綾袮は何て答えてたの? 僕らと話そうと思えるような内容って?」
「わたしはね、『どんな王子様が好き?』って訊かれて、『わたしの王子様は年を取らない死なない人なの』って答えていたって、お母さまが教えてくれたの。
無邪気な子どもの夢だと思って、『みつかるといいね』って言った大人達に、わたしは、『わたしの王子様はわたしに気付かないの。だから、わたしをみつけられることはないのよ』って返していたのよ。
そう、お母さまが教えてくださったわ。だから思ったのよ。わたしは貴方達ともう一度だけでも話をするべきのではないかって……」
『綾袮ちゃんは絵本の物語の王子様が本当に大好きね。綾袮ちゃん、お姫様になりたい?』
幼稚舎の先生の優しい声が響く。応えて綾袮は言う。
『綾袮は最初からお姫様よ?』
普通に聞けば可愛げのない綾袮の言葉は、無邪気な園児特有のものと思えばこそ、逆に大人達には微笑ましいものに映っていたのかもしれない。優しい声が重ねて尋ねる。
『そう、綾袮ちゃんはお姫様だったのね。お姫様の綾袮ちゃんはどんな王子様が好きなのかしら?』
優しい声が紡ぐ言葉は、シンデレラの王子様や白雪姫の王子様、眠り姫の王子様に美女と野獣の王子様、絵本の物語に出てくるような王子様から、どんな人が好きなのかしら、と。けれど綾袮は答えるのだ。
『先生、綾袮はね、お姫様なの。だけどシンデレラや白雪姫じゃないの。綾袮はそんなお姫様達にはなれないの。綾袮の王子様は年を取らない死なない人よ。綾袮は普通のお姫様にはなれない』
綾袮の言葉に呆気に取られ、それでも無邪気な子どもの夢と大人達は笑って受け入れる。
『そうなの。綾袮ちゃん、とっても凄いお姫様なのね。綾袮ちゃんの王子様、みつかるといいね』
優しい言葉に返した綾袮の言葉は殆んど拒絶に近い。
『ありがとう。でもね、先生。綾袮の王子様は綾袮をみつけてはくれないのよ。綾袮の王子様は綾袮に気付いてはくれなかったの。だからね、王子様が綾袮をみつけてくれることはもうないの』
母親と話をしたその日の夢の中、綾袮はそんな光景を、言葉のやりとりを見た。それは多分、綾袮がいつの間にか封じてしまった幼い頃の記憶で、きっと本当に成されたやりとりだ。
静かに語る綾袮の言葉を聞いて、ヴィルフリートは瞳を伏せた。綾袮の言葉を聞いていれば、やはり、ヴィルフリートが原因となった出来事がある。その出来事が、彼女がヴィルフリートやウィリアムを知らないと主張する一番の要因なのだ。
「綾袮、僕はキミに何をしたのか教えて欲しい。キミは僕の何に傷付いたことがあって、それはいつの出来事だったのか、僕にどうか教えて欲しい」
ヴィルフリートの言葉に、綾袮は首を振った。
「知らないの。わたしは知らない。貴方があの日、わたしとわたしの友人の差し出した手を裏切ったこと以外で傷付いたことなんて、わたしは知らない。貴方のことなんてわたしは知らないわ。
傷付いた覚えなどない。貴方に傷付けられた覚えなどない。当然でしょう? 何度も言うわ、わたしは貴方を知らないの。知らないはずなのよ、なのに何故? どうしてわたしは貴方を懐かしいと感じるの?」
知らないと答える綾袮の言葉は半分予測していたものではあったのだけれど、それでも鋭くヴィルフリートの胸を抉った。けれど、綾袮は言葉を続けた。
「……だから、教えて欲しいのよ。貴方達のライブから帰ったあの日以降、いつのまにか、自分でも意識しない間に、わたしはわたしではなくなってしまっていた。それは、どうして? 貴方達が原因なの?
あの日を境に、わたしは千年綾袮ではなくなってしまった。今のわたしはもう、貴方達に出逢うまでの綾袮ではなくなってしまっているのよ。わたしの意志でも、もう、戻れなくなってしまっているわ」
綾袮の台詞に、そこまで黙って聞いていたウィリアムが口を挟んだ。
「…………どういうことかな?」
綾袮は静かに答える。
「言葉通りよ。ねぇ、貴方達は気付かない? 今のわたしの口調、まるで何処かの貴族の姫君のようだわ。おかしいとは感じない? わたしの家は確かに裕福だし、お嬢様と呼ばれて育ったのも確かよ。
けれどね、貴方達のライブ会場から走って帰ったあの日まで、わたしは日本の普通の女の子だったし、普通の女の子の喋り方をしていたわ。こんなお姫様がかった口調、わたしは使いなどしなかったのよ。
けれど、今のわたしはもう、こんな話し方しか出来ないの。どれだけ元に戻そうと試みてみても、おかしな違和感と不自然さからくる不快さの方が強くなって、昔の綾袮の話し方をもう取り戻せないの」
綾袮の言葉に、ヴィルフリートは瞑目した。そう言えば、綾袮を初めてみつけたあの日、綾袮は日本の今の女の子の話し方をしていた。綾袮はもうそれを取り戻せないのだと訴えている。
ヴィルフリートとウィリアムの前に飛び出し、『貴方達は人に害を加えるか?』と、問うたとき、綾袮の口ぶりは昔のシエルリーデのもの。ローマ王朝の血筋を汲む誇り高い貴族の姫のそのものだった。
けれど、ヴィルフリートやウィリアムは自分達や人々に危害を加えたりしない。そう、友人を説得していた綾袮は、確かに、今を生きる女の子の口調で喋りかけていた。
けれども綾袮が自分で言う通り、今、ヴィルフリートの前に腰掛け、ヴィルフリートとウィリアムと話す綾袮の口調は、当時のシエルリーデのものそっくりだ。綾袮は強い口調で言い切った。
「貴方達がこの原因を知っていると言うのなら、わたしはそれを知りたいの。いいえ、教えて頂かなければ、わたしは困るのよ。貴方達は知っているのでしょう? こんな話し方をする誰かとわたしの繋がりを。
こんな風に、まるで人が変わってしまった状態で、何もなかったような顔をして日常生活になど、もう戻れるはずもないでしょう。クラスメート達にだって、不審に思われるのが目に見えているもの。
お母さまに無理をお願いして、学校には休学届を出させて頂いたわ。表向き、千年綾袮は事故に遭ったことにして頂いているの。この状態でクラスメート達と出逢ってしまっても不自然にならないように、少しだけ話を作らせて頂いて、学校に通して頂いているわ。千年綾袮はこれまでの記憶を失ったと。
事故の衝撃で今迄の自分に関する記憶を全て失ってしまっていて、自分自身を見失ってとてもショックを受けているから、これ以上の刺激を与えて無理に負荷を抱え込ませないように療養させていることにね。
ねぇ、教えては頂けない? どうしてわたしはこんなことになってしまっているの? 貴方達はわたしにとって何? いいえ、それは少し違うわね。
わたしが一番、疑問を感じるのは、ルヴィス、貴方だわ。ルイスエンド・ルヴィス、貴方よ。貴方はわたしに関する何かを知っているのね?」
綾袮は強い視線を背けようともしないまま、ヴィルフリートの返す言葉を静かに待っている。綾袮が向ける強い視線は、確かに遠い昔に愛した少女のものだと、ヴィルフリートは思った。
瞳の色も髪の色も名前も変わった。けれど、今、ヴィルフリートの目の前でヴィルフリートの答えを静かに待ちながら、強い色を湛えた瞳は、遥か昔の少女のものだ。
ヴィルフリートとウィリアムの前から走り去ったあの日を境に、自分は変わってしまったと目の前の少女は言う。そして、『その原因は貴方達にあるのでしょう?』と。
綾袮はヴィルフリートを知らないと今でも言い切る。そして、綾袮がヴィルフリートを知らないと言う要因は、どこかでヴィルフリートが作ってしまったもの。
けれど、綾袮はこうしてヴィルフリートの前に自分からやって来た。あの日逃げたままに耳を塞ぎ、何も知らないと言い続ける道とて選べたはずなのに。
ならば、時をかければ取り戻すことも可能だろうか。遠い昔に逝ってしまった少女の話を語って聞かせれば、ヴィルフリートが綾袮を探し続けて数百年を生きてきたことを根気強く語ったならば。
「そうだね。僕はキミを待ち続けて生きてきた。シエルリーデ・セントカティルナ・ドゥ・ルディエット、君のことを。綾袮、キミは遥か遠い昔、そう、もう数百年も昔の話になるのかな、違う名前で生きていた。
シエルリーデという名前の古代ローマ帝国の王室の血筋を汲む高貴な姫君だよ。そして、別の意味でもとても高貴な姫君として君の名前は有名だったんだよ。綾袮、キミは僕が従兄弟から血をもらっていた場面を見て飛び出してきた。
あのとき、キミは頭の中で『一般人を巻き込んではいけない』という冷たくて冷静な声が頭の中に響いたんだと言ったね?
それは、シエルリーデ姫の声だよ。古代ローマ王朝の血を引く高貴な血筋の聖なる家系、天の御使いに守護された闇を狩る者。尤も高貴な血筋のヴァンパイアハンター、聖女シエルリーデ姫のものだ」
「どういうこと? わたしは貴方を退治るものだったということなの? それならどうしてわたしの中に貴方を心配するような声が響いたのよ?」
ヴィルフリートの言葉に綾袮が困惑しているのが解ったが、ヴィルフリートは続けた。
「キミが最初に聞いた声はヴァンパイアハンター、聖女シエルリーデ姫のものだろうね。僕と出逢う前の、聖女と呼ばれた高貴な姫君のものだ。そして、多分というか、推測にしかならないんだけれどね。
僕を心配していたとキミが言う声は、僕が愛した僕の恋人のものだろうと思うよ。自分の生きた世界を捨てて、人間の世界を捨てて、永遠を僕と生きようと誓い合ってくれた子。
僕の愛に応えてくれた僕の最愛の女の子だ。綾袮、僕はリーデと呼んだんだよ。僕の手を取ってくれた聖女様だった女の子のことを、リーデと呼んだんだ」
ヴィルフリートの言葉にこんがらがった様子の綾袮が眉を寄せて考え込んでいる様子がおかしくて、ヴィルフリートは少し笑った。
「まだ、分からない?」
「……同じ名前?」
眉根を寄せたまま呟いた綾袮に、ヴィルフリートは微笑んだ。
「そう。同じ名前だ。同じ女の子だったんだからね。僕の手を取ってくれた僕の最愛の女の子の名前は、シエルリーデ・セントカティルナ・ドゥ・ルディエット。
古代ローマ王朝の血を汲む高貴な血筋のお姫様で、正真正銘、聖女様と呼ばれて育った女の子だったんだよ。そして綾袮、キミの昔の名前だ。
僕の本当の名前は、ヴィルフリート。ヴィルフリート・アルヴィス・フォン・レ・ラインフェルド。遠い昔、キミは僕のことをヴィリーという愛称で呼んだ。僕がリーデと愛称で呼んだようにね」
ヴィルフリートの言葉に、補足を入れたのはウィリアム。
「付け足しとくと、俺はウィリアム。ヴィルフリートの従兄弟で、きみが従兄弟の手を取ってくれたことをとても喜んだ。きみも俺を兄のように慕ってくれていた。
まぁ、蛇足かとも思うけど、フルネームを名乗っておけば、ウィリアム・エイディル・フォン・レ・アディルフェンドっていう。エイスエルド・エディルの本当の名前をね」
後書き
作者:未彩 |
投稿日:2015/11/18 22:29 更新日:2015/11/18 22:29 『永遠の終わりを待ち続けてる』の著作権は、すべて作者 未彩様に属します。 |
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