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作品ID:1749
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鏖都アギュギテムの紅昏

小説の属性:ライトノベル / 異世界ファンタジー / 激辛批評希望 / 中級者 / R-15&18 / 連載中

こちらの作品には、暴力的・グロテスクおよび性的な表現・内容が含まれています。18歳未満の方、また苦手な方はお戻り下さい。

前書き・紹介


一回戦第六典礼『邪悪排泄/赤顎ノ吼天』

前の話 目次 次の話

 一回戦 第六典礼
  霊燼(レイジ)・ウヴァ・ガラク
  罪状:大逆罪。軍規違反。
   対
  散悟(ヴァラゴ)・ガキュラカ
  罪状:聖三約侵犯の常習犯。大量殺人。強姦罪。拷問罪。多数の子女を誘拐して〈魂魄〉を破壊し、己の傀儡とす。

 霊燼・ウヴァ・ガラクが外界で率いていたのは、〈帝国〉の東端、カザフ防衛線(リメス・カザフィテス)に詰める第三十五軍団であった。
 通称、『鋼の星座』。鉄身の精兵らが一糸乱れぬ連携を取るさまを、緻密で荘厳なる星々の絵画にたとえたのだ。
 基本的には、陽気な男たちであった。
 軽口を叩きあい、鼻歌まじりに異律者の軍勢を迎え撃つ。そして戦いが終われば、へたくそな歌をがなりたてながら皆で肉と酒をかっ喰らう。
 給料が入れば基地化された城邑に繰り出して、宝飾片手に街娘たちへ甘い言葉を囁きかけたりもする。
 ごく素朴に正義を愛し、己が職務を愛し、歌と酒と女を愛し、人生を愛した男たち。
 ほとんどは徴兵された農奴階級であったが、二十年に及ぶ兵役を勤め上げれば騎士階級(エクィテス)に取り立てられることが約束された者たちでもあった。
 満期除隊まで生き残れる確率は十分の一といったところだが、何の希望も可能性もなく過酷な単純労働だけで人生が終わる普通の農奴たちに比べれば、信じられないほどに勝ち目がある立場だ。その事実が彼らの〈魂〉にある種の余裕と覚悟を培った。
 〈帝国〉内部における泥沼の紛争に関わらずに済んだことも、一因であったことだろう。〈帝国〉下層民に蔓延する消極的虚無主義からは完全に無縁の、付き合っていて実に気持ちのいい男たちであった。
 霊燼・ウヴァ・ガラクは、彼らと過ごした日々を決して忘れない。軍団長(レガートゥス)として、父として兄として、彼らを率い、導き、守り、守られ、叱咤し、共に笑い合った、あの黄金のような日々を。
 軍団兵(レギオナリス)らは全員、結束を深めるために『鋼の星座』の軍団旗を簡略化した印章を体のどこかに彫り込んでいた。
 捻じくれた角を生やした異律者のしゃれこうべと、それを貫く軍剣の図案。
 霊燼の上腕にも、同じものがあった。第三十五軍団『鋼の星座』は永遠であり、その絆はたとえ全員が果てようとも消えることはない。
 そう、信じるために。

 ――そして、その瞬間が訪れる。

 今から一年前。『鋼の星座』は、魔月が統括するカザフ常駐軍の指揮系統を外れ、エスクィリヌス邦の領邦軍に組み込まれていた。
 通常、異律者は光都カザフのあるカエリウス邦によく侵攻してくる。
 しかし稀にまったく別の方面から〈帝国〉に踏み入ってくることもあるのだ。
 魔月は〈環兵制〉に従って即座に自らの最強の駒を援軍として差し向けた。
 しかし――鼻息も荒くやってきた霊燼たちは、エスクィリヌス領邦軍のあまりの質の低さに愕然とする。
 戦闘能力自体は『鋼の星座』に劣らない。むしろ武術の技能面では農奴出身の軍団兵を明らかに凌駕している。しかし、基本的に戦争行為というものを「富と名声と農奴を奪い取るための手段」としか認識しておらず、一貫した戦略目標が存在していないのだ。領邦軍と一口に言っても、その内情は異律者の脅威を前に各貴族家の私軍が連合したものにすぎず、呆れたことに指揮系統という概念も希薄であった。封権的無秩序の極みと言える。
 なによりまずいのが、兵站計画の杜撰さである。弁当が足りなくなったらそのあたりの農村から徴発(りゃくだつ)すればよかろう、などと能天気なことを考えているのだ。支出を計画的に切り詰めて、あらかじめ長期継戦能力を準備しておく発想がないのである。
 このままではまずい。当然、霊燼は口を酸っぱくして注意を促した。
 弱小家門の五男坊とはいえ、霊燼の勇名は轟き渡っていたから、耳を傾ける貴族もいるにはいたが、全体からすれば一部に過ぎなかった。
 そこうしているうちに戦端が開かれ、人類と異律者は激突することになる。
 ――大敗、であった。
 霊燼からすれば、あぁやっぱり、という感じであったが、生まれて初めて異律者と対峙した貴族の子弟らは震えあがった。
 その後『鋼の星座』が壮絶な勇戦を見せ、辛うじて撃退には成功したものの、すぐに体勢を立て直して逆撃に転じてくるであろうことは誰の目にも明らかであった。
 全身に子種を植え付けられ、殺してくれと泣き叫ぶ男たち。彼らにチョキを突き付けてやりながら、『鋼の星座』の面々は、領邦軍全体の士気が見る影もなく粉砕されたことを感じていた。
 ――潰走。
 その絶望的な言葉が脳裏をよぎる。
 こと異律者との戦争において、逃走はまったく意味を成さない自殺行為である。相手の方が圧倒的に足が速いのだから当然だ。一度でも戦線が崩れれば、誇張抜きで全滅しかねない。生き残れるのは騎兵の一部のみであろう。
 それだけはなんとしても阻止せねばならぬ。
 確かに領邦軍の連中は傲慢かつ脳足りんであったが、しかしここで異律者に惨殺されねばならないほど罪深い存在とも思えなかった。なにより背後には無力な農奴らがいるのだ。敗北は絶対に許されぬ。
 ――霊燼は言った。[よいのか]、と。
 ――『鋼の星座』の兵卒らは応えた。[たとえどんな結果になろうとあんたについて行く]、と。
 最後の踏ん切りが、ついた。
 霊燼は領邦軍の筆頭格である等族のもとへと馬を走らせ――物も言わぬうちにその巨大な拳で殴り飛ばした。
 この衝撃的な狼藉は、恐怖に浮足立っていた貴族の面々に冷や水を浴びせかけるに充分であった。
 上意下達の極致たる貴族社会において、これは天地がひっくり返るにも等しい出来事である。
 霊燼は注目が集まる機を見計らって、腹の底から大喝を発した。
 大気が雷鳴のごとく震撼し、すべての男たちの背筋に熱を帯びた何かを叩き込んだ。
 一瞬遅れて、霊燼が何を言ったのか、すこしずつ理解が広まっていった――

 ●

 狼淵と維沙は、何と言ったらいいのかわかぬ面持ちで、霊燼の巨体を見上げていた。
「あー、その、おい、大丈夫なのか、それ」
「だーははは! 心配するでない! みども絶好調!」
 上腕に力瘤を作りながら、霊燼は豪笑する。力強く隆起する二頭筋に、大角を生やした異律者の頭骨と、それを貫く軍剣を描いた刺青が彫り込まれていた。
 盛り上がった大胸筋には包帯が巻かれ、血が滲んでいる。
 槍が貫通しているらしい。意味が分からない。
「まぁしかし、さすがに食道はやられとるのう、これは。しばらくものが食えんわい」
 意味が分からない。
「それはそうと、どういう風の吹き回しなのだ? わざわざ会いに来てくれるとは」
 ここは至聖祭壇へ繋がる回廊の一角だ。
 いざや典礼と勇んで突き進む霊燼を、狼淵と維沙は待ち伏せていたのだ。
「あぁ、いや、その」
 狼淵は思わず頭を掻き、咳払いひとつ。
「昨日は……悪かったよ。なんにもわかってないガキが、偉そうなことを言った」
 そして頭を下げる。
 隣で維沙が一瞬まごついたのち、同じように頭を下げた。
「俺、刈舞のおっさんの話、受けるよ。〈帝国〉がもうちっとでもマシになるために、やれることは全部やる。王なんざガラじゃねえが、俺が適任だってんなら是非もねえ」
 自分の膝をじっと見る。
「だから、手を貸してくれないか。あんたの勇名は〈帝国〉全土に轟いている。あんたが味方になってくれたら、こんなに心強いことはねえ。頼む。あんたが必要なんだ。もしも〈帝国〉の現状に、少しでも理不尽さを感じてんのなら……」
「……男が簡単に頭など下げるものではない」
「けどっ!」
「狼淵・ザラガ。おぬしに問う」
 深く、厳かな声が降ってきた。
「王道とはどう転んだところで綺麗ごとだけでは収まらぬ。もしも百万の民草のために、隣のぼうずを殺めねばならんとしたら、おぬしは如何にする?」
 横で維沙が息を呑んだ。
 狼淵はすぐに手を伸ばして、維沙の鼠色の頭をわしわしと撫でた
「俺は無謬の天秤じゃねえし、そういうものになる気もねえ。こいつを天秤に乗せる気なんかこれっぽっちもねえし、そんな天秤があったらぶっ壊してやるだけだ」
「狼淵……」
「それは人道であって王道ではない。自分でわかっておるのか?」
「人と王は違うってか? 人じゃねえものに傅いてきたからこそ、今の〈帝国〉の歪みがあるんじゃねえのか!?」
「少なくとも、利害の食い違う幾億の民草を調停するには、人道とは別の視点を持たねばならぬとは思わんか」
「だからそれは……くそー、あれだよ! 俺が言いたいのはそんな小難っかしいことじゃなくて! 人間の当たり前の気持ちを汲んでやらねえような野郎に、普通の人間は付いて行きたいなんて思わねえだろうが! がきんちょ一人殺して百万人救って! なんだよそれ! そんなこと平気な顔で繰り返すような鉄面皮が、ひもじくて、ひもじくて、せっかく生まれた自分のガキを山ん中に置いてかなきゃなんねえようなどん底の連中に、明るい未来を信じさせるなんざできるわけがねえ! わかってんだよ俺だって! あんたら貴族が、別に好き好んで農奴(おれら)を締め付けてるわけじゃねえってことぐらい! なんか、わかんねえけど、いちいちもっともな理由があるんだろうさ! でもそれはいい加減限界に来てんだよ! ジリ貧なんだよ! 力ずくで言うこと聞かせるとかそういう無駄な労力払ってる場合じゃねえんだよもう! だからこそ――」
 口を引き結び、まっすぐ真正面から霊燼の目を炯と射抜く。
 小細工はしない。それはこの男への侮辱だと思ったから。
「――夢を見せるんだ。税や、法や、冬や、不作や、兵隊や、異律者や、病や貧困や不和や軋轢や、挙句の果てには明日にすら怯えなきゃなんねえすべての擦り切れて疲れ果てた奴ら。その〈魂〉に、ズンと響くような、眩しい夢を。気張って生きてりゃもうちっとマシな明日がやってくるって。いつか必ず、心から笑いあえる日が来るって。そう信じさせてやんなきゃ、もうお話にならねえところまで来てんだよ……! 損だの、得だの、効率がどうの、秩序がどうの、信仰がどうの――そんなものはなぁ、誰かに甘えることも、寂しがることさえも知らねえまま捨てられて、飢えと寒さに苦しんで苦しんで、ひとりぼっちで死んでいったすべてのガキどもの絶望、その一人分にすら値しねえんだよ! わかったかコラァ! 小を殺して大を生かすだぁ? なんだそりゃ回りくどい自殺か? 知らねえ見えねえ聞こえねえ下らねえ! これが甘ったれた妄想だってんなら、命をかけて[甘ったれ抜いてやる]! それが俺の王道だ!」
 気が付いたら、霊燼の襟首を掴み上げていた。
 大男のつぶらな目が、小さく見開かれている。
 張り詰めた沈黙。
 横で維沙が微妙に手を伸ばしかけた姿勢のまま硬直しているのが目の端に映り込んでいた。その人、大英雄だよね。大丈夫なの? と言いたげな視線が痛い。
 重苦しい沈黙。
 やがて、霊燼の目の端で、透明な煌めきが震えながら盛り上がっていった。
 瞳は真っ赤に充血してゆき、見る間に決壊。
 滝のように景気よく号泣する。
「みどもは……みどもは、自らを恥じねばならん……」
 絞り出すような声と同時に、覆いかぶさるように抱きつかれる。
「うぉっ」
 全身の骨が、軋みを上げた。
「いでででで」
「おぬしのような若者が、そうして必死に誠実に〈帝国〉を憂えている間、みどもは……かの黒き悪鬼どもを狩ることしか考えておらなんだ……っ!」
「あだだだだ」
「守るばかりで忙殺され、救うことも、導くことも、脳裏をよぎることすらなかった……っ!」
「うぎぎぎぎ」
「許してくれ友よ……っ! 尊きロムルスの血を受け継ぎし者にも関わらず、真に成すべきことが何なのか、みどもにはまったく見えておらなんだ……っ!」
「ぐごごごご……って死ぬわボケェ!!」
 床を踏みしめ、その反動から密着状態で掌打を叩き込んだ。
 冗談のように霊燼の巨体が宙を舞い、仰向けに倒れる。
 ごぎん、と後頭部が石畳に打ちつけられる音がした。
 静まり返る。
「お、おい……?」
 絞り出すように声をかけると、
 腹筋の力だけで唐突に起き上がり、手をぱたぱたと振りながら苦笑した。
「まぁ実際のところ、さっきの問答なぞはすべて魔月どのの受け売りよ。みどもは王者のあるべき姿なんぞ知らん知らん」
「いや、今の頭ゴツンについてなんか言えよ! 器がでかいにもほどがあるわ!」
 その言葉を無視して、霊燼はゆったりと立ち上がった。
「というよりも、この世の誰にもわからんと言った方が良いな。皇帝陛下が現世に降臨されてより千五百年。人類は常に頭上にかの現人神の存在を感じておった。己こそが頂点、などと思い上がることができた者など一人もおらぬ。それは公王(ディクタトル)らですら例外ではない」
 どこか遠くを見るように、目を細めた。
「魔月どのの王道は、あるいは正しいのかもしれん。だが、彼ですら皇帝陛下が御降臨される以前に諸民族を纏めていた王たちが、いかなる道を歩んでいたのかは知らぬのだ。古の記録はすべて餓天宗に焚書され、記憶も風化してしまったがために。どのような方策が今よりまともな世につながる道なのか、事前には誰にも確かめようがない。ゆえに――」
 狼淵の前に、ゆっくりと跪いた。
「――賭けよう。その光り輝く理想に。諸侯はおぬしの言を世迷いごとと謗るであろうが、みどもは冷徹な論理よりも甘い夢想の方が好きである。久々に――本当に久々に、痛快な啖呵を聞かせてもらった。みどもの〈魂〉は今、心地よく酔うておる。これからもずっと酔っ払っていたいと思うほどに」
「霊燼のおっさん……」
「狼淵・ザラガ。光の御子よ。みどもの忠誠、受け取ってくれるか」
「あぁ……ああ!」
 狼淵は、霊燼の巨大な手を取った。
「だけど、立ってくれよ。拝跪(そういうの)はナシだ。俺たちは君主と臣下じゃねえ。同じ場所を目指す盟友になるんだ」
「盟友……ふむ、盟友、盟友か」
 その響きを、味わうように舌の上で転がすと、霊燼はにっかりと笑った。
「ふふははは、善き哉! 童に返った気持ちだわい」
 相腕が伸びてきて、狼淵と維沙の頭を揉みくちゃにかきまわした。
「うぁ、おい!」
「わっはっはっはっは!」
「てめー、ガキ扱いしていいなんて言ってねえぞ!」
「だーはははははははは!」
 おかげで狼淵と維沙は髪型が逆巻く嵐のようになってしまった。

 ●

 ――祈っている。
 霊燼・ウヴァ・ガラクは目尻を穏やかに下げながら、至聖祭壇に佇んでいる。
 全身に気息が充溢し、緩やかな力が沸きあがってくる。
 ――狼淵・ザラガ。御身の野心と虚栄心に、相応しき因果が巡りくることを。
 あの愉快な少年が作る世は、果たしていかなるものになるのだろうか。
 わからぬ。あるいは、夢想だけで終わるやもしれぬ。
 しかし、もしも奇跡が重なって、狼淵が八鱗覇濤に優勝してくれれば。
 そして魔月と刈舞がその弁舌と人脈を駆使して、新たな王を盛り立ててくれれば。
 あるいは。ひょっとしたら――
 愚かな希望的観測。
 しかし、これまでの霊燼は、希望を胸に自分の意思で未来に突き進むということ自体、いつの間にか忘れていたのだ。
 幾千、幾万と異律者を撃滅し、背後の民草を守り続けても、所詮こんなことは破滅を先延ばしにしているに過ぎぬ――と、どこか醒めた気持ちで自らの戦功を眺めていたのだ。
 気張って生きてりゃ、今よりもうちっとマシな世がやってくる――そんな風に考えることなど、まったく出来なくなっていたのだ。
「――のう、怪物よ。おぬしは希望という言葉の意味を知っておるかの?」
 目の前に蟠る、人型の災厄に声をかける。
 黒髪が石畳に垂れ、拘束具じみた黒革の帯が濡れたような光沢を放っている。
 獣のように、あるいは蜘蛛のように、顎先が石畳と触れそうなほどの極端な前傾姿勢。
 長い前髪が揺れ、赤黒い歯茎と、噛み合わされた牙が覗く。そのすぐ上では、真円に見開かれた眼球が、黒い帳を透かしてごくわずかに見え隠れしている。
 その眼は血走って、何らかの強烈な感情を湛えてこちらを見上げていた。
「みどもは、知っておる。とある少年に教えてもろうたのよ。ふふふ、良いものだぞ。心に清い風が吹いておるかのようだ」
 散悟の剥き出しになった歯列から、透明な粘液が滴り落ちた。
 喉の奥で、きちきちきち、と昆虫のような嘲笑が漏れ出ている。
 霊燼は嘆かわしげに首を振り、肩をすくめる。
「わからんか。自分が悪夢の中に生きているということすら、認識できぬか。盲いておるな、おぬし。哀れなことよ」
 こつ、こつ、と無慈悲なまでに正確な足音とともに、餓天法師がやってきた。
 二人の間に立ち、朗々と告げる。
「これより、八鱗覇濤が一回戦、第六典礼を執り行う」
 腕を天に差し上げた。
「双方、五歩の間合いを取り、心機臨戦せよ」
 おもむろに霊燼は手袋をはずす。散悟もまた、それにならう。
 暗殺者の喉が蠢いて、何らかの不快な韻律を紡ぎ出した。
 瞬間、青白い異形の両腕が翼のように打ち拡げられる。その前腕部に紅紫の奔流がまとわりつき、ぎゅっと凝固。
 結晶質の手甲爪が形を成した。腕の輪郭が一回り以上大きくなり、伸ばされた鉤爪はちょっとした脇差ほどの刃渡りだ。
 号して「陰陽爪」。銘は「クルトゥーラ」。
 同時に、霊燼もまた口訣を唱える。
「〈疑惑〉の八鱗よッ!!!! 浄化の神威を纏い、凝固せよッ!!!!」
 巨大な掌から紅蓮の炎が噴き出した。眩い光熱を撒き散らし、渦巻き、逆巻き、荒れ狂う。
 その規模は陰陽爪クルトゥーラを明らかに圧倒する。桁違いの神気が世界を燃え上がらせる。
 むべなるかな、霊燼を見初めたるは別格の神器。すべての神聖八鱗拷問具の頂点たる起源槍インケルタの対となる存在であるから。
 性、猛々しく、戦場を愛す。華々しき一騎打ちを好み、この世で最強の武辺者にのみ自らの柄を預ける。
 無数の参列者らが、震えの混じった感嘆を吐いた。畏怖と崇敬の念が、彼らの〈魂魄〉を等しく高揚させる。
 長大。そして重厚。穂先だけで両手持ちの大剣と同等の寸尺を持ち、刺突のみならず斬撃をも繰り出せる形状だ。切っ先からゆるやかに身幅を増してゆき、柄にほど近いあたりで牙のごとく小刃が左右にいくつも伸びている。そこから柄が並の大人二人分の背丈ほどもつづき、円筒形の石突が先端を覆っている。
 号して「終極槍」。銘は「フィーニス」。
 〈帝国〉千五百年の歴史の中で、フィーニスの使い手が八鱗覇濤に参加することはなかった。この至高の祭具の御眼に適うますらおなど誰一人として現れなかったがゆえに。
 だが今、人類はようやく一柱の戦神を得た。
 讃えるべし。その名は霊燼・ウヴァ・ガラク。
 紅き神槍を携えたその姿は、まさしく餓天宗の教理の果て、宇宙蛇(アンギス・カエレスティス)との合一を果たせし救世主の姿を否応もなく予感させる。
 今そこにある神威。神の実在性を体現せし者。
 ――ゆえにこそ、みどもは神のためではなく、民のため、そして狼淵・ザラガのためにこの万物滅せる刃を振るおう。
 ふと、懐かしい想いに駆られる。そして、自分がなぜここまであの少年に肩入れするのか、不意に悟った。
 思い出していたのだ。かつて外界で軍団長をやっていた頃、狼淵とどこか似通った雰囲気の少年戦士が部下にいたことを。
 ――オイラたちは、あんたのために死ぬ。そのために生きてきたから。
 勝手に覚悟を決めて、勝手に満足しながら、太い笑みを浮かべて異律者の大群に飲み込まれていった、あの跳ねっ返りのことを。
 守るどころか、守られてしまった。その忸怩たる記憶。
 今度こそ、喪わせぬ。
「霊燼・ウヴァ・ガラク。並びに散悟・ガキュラカ。第七炎生礼賛経典義(テスタメントゥム・デュエリウム)が典範に従い、宇宙蛇(アンギス・カエレスティス)に己が霊格を問え」
 餓天法師が、腕を振り下ろした。
「――始め」
 即座に、散悟が動いた。

 ●

 ――いくつかの出来事が同時に起こった。
 狼淵はそれを必死に理解しようとする。
 まず生じたのは『破裂音』。
 ついで紅い閃光。同時に硬質の音。
 霊燼が終極槍を構え、険しい眼光で散悟を射抜いていた。
 対する散悟は、腕を突き出している。陰陽爪に包まれた手の中に、黒光りする何かを握り込んでいた。
「おい、なんだあれ!」
 それは、形状としては弩に似ていた。弓部を取り除けば、似たような形になることだろう。しかし、それよりも遥かに高度な冶金術の産物であることは疑いようがない。
 材質――不明。石でも金属でもない。狼淵が今まで見たこともない質感だ。
 見ているだけで、何か足元が崩れ去って奈落に投げ出されるような、異様な寒気を感じた。
 何か、あり得ざることが起きている。
 それだけは、わかった。
「今の破裂音――恐らく石火矢の一種でしょう。しかし、あの形状は……何か……うまく説明できませんが、ひどく異様ですね……」
 横で、刈舞が眼を鋭く細めている。その顔に、いつもの胡散臭い笑みはない。
 狼淵も、同感だった。
 石火矢自体は、狼淵も聞いたことがある。錬金術の過程で偶然生成された「硝石」と呼ばれる物質を利用した奇術だ。なんかよくわからんが、これをどうにかすると音を立てて破裂するらしい。この破裂時の勢いを利用して小さな礫を飛ばし、敵を倒そうという武器だとかなんとか。
 弩すら超える初速が出るが、それ以外のすべてにおいて弓や投げ槍やチョキを下回る。
 ゆえに速攻で廃れていった。硝石を安価に錬成できる方法でも見つかればまた違うのかもしれないが、今のところ戦争でも決闘典礼でも使いどころのない代物である。
 しかし――アレは、違う。
 石火矢など比較にならぬほど高度に洗練され、完成された技術の結晶。その隙のない佇まいからは、錬金術師どもが手探りに作った試作品などにはない、ある種の確信が感じられた。硝石の作用を熟知した者が、潤沢な資金をもとに[大量生産]した――そのような印象。
 しかし、ありえないことだ。石火矢の研究に金を出すような貴族など存在しない。そんな余裕があったらチョキを突き付ける武術論でも学究したほうが有益である。
 では、何なのか。
 散悟・ガキュラカはあんなものをどこで手に入れたのか。
 混乱する狼淵の前で、再び破裂音がした。
 しかも、連続している。一秒という短い期間に、五発。
 そのたびに紅い閃光が走り、礫を打ち落としていった。
 瞠目する。
 それほどの連射ができることにも驚愕すべきだが、何より霊燼の武錬の冴えに度肝を抜かれた。
 あの剛槍をもって、矢よりも遥かに小さな礫を残らず打ち落としたのだ。
 自分に同じことができるかと言われたら、絶対に無理だ。何が起こったのかもわからず、礫を撃ち込まれて死んでいたことだろう。飛来する矢を打ち払う程度なら容易いが、それよりも遥かに小さく速い礫を五回連続で防ぐなど――神域の武人にしか成しえぬ奇跡だ。
 霊燼は、巨大な拳を散悟に向けて突き出している。
 射撃と同時にチョキが来ることを警戒しての所作だろう。
「からくりに頼るか。興の削がれること甚だしい」
 霊燼は顎をしゃくった。
「ほれ、手品の揃えはまだ尽きておらんのだろう。どんどん見せい。ぼやぼやしておると素っ首叩き落とすぞ?」
 退屈げな色すら滲ませて、稀代の英雄は首を傾げた。

 ●

 ――米ソ冷戦の終結に伴い、「二分化」と言う名の世界秩序は崩壊した。
 それまで二大国に頭を押さえつけられていた第三世界の各勢力は、それぞれのイデオロギーと欲望を胸に、そこかしこで蠢動を始める。
 まともな軍隊を持たぬ小国と、反政府ゲリラと、民族主義テロ組織と、国内の世論によってかつての影響力を失った米軍と、その背後で眼をギラつかせるPMCとが渾然と入り混じり、誰と誰が何のために戦っているのかすら不明瞭な中で惰性のように戦火が交えられる。
 世界がそのような時代に突入した中、バブルが膨れた弾けたと能天気に騒ぐばかりの島国で、彼は生を享けた。
 少なくとも表面上は、他の子供と特に違ったところのない少年であった。
 就活うぜえと愚痴るだけの、どこにでもいる大学生が、怪物に変わるまでにかかった年月は、わずかに五年であった――

 ●

 散悟・ガキュラカは9mm拳銃をホルスターにしまった。パラベラム弾のマガジンは今の射撃で底をついている。今まで惜しみ惜しみ使ってきたが、ついに無用の長物となった。
 しかし相手はそんな事情など知るはずもない。いつ来るかわからぬ銃撃に備え、動きがある程度制限されるであろう。
 亜音速で進む拳銃弾は、反響定位に対して有効な不意討ちとなると思われるが、恐らくこんな程度の火力では殺し切れまい。
 仕方ないので、ここで使い潰す。
 メンタル、テクニカル、フィジカルのすべてにおいてこちらを明らかに上回る相手に勝つには、じゃんけん以外では厳しいのだ。
 霊燼・ウヴァ・ガラクとの戦いにおいて最も警戒すべきは、目を閉じたまま反響定位のみを頼りにされることである。
 ゆえに反響定位で対応できない攻撃手段をいきなり見せておくことは重要だ。
 餓天法師は――動かない。やはりセーフらしい。お笑い草だ。もし散悟がこの場にBC兵器でも持ち込んでいたらどうするつもりなのだろうか。ああ考えるまでもない。血泡を吹きながら「ますらおに誉れあれかし」と壊れたレコードのように繰り返すだけに決まっている。白痴か。
 ともかく、霊燼の認識は、これで視覚にややウェイトが置かれたはずだ。ここまではよし。
 ――あとは[あの位置]まで辿り着ければ。
 散悟はすり足で横に移動し始める。
 興味の薄そうな半眼が、こちらを追っている。大英雄の呼吸は一切読めない。城壁のような両肩は、まるで上下していない。
 攻撃のタイミングがまったく読めない以上、終極槍の間合いに入ったら即死すると考えた方が良い。
 しかし離れすぎるとこちらの狙いを察せられる危険がある。
 その狭間を、精妙な歩法ですり抜けてゆく。鉛のように重くなる時間と空間。
「まぁ、なんだ。なにか目的があって動いておるのであろうが……」
 苦笑交じりの声。
 散悟は突如床にへばりついた。
 背中を圧倒的な神気が灼き焦がす。
「……別段、邪魔をしてはならんという法もないわな」
 手首だけの力でアンダースロー気味に投げ放たれた終極槍が、一条の光線となってカッ飛んできたのだ。
 霊燼の動きが見えたわけではない。かけられた声の調子から、何か仕掛けてくるやも、と予感したのだ。
 やばいと思ったら即伏せる。
 自衛隊時代やPMC時代に叩き込まれた癖が、図らずも散悟の命を救ったのだ。
 瞬間、視界が陰る。
 上を向いて何が起こっているのか確かめる愚挙に及ぶはずもなく、散悟は即時前転。同時に拳銃を肩越しに向ける。
 牽制は功を奏した。とっくに来ているはずの霊燼の閃撃は、拳銃の射線を塞ぐために刹那の遅延を強いられたのだ。
 前方に身を投げ出し、石畳を蹴り抜く。快い慣性と浮遊感が全身を包み込む。
 ――六識魔爪が第四識、〈慢天道〉。
 宙を揺れ動く羽毛のごとき体捌きで、終極槍の制空圏より辛くも離脱。これに第五識〈疑叡道〉を組み合わせることで、「羽毛のごとき」ではなく羽毛そのものと化し、いかなる斬撃・殴打・刺突もするりとやり過ごせるようになる。
 特定条件下における絶対回避技能。
 が、武の究極とも言える霊燼に対しては、この絶対回避が絶対ではなくなる可能性がある。
 どのような慢心も、厳しく自制しなくてはならない。
「おう、身軽だのう」
 まるで子供を相手にしているかのような軽い口調。
「ところでおぬし、一息つくのは早いぞ。まだそこは死地よ」
 真紅の烈光が瞬く。もはやそれは世間一般で言う所の「突き」などとは次元を異にする不条理である。棒状の即死領域がそこに[出現]するものとして考えなくてはならぬ。見えた時点で着弾しているのだ。
 死んだ。どうしようもなく。
 正面からなら複数人による機銃掃射すら確実に回避してのける散悟であるが、この一撃に対してはまったく成すすべがなかった。
 が。
 ――生き、ている!
 我ながら信じがたい僥倖。
 一瞬遅れて、破裂音が響き渡った。つまり、先ほどの攻撃は音速を遥かに超えていたということだ。
 破裂音の発生源は、霊燼の足元。
 そこの石畳が、突如軌道を変えた終極槍によって引っぺがされ、宙を舞っていた。まったく見当違いの方向にベアリング球を撃っている。
 М18クレイモア地雷。
 散悟がこの世界に持ち込めた中では最も対人殺傷能力の高い装備であり、霊燼戦における切り札となるはずだった代物だ。
 昨日行われた第四典礼において、餓天使はいつくか石畳を破壊した。当然、すぐさま交換補修が行われたわけだが、散悟は事前に石材置場に潜入してクレイモア地雷の仕込まれた石畳と交換しておいたのだ。
 起爆条件は、百キログラム以上の荷重。武神の壮重なる肉体は、見ただけでその程度の目方はあると容易に推測できた。散悟には反応せず、霊燼だけを狙う即死罠。
 踏めば真下から無数の鉄球が扇状に射出され、霊燼の肉体を完膚なきまでに引き裂く――はずだったのだ。
 ――[起爆した後から反応しやがった]……っ!
 こちらの世界に来てから乏しい材料で手作りした信管だったため、多少のラグがあることは認めるが、それにしたところで理不尽にもほどがある。
 第五識〈疑叡道〉によって、つい先ほどの超音速刺突の動作構造をすでに解析し終わっていた。八極拳や蟷螂拳における「箭疾歩」と琉球古武術の「縮地」を発展的に組み合わせたような踏み込みだ。さらに上半身と下半身の動きにズレを作って彼我の距離を誤認させ、実に八メートル以上もの距離を一瞬で侵略してのけたのである。制空圏から脱したなどと考えたのは実に愚かな楽観だった。
 それほどの驚異的な踏み込みを行ってこちらを射殺さんとしたまさにその瞬間に、足元のわずかな違和感に即応して中断、最速の回避法を選択し実行する。
 武術の常識は愚か、いくつかの物理法則をも冒涜する行いであった。
 全身の毛穴が開き、脂汗が噴き出す。
 この状況、一見すれば双方無傷で五分五分と言えなくもないが、内実はまったく違う。六識魔爪は行使者を超人たらしめる魔技だが、人の身で人を越えんとするなら当然のように代償はある。
 すでに散悟の〈魂魄〉には重い疲労が蓄積されていた。〈慢天道〉はまだ大丈夫だが、〈疑叡道〉の全開使用はあと一度が限界だ。
 対して霊燼は消耗の色など微塵もない。腹が立つほどの生気が横溢している。
 ――勝機、なし。一切、なし。

 散悟・ガキュラカは牙を噛みしめ、勝利を断念した。

 ●

 初めて女を犯して殺したのは、確か南アフリカのどこかであったような気がする。
 延々と続く不安定な情勢の中で、暴力と貧困が猖獗を極める地上の楽園。
 世界のメディアから注目されることもなく、そこは男が男として当たり前の欲求を野放図に解放できる聖域であったのだ。
 テロ組織ネットワークの中を巧みに泳ぎながら、散悟はコンゴ、ソマリア、エチオピアなどを渡り歩き、思うさま殺し、奪い、犯した。
 黄金のような時代と、そう言い切ってしまって良いと思う。
 中東あたりでテロリストをやっていた頃は、やれ神がどうの民族がどうのと自らの欲望を自分以外のせいにしている惰弱なカスどもばかりで辟易していたものだが、その点アフリカの地方軍閥は素晴らしかった。
 彼らの虐殺には理由がない。
 殺したいから殺し、奪いたいから奪い、犯したいから犯す。
 欲望と行動が直結している生き様。
 これだ、と思った。これこそが、これだけが、男として正しい在り方なのだ。
 神のため、民主主義のため、安全保障のため、故郷で待つ子供たちのため――鉄火をもって人を殺すにあたり、もっともらしい言い訳などを胸に抱いているような連中は、全員腰抜けだ。死ねばよい。
 強く強く、そう信じていた。

 ●

 ――ゆえにこそ。
 霊燼・ウヴァ・ガラクにはここで死んでもらう。
 何が「希望のため」だ。脳みそに蛆が湧いているとしか思えない。かつて散悟が捨てた惰弱なる故郷でもちょっと見ないレベルの腰抜けだ。気持ちが悪い。臭くてしょうがない。衛生観念上、生かしてはおけぬ。
 散悟は優に十メートル以上の間合いを取り、両腕を軽く打ち振るった。
 手甲爪の刃が、陰惨な輝きを放つ。
 陰陽爪クルトゥーラ。
 おれを見初めたのなら、おれの役に立て。
 その刃に宿れる御力を、顕現させる。
 ――陰陽思想、とは。
 かつて皇帝に平定された諸民族のうち、紅紫の鱗を鍛えたる人々が考察した、二元論的世界観の一種である。
 この世のあらゆる事物は、それ単独で成立しているものなど何一つとしてなく、必ず対となり補完し合う「反属性」が存在しているという思想。
 光とは「闇の不在」に過ぎず、闇とは「光の不在」に過ぎない。
 善とは「悪の不在」に過ぎず、悪とは「善の不在」に過ぎない。
 男とは「女性性の欠如」に過ぎず、女とは「男性性の欠如」に過ぎない。
 あらゆる物事や特徴といったものは、その反属性存在と比較されることで初めて人間に認識されうるのであり、単独では「無」としか理解されず、存在していないのと同じなのである。
 暑い季節がなくなれば、「寒い」という感覚は無意味となり、消え失せるであろう。
 弱者がいなくなれば、強者は自分の強さの根拠を失い、無意義に堕するであろう。
 あらゆる反属性が互いを補完し合うことによって、この世界は成立し、運行されるのである。
 陰陽爪クルトゥーラは、これら反属性要素の相互依存性を一時的に断ち切る権能を持つ。
 簡単に言うと――[ひとつの存在を二つに分ける]。
 右腕に装着された陽爻爪は「陽」の要素を引き寄せ、左腕に装着された陰爻爪は「陰」の要素を引き寄せる。
 これをもって左右の手甲爪に同時に触れた物体は、その構成要素の中で交じり合う「陰」と「陽」を引き離され、二つの実体に分かたれるのである。

 ――自分の肉体が「陰」と「陽」に分離してゆく感覚は、意外なことに快も不快も伴わない。

 己の中からするりと何かが抜け出してゆく。同時に何かの中からするりと己が抜け出してゆく。まるで重なり合って見分けがつかなくなっていた二つの影が、不意に離れてゆくように、最初からそうであったかのごとく、何の抵抗も感慨もなく、[散悟・ガキュラカは二人になった]。
 「陽」の散悟は、これまでと大きな違いは見られない。筋骨が逞しくなり、これまで以上の剛力と俊敏さを得、柔軟性が失われた。
 「陰」の散悟は、それに比べるとかなり小柄だ。背丈が縮み、肩幅は狭くなり、胸は膨らみ、腰は丸みを帯びている。
 男の散悟は右腕に陽爻爪をつけ、女の散悟は左腕に陰爻爪をつけている。
 二つの視点から、二つの視界を同時に見る。
 霊燼は片目だけを見開き、この珍妙な現象に見入っていた。
「なかなかよくできた手品だのう。それで、二人で曲芸でもしてくれるのかな?」
 実際、完璧に意思疎通の取れた二人になるというのは、極めて大きなアドバンテージである。一見すると重大な聖三約侵犯のようだが、餓天法師らは陰陽爪の力についてはとっくに了解しているらしく、特に動きはなかった。
 散悟は二つの肉体を同時に動かす。スタンスを低くとり、全身の筋肉をたわませた。
 霊燼は眼を鋭く細め、こちらの出方を伺っている。
 そして――
 女の散悟が、[その場から逃走した]。
 〈慢天道〉による大跳躍から、一気に至聖祭壇より降り、つづく跳躍で参列席に降り立つ。
「いや、おい」
 霊燼の呆れたような声を完全に無視し、女は脱兎のごとく疾走。
 そのまま人ごみに紛れるように姿を消した。
 白々とした沈黙が、場を支配した。
「……餓天法師よ、逃げたぞ。良いのか」
 明らかにやる気をそがれたような口調で、霊燼は問いかけた。
「体の一部でも至聖祭壇に接触していれば、逃走とはみなされぬ」
 対して餓天法師は、いつもと全く変わらぬ調子だ。
 つまるところ、餓天法師は二人の散悟を一人の人間として捉えているので、男の方がこの場にいる限りは逃走と認識しないのだ。
 霊燼はころりと丸い指で頭をかくと、気を取り直したように終極槍を構えた。

 ●

 ――必要なのは、証拠である。
 餓天法師は基本的に現行犯でなければ動かない。
 ゆえに誰の目から見ても明らかな、確たる証拠が必要である。
 ――必要なのは、リアリティである。
 別段、衆目を納得させる必要はないが、餓天法師を納得させることは絶対に必要だ。
 ゆえに奴らの低い知能でも理解できる単純なストーリーを考えた。
 ――必要なのは、傷を負う覚悟である。
 卑劣を貫くにも、ある種の覚悟が求められる。
 何ら正当性も美意識もなく卑怯であることに、普通の人間は耐えられない。
 必ず言い訳を求める。
 散悟はその当たり前の人間心理を嫌悪し、軽蔑する。
 惰弱、惰弱、惰弱ども。謗られるのがそんなに怖いか。傷つくのがそんなに怖いか。生き方が薄汚いんだよお前ら。全員死ね。
 闘技場の回廊をひた走りながら、散悟は引き裂かれた頬を歪め、剥き出しの牙を軋らせた。
 あまり時間はない。至聖祭壇に残った自分が殺される前にことを成さねばならないのだ。
 やがて、前帝国様式の円柱の影、人の目を惹かぬ死角にうずくまる人間の前に立った。
 襤褸をまとって全身を隠している。腰は折れ曲がり、一見すると老人のようだが、かすかに漏れる息づかいは若者のそれだ。
 散悟はその腹に膝蹴りを叩き込んだ。
「げぅ……っ」
 うずくまったところで後頭部に靴を乗せ、体重を込めて三回踏みにじる。
 暴力言語。これは「すぐに移動してことを成せ」の意味だ。
 六識魔爪が第三識、〈痴愚道〉。
 対象の〈魂魄〉を破壊して、己に都合のいい人狗と変えさしめる拷問と洗脳の技能大系である。
 現在散悟が従える人狗は、ほぼ全員が年若い娘である。もちろん、気が向いたときにくびり殺しながら犯すためである。
 しかし、眼の前のこいつだけは例外的に男だ。別段カマを掘る趣味はない。刃蘭・アイオリアのような女々しいカスと違って、自分の強姦には情欲以外の理由など一切ない。
 こいつは霊燼・ウヴァ・ガラクを謀殺するためだけに用意した、特製の「猛毒」である。
 よたよたと覚束ない足取りで、人狗は至聖祭壇に向かう。
 無様であると同時に、おぞましい眺めでもあった。

 ●

 参列席が、にわかにざわめきを増した。
 その中で、ひたりひたりと、かすかな足音が至聖祭壇に近づいてくるのを、霊燼は聞きとった。
 ――物好きか。物狂いか。
 どちらにせよ意識を振り向けるほどのものではない。至聖祭壇に触れさえしなければ餓天法師も動くまい。
 だが、続いて接近者から発せられた声は、霊燼の〈魂魄〉に戦慄を撃ち込んだ。
「軍団長(レガートゥス)……」
 瞠目する。
「うおお――軍団長……軍団長! 頑張ってください! 勝ってください!」
「な――」
 視線はめぐらさない。今は典礼の最中である。
「その声……まさか……呀玄(アクロ)、か!?」
「はい、はい! 第一百人隊(ケントゥリア・プリムス)の呀玄ですぜ!」
 思わず息を呑む。
 それは、過ぎ去った栄光の時代を偲ばせる声色。とうに異律者の波に呑まれて失われたはずの。
「いや、馬鹿な……生きておるはずが……」
 再会など決してありえぬ。そのはずである。
 だが、声も、口調も、どう考えても本人としか思えぬ。
 敵を前にして、霊燼は思わず自失する。
 ――呀玄・クエルブ。
 かの血気盛んな若造のことは、よくよく覚えている。史上最年少で第一大隊(コホルス・プリムス)の第一百人隊(ケントゥリア・プリムス)に配属されるに至った、跳ねっ返りの少年戦士。
 鼻柱の強さから周囲との衝突が絶えなかったが、その実力は熟年の精鋭兵たちほどよく認めていた。
 こんな青二才に後れをとってなるものか――という感情ではあったものの、周囲の大人たちの戦意を自然と高める不思議な仁徳の持ち主であった。
 戦場では不羈なる自信を漲らせていたが、年頃の娘を前にすると緊張してまともに喋れなくなる小心ぶりを発揮し、よくからかわれていたものだ。
「お、おぬし、どうやって助かったのだ? 最後に見たとき、おぬしらは……」
 ――オイラたちは、あんたのために死ぬ。そのために生きていたから。
 別れの言葉が、悔恨と共にこびりついている。
「みんなは……オイラを庇って、全員おっ死(ち)んじまいました……」
 さもありなん。軍団兵らは退役まで妻帯を禁じられている。
 壮年の者らは、いまだ幼さの抜けきらぬ呀玄を息子のように思っている者も多かった。
 霊燼は、信じた。信じたかった。
 生き残ったのか。
 生き残って、くれたのか。
「そうか……そうか……」
 熱い涙が、頬を伝った。
 気が、緩んだ。

 ――金属音。

 水銀のごとくぬるりと踏み込んできた散悟の手甲爪の一撃を、霊燼は苦もなく受け止めた。
 笑止。そのような凡庸極まる不意討ち、何千回繰り返そうが武神の肉体には届かない。
 が――
「てめえっ!」
 背後で、怒声が上がって。
 どういうわけか、短剣が飛んできて。
 それが、
 散悟の上腕に、
 突き刺さり、

 ●

 不審に思うべきだったのだ。
 呀玄がなぜ、わざわざ典礼中に声をかけてきたのか。
 不審に思うべきだったのだ。
 そもそもなぜ、呀玄がアギュギテムにいるのか。
 状況の不自然さに、少しでも気づくことができれば、この結末は避け得たはずだった。
 だが――霊燼には、できなかった。
 共に死闘を駆け抜け、心を繋いだ部下を疑うことなど。
 決して決して、できなかったのだ。

 ●

「へへ、やりましたよ軍団長! へへへへへ、事前の打ち合わせ通り、ヒヒヒ、そのクソ野郎に一矢かましてやりやしたよアハハ、アハハハハハハハ!」
「な……に……?」
 事前の、打ち合わせ?
 何のことかまるでわからず、腕を押さえてわざとらしくのたうち回る散悟から目をそらし、呀玄の方を向いた。
 心臓が、一瞬、間違いなく止まった。
 何か、よくわからないモノが、そこにいた。
 最初、それは悪趣味な人形に見えた。皮膚の色が、明らかにおかしいのだ。
 ぽたり、ぽたりと膿汁が滴り落ちる。
 赤黒い筋肉と、黄白色の脂肪が、うねりながら積層している。
 そうだ。これ確かどこかで見たことがある。
 幼少のみぎり、騎士階級の家庭教師が来てすっげぇつまんねえ座学をやらされたことがあるが、たしかそのとき見たわこれ。
 あのー、なんだっけ、解剖学の学術書でな、人体の、あの、ほら、皮を剥いだ感じの絵が載っててな。筋肉のつきかたとかがたちどころにわかるわけだ。うん。
 ……うん?
「アヒヒ……ああ、あひヒひひ……」
 黄色い涎を垂れ流しながら、それは笑っていた。
 どこかで聞いたことのある声で。どこかで見たことのある茶色の瞳で。
「軍団長……オイラたちの……ヒヒヒ……軍団長……ケケケ……やりました……やりましたよ……」
「う……」
 うめき声が、喉から勝手にひり出てくる。
「う……ぐ……」
 力なく一歩二歩と歩み、手を伸ばす。
 丹田から力が抜けてゆく。ぞっとするほど冷たい瘧が、全身を這いまわっていた。
 赤黒くぬめる人影は、ゆらゆらと不安定な姿勢で、力なく嗤いつづけていた。
 衣服はまとっていない。皮膚もない。体表すべてに筋肉と脂肪と腱が露出していた。見る影もなく痩せ衰えた肉体。
 そして左腕が、ない。いや正確には腕の骨格だけが肩からぶら下がっている。靭帯や腱が風に揺れている。偏執的に肉だけを削ぎ落とされたのだ。
 両足の指はことごとく切り落とされ、代わりに太く錆びた鉄杭を打ち込まれている。
 男根は縦に真っ二つに切り裂かれ、壊死し、腐り落ちかけていた。
 だが、たったひとつだけ、かつての快活で肝の太い少年の面影を偲ばせるところがあった。
 刺青。
 異律者の頭蓋と、それを貫く軍剣の図案。
 これこそが己の心臓とばかりに、少年は胸板の中央にそれを掘り込んでいた。
 そこだけが、何かの悪意のように、褐色の皮膚を残していた。
 わかっている。
 この一年の間に、呀玄が誰の手に落ち、いかなる仕打ちに遭い、そしてなんのために今この場にやってきたのか。
 わかっているのだ。
 だが、それは、そんな。
「……あんまりではないか……あんまりでは……」
 膝からくずおれる。
 あまりに、堪えた。胸を貫く鉄槍などとは比較にならぬほどに。
 そして。

「――聖三約の侵犯を確認」

 絶望が、訪れた。
 はっと顔を上げる霊燼。
 立会人を務めていた餓天法師が、如法衣より一振りの剣を取りだした。
「典礼への乱入妨害と断定」
 朱色の颶風がひるがえり、繊細な焼き入れの施された刃が剣呑に輝く。
「典範に従い――鏖、奉る」
 抜剣即斬撃。呀玄はかわそうとする様子もない。
「よせっ」
 気づけば、両者の間に終極槍を伸ばしていた。
 灼熱の直線が二人を隔てる。
 逆三角形の仮面が、ゆっくりとこちらに視線を巡らせる。
「最前の会話より、かかる聖三約侵犯が事前に計画されたものと推定。霊燼・ウヴァ・ガラクと侵犯者の間に同じ意匠の黥印を確認。両者の卑劣なる結びつきを確認」
 体をこちらに向き直す。
「典範に従い――鏖、奉る」
「っ!」
 反射的に、パーを突き出していた。
 餓天法師はグーを出している。
 極限まで反復され、もはや無意識の工程となった先読み。霊燼は相手の腕の筋肉の微細な緊張具合から、十割の確率で次の手を予測することができた。
 黒き仮面が外れ落ち、その後ろから血と脳髄の破片が花のように咲いて散った。
「う……」
 あとに残されたのは、下顎と舌だけを残して消失した頭部のみ。
 餓天法師は膝からくずおれ、倒れ伏した。鮮血の領域が広がってゆく。
 直後、四方から全く同時に複数の声が聞こえてきた。
「鏖、奉る」
「鏖、奉る」
「鏖、奉る」
「鏖、奉る」
 反響定位。参列者たちに紛れて、前後左右から四人の餓天法師が接近してきている。
 声にならぬ呻きを上げながら、霊燼は石畳を蹴った。
 一息で呀玄のそばに到着すると、その赤黒くぬめる体を小脇に抱える。
 ――無意味だ。
 冷静な自分が無慈悲にそう告げる。
 ――みどもらは今や、世界の敵となった。
 聖三約侵犯者に赦しはなく、慈悲もなく、時効もない。
 もはや霊燼と呀玄に安らげる時は決して訪れない。餓天法師らは、いつまでも、どこまでも彼らを追い続け、そして徹底的に浄滅する。
「それでも……」
 腕の中の少年を見やる。かつて、この人のために命を懸けるのだと、輝く目で霊燼を見上げていた、無垢なる英雄を。
 その、変わり果てた残骸を。
「理不尽ではないか……あんまりではないか……!」
 せめて自分だけは、最期までそばにいてやらねばならない。
 『鋼の星座』は永遠であると。お前は孤独ではないのだと。
 そう、言い聞かせつづけねばならない。
「呀玄よ、すまなかった。すまなかった……」
 走り出す。反響定位。一目散に逃走している怨敵の姿を捉える。
「散悟・ガキュラカァァァ!!」
 床を蹴り抜く。全身を貫く慣性。胸に呀玄をかき抱き、終極槍を握り締め、中空を矢のように突撃。
 こちらに迫っていた餓天法師の顔面に着地。仮面を蹴り砕きながら参列席に跳躍。
 慌てふためいて左右に退く参列者をかきわけ、猛然と巨体を前方に射出する。
 瀑布のごとき風圧。
 視界の中央で、散悟はぐっと身を低く撓めた。
 球根のごとき筋肉の束が張り詰め、次の瞬間垂直に跳ぶ。
「おォォ――!」
 もちろん、すでに投擲動作を完了していた。
 終極槍フィーニスが、歓喜の唸りを上げながら中天を紅く切り裂く。
 その軌道は、ちょうど散悟が闘技場の外壁に爪をかけて乗り越える瞬間を貫くものであった。
 霊燼の投擲はあまりに高速すぎて、偏差照準の必要すらない。
 同時に背後から斬撃を打ち込んできた餓天法師の顔面に、肩越しの裏拳をめり込ませながら、霊燼は舌打ちする。
 外れた。
 力学的に不自然な軌道変化が起こり、散悟は肩口を軽く灼き焦がしただけで難を逃れた。
 ――合一したか。
 陰陽爪の権能が、解除された。
 陰(おんな)と陽(おとこ)に分かれていたのが、あの瞬間元に戻ったのだ。
 両者は形而上的引力に引かれて衝突。結果として終極槍の一閃から外れることに成功したのだ。
「ぬぅ……っ!」
 霊燼も足元を蹴り砕きながら強引に跳躍。手元に戻ってきた神槍を外壁に突き刺し、力任せに体を上に跳ね上げる。
 浮遊感。アギュギテムの街並みが一望される。
「どこだッ!!」
 左右から「鏖、奉る」白刃を煌めかせて駆け寄ってくる餓天法師らを無視して、壁から飛び降りる。
 遥か下の着地地点で、十八人の餓天法師が剣を真上に突き上げて待ち構えていることはすでに反響定位で察知済みだ。
 うち五人はチョキで歓迎の意を示していたが、無駄である。
「呀玄よ、目を閉じておれ」
 肉が剥き出しの顔を胸板に押し付け、己が神聖八鱗拷問具(アルマ・メディオクリタス)の力を発現させる。
 終極槍フィーニスが爆発的に燃え上がり、自らの存在を燦然と主張し始めた。
 瞬間。
 背後の二人と、眼下の十八人が、その場で一斉に倒れた。まるで唐突に昏睡したかのように。
 もはや永遠に動かない。即死である。
 絶対なる終わりを司りし祭具たる終極槍フィーニスは、安らかで速やかな死を与える。
 その権能を発動した瞬間、フィーニスを視界に入れていたすべての生命は眠るように息を引き取るのだ。
 それだけならばチョキと何ら変わらぬように思えるが、フィーニスの凶悪な点は霊燼が視認していない対象すら例外なく鏖殺することにある。
 ――じゃんけんの手は、殺傷力を発生させるために双方向の認識を必要とする。
 対象から見られていることも必要だが、それだけでなくこちらも対象をしっかりと視認し、殺意を込めて繰り出さねば頭部破裂が起こらない。
 軍団対軍団の大規模戦闘において、じゃんけんが悪手とされる理由はここにある。こちらがいくら意を込めてチョキを出しても、肝心の対象がこちらを見ている可能性はかなり低い。隣の奴を見ているかもしれないし、あるいはこちらの軍団をひとつのまとまりとして視認している可能性もある。
 このため、投げ槍や弓矢を浴びせかけた方が戦闘効率は遥かに上なのだ。
 ――アギュギテムに落とされる前に、フィーニスを手に入れていれば。
 詮無きことだが、霊燼はそう思わずにはいられない。これさえあれば、たったひとりで異律者の軍勢を撃滅することすら可能であったろうから。
 落下に伴い迫りくる大地へフィーニスを突き込み、柄を握りしめる力だけで二人分の全体重を受け止め、柔軟に着地。
 周囲に餓天法師以外の人間はいない。だからこそ終極槍の御力を発動したのだ。典礼中に使っていれば大惨事は免れなかった。
 反響定位。
 捉えた。
 累々たる死体を飛び越えて、霊燼は猛然と追撃を開始する。
「鏖、奉る」
 「鏖、奉る」
  「鏖、奉る」
   「鏖、奉る」
    「鏖、奉る」
     「鏖、奉る」
 街路のいたるところから、餓天法師が現れる。全員がすでに抜き身を携えている。
 目を閉ざし、反響定位のみで彼らの動きを見る。
 迅速で、無駄のない足運び。武術の奥義書に載せたいほどの完璧な体重移動。最小限にして効率的な呼吸。雷光のごとき太刀筋。すべてが芸術的に噛み合い、一人一人が伝説的な武勇を持っていた。ありていに言って、八鱗覇濤の参加者たちと比べてすら遜色ない。
 人として究極とも言える域の達人が、大挙して押し寄せてくるのだ。
「邪魔だッ!!」
 片手で放つ連続刺突が、餓天法師の心臓を一瞬で五つほど射抜いた。
 一瞬遅れて殺到する斬撃の網を強引に薙ぎ払い、間合いを外し、あるいは攻めの枕に終極槍をお見舞いする。
「ぬぅっ」
 が――手数が違いすぎる。 背中に一閃の熱が走り、鮮血が飛んだ。
 ほぼ同時に鋼の切っ先がフィーニスを握る腕を貫通。
 戦哮と共に腕を打ち振るい、剣を握りしめた餓天法師を仲間たちのほうへ叩きつけると同時に紅き穂先を一閃。四人を同時に両断する。
 神聖八鱗拷問具(アルマ・メディオクリタス)の権能は使えない。餓天法師らの後ろでは、痩せさらばえた貧民らが虚ろな目でこちらを見ている。
 もう片方の腕で呀玄を抱えていることも、動きに枷を作る原因になっていた。
 しかし何よりも霊燼を追い詰めるのは、奇妙なまでに個体差というものが存在しない餓天法師らの動きである。
 無論、完全に同じではない。体格に優れる者もいればそうではない者もおり、伴って多少の誤差は存在する。
 だが、技能面・精神面において、当然存在すべき差異――同じ流派を同じように修めた者同士でも必ずあるはずの「個々人の認識」という歪んだ鏡を通して立ち現れる剣質の違い――が、餓天法師の間では絶無なのだ。
 そんなことが、ありうるのか? 一体彼らはどのようにして、ここまで「非人間的」な統一戦術を編み出したのか?
 ――非人間的。
 無意識に想起されたその言葉に、霊燼は理解不能な怖気を覚えた。
「おォォッ!」
 神槍を振るう。三つの首級が赤い濁流をまき散らしながら吹き飛ぶ。
 反響定位は無論、仮面の奥の造形も認識できる。禿頭の、男の、顔。
 特にどうと言うこともない、普通の顔である。
 ――人間。そう、人間だ。
 彼らは真に公平なる神の理を体現するために、薬物と荒行によって人らしい感性と柔軟性を摩耗させただけの、ただの人間なのだ。
 現状の打破に何ら寄与せぬ感情に見切りをつけ、広い範囲の反響を捉える。餓天法師の数は増える一方であった。
 窓を突き破って、
「鏖、奉る」
 家屋の陰から、
「鏖、奉る」
 人ごみを押しのけて、
「鏖、奉る」
 歯が、軋る。
 駄目か。
 無理なのか。
 この包囲を突破し、散悟・ガキュラカのもとに辿り着くのは不可能か。
 無数に集結する一騎当千。これこそが〈帝国〉の思想的秩序を絶対的に律する、ごく単純にして無敵なる力である。
 手傷を受ける頻度が増してきた。
 すでに四十を超える餓天法師を屠ったが、彼らが戦意を喪失する気配は微塵もない。
「うう……う……」
 腕の中の少年が、か細く呻く。
「呀玄よ、案ずるな。おぬしには指一本触れさせぬ。もう誰にも、おぬしに惨い真似はさせぬ」
 そんな虚しい口約束しか、できぬのか。
「軍団、長……」
 意味のある、言葉。
 それが呀玄の口から発せられたことに、霊燼は軽く息を呑む。
「軍団長……軍団長……」
 ぬめる身体が細かく震え、救いを求めるように手が伸ばされた。
「軍団長すいません……オイラ、オイラの、せいで、う、あ……」
 役目を果たし終えたがために、散悟・ガキュラカの〈魂魄〉汚染を一時的に脱したのか。
「オイラ……オイラ……みんな、を、守って……戦って……死ぬ……それで、良かった……それ、だけで、良かった、のに……」
 声に震えが混じる。
「なんで……こう、なっちまうんだ……なんで……なんで……」
 正義のため、人民のため、皇帝陛下の御旗の元、我らは勇ましく戦った。
 見返りなど必要ではなかった。栄光も、いさおしも、人々の歓呼すらも、我らには喜ばしいだけのものであり、必須ではなかった。
 戦って、戦って、戦い抜いて、そして死ぬ。
 その、ただひとすじの美しき道を全うしたという自負。
 それだけで、男たちは立ち上がることができたのだ。
 ただそれだけで。たったそれだけで良かったのだ。
「オイラ……なんのために……生まれてきたんだ……なんの、ために……すいません軍団長……すいません、すいません……オイラのせいで……オイラなんかが生きてたせいで……!」
「よいのだ……よいのだ……!」
 力を込めて、抱きしめる。
「たとえ誰が否定しようとも、みどもは言うとも! 生きていてくれて、ありがとう……ありがとう……ありがとう……! また会えて、こうして語らえて、良かった……!」
 閉ざした瞼から、涙が流れ落ちた。
 四方から突き込まれてきた切っ先が、霊燼と呀玄の肉と骨と臓物を存分に貫いた。
 少年の肉体から、生命が抜け落ちた。
 おお。
 呀玄。
 呀玄よ。
 いったい、お前の存在が、『鋼の星座』の兵らにとって、どれほど救いとなっていたことだろう。その闊達さが、勇敢さが、真っ直ぐさが、からりとした笑顔が、子のいない者たちにとって、どれほど戦う理由になっていたことだろう。
「……あり、がとう……あり、が……と……」
 その瞬間。
 霊燼は、捉えた。
 反響定位によって得られる情報を整理し、選別し――そして、この瞬間、土壇場においてついに発見した。
 長く伸びた黒髪。球根のような筋肉。痩せこけた関節部。引き裂かれた頬肉と、剥き出しになった歯茎。
 違(たが)うはずもない。
 かの怨敵。この身が命を捨ててでも討ち取らねばならぬ災厄の化身。
 すでに心臓を含むあらゆる臓物は貫かれ、斬り潰された。
 この身はもはや死にゆくのみ。
 なれど。
 されど。
 しかれども!
 ――みどもは死を承服せぬ。
「絶対にッ!!!!」
 全周囲を、ドス黒い血肉が乱れ飛んだ。フィーニスの至高の刃が、鏖殺の旋風と化して餓天法師らを肉片に解体したのだ。
 孔だらけとなった肺が雄渾に打ち震え、哀切なる戦吼をひしりあげる。
 それは、たったいま息絶えた若き戦友を悼む謡であり、同時に英雄の時代の終りを告げる弔鐘でもあった。
 駆け出す。
 剛速。動きはまるで衰えぬ。
 霊燼・ウヴァ・ガラクは英雄である。悪を討ち、弱者を守る。
 それ以外の生き方は知らぬ。
 ゆえに致命傷程度では止まらぬ。
 溢れかえる血が肺腑を灼き、全身におぞましい寒さが広がってゆく。
 されど止まらぬ。子であり、弟でもあった友の亡骸をしかと抱えたまま。
 ありとあらゆる方角より、餓天法師の刃が襲いくる。そのすべてが虚実入り混じった巧緻極まりない一閃である。
 されど進む。終極の神槍が如法衣の波を切り拓く。
 止まらぬ。止まらぬ。止まらぬ。進み続ける!
 ――なに、いつものことだ。
 霊燼にとり「生きる」とは常にそういうことであった。
 男に幸福などありえない。あるのは戦いだけだ。
 それは当然の真理として、意識すらされることなく〈魂魄〉に感得されていた。
 ――ゆえによくフられたものよ。
 霊燼にも青春時代というものはあり、さまざまな階級の娘らを相手に浮名を流したりもした。
 しかしいずれも長続きはしなかった。
 無理からぬ。男に幸福などありえぬが、それを男ならざる身に理解せよなどというのは酷な話である。
 女たちと幸福を分かち合うには、霊燼は骨の髄から英雄であり過ぎた。
 愛や安らぎでは止まれぬのだ。
 ――だが、ただ一人。
 たったひとりだけ、霊燼の在り方を理解した者がいた。
 言葉でそう伝えられたわけではない。ただ、侮るような視線を投げかけられただけだ。
 そう――彼は霊燼を[侮ったのだ]。
 魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアス。
 男の中の男、戦士の中の戦士として生きてきた霊燼にとり、侮られるという経験は、腹が立つより前に新鮮な驚きをもたらした。
 まだそんなところにいるのか――とでも言いたげな、眼。己と同じ道を歩むが、しかし遥か後方にいる者へと向ける、その視線。
 それだけで、霊燼は理解した。
 理解されていることを理解した。
 あぁ、この年若い貴公子、これこそが英雄の末路なのだ。
 霊燼がゆく道の最果てに転がっている、気高き理想の残骸なのだ。
 人は、ほんのちっぽけな勇気を燃やし、英雄となる。
 そして英雄は英雄としての純度を高めてゆくにつれ、やがて俗人から共感されるところが少なくなってゆく。それがある閾値を超えた瞬間――英雄は恐怖と嫌悪しか向けられぬ、なにかおぞましい存在と化すのだ。
 ――だが、わかるぞ。
 この身はそこまでは至らぬが、しかし、それでも余人に比べれば魔月に近い存在だ。
 ゆえに、わかる。
 かの貴公子が、ひたむきであったことを。
 危ういまでに純粋であったことを。
 昔も今も、ただ人類社会に安寧をもたらしめることだけを目的に動き続けていることを。
 ――この世でただ一人、みどもだけは理解するぞ。
 そんな奴が、「討て」と命じたのだ。
 応。
 応とも。
 討ってみせよう!

 ●

 男に幸福などない。あるのは戦いだけだ。
 他者の苦痛と絶望を啜りながら生きてきた散悟・ガキュラカは、ごく当然の真理としてそう理解していた。
 それゆえに。
 彼は足を止めた。
 予定通り、逃走を中断した。
 ――この、状況。
 霊燼・ウヴァ・ガラクに聖三約侵犯の汚名を着せ、餓天法師らに始末させる策略は完璧に当たり、散悟の勝利は確定している。
 このままアギュギテム中を逃げ回っていればいい。第四識〈慢天道〉をフル活用すれば可能、どころか容易ですらある。
 だが、それはしない
 「臆病」という資質の意義をはき違えてはならない。
 勇気も、卑劣さも、臆病さも、結局のところ自らの利益を最大化するためのメソッドに過ぎない。
 どれかひとつに傾倒すること自体がすでに女々しい逃避なのである。
 号して「終極槍」。銘は「フィーニス」。
 霊燼を選びし神聖八鱗拷問具。
 ――欲しい。
 喉から手が出るほど。
 典礼中に霊燼が使おうとしなかった点と、逃走しながら大きく回り込んで至聖祭壇に戻った際に外傷のない奇妙な死体が折り重なっていた事実から、その権能はある程度推測できる。
 素晴らしい大量殺戮能力。
 欲しすぎる。陰陽爪のみみっちい能力がゴミにしか見えないレベルだ。
 霊燼こそが参加者中最強であることは疑いようがないが、それでも刃蘭・アイオリアをはじめとして油断ならぬ猛者がそろい踏みであることを考えれば、強大な武器はひとつでも多く手に入れたい。
 ゆえ、自らの手で止めを刺すことにした。
 戦って、勝ち取る。男の価値など真実それだけだ。
 生きるためとか守るためとか復讐のためとか、そんな受け身で惨めったらしく弱者くせえ敗者くっっっせえ後付の理由などすべて犬にでも食わせろ。
 [得るために]、ただそのためだけに男は戦うべきなのだ。
 散悟は鍵を取り出して、たどりついた家屋の扉を開ける。
 ここは数日前から確保しておいた場所だ。全身を切り刻まれて悶死した本来の住人の死骸がそこかしこに転がり、壁には紅い飛沫が飛び散っている。
 立ち込める死臭と腐臭の中で、散悟は窓際に立てかけてある己のハバーサックを探った。
 元の世界から持ち込めた荷物は、これでほぼすべてだ。電子機器はとっくの昔にバッテリー切れ。保存食料も煙草もすでに尽きた。
 だが、今必要なのはそんなものではない。
 指先に、プラスチックの懐かしい感触。黒い双眼鏡だ。
 散悟はそれを取り出すと、窓から身を乗り出して通りを見やる。
 来る。
 騒乱の気配。痩せ衰えた貧民(クズ)どもが逃げ惑っている。それにすれ違うようにして、餓天法師らが向かってゆく。
 来る。奴はすでにこちらの位置を掴んでいる。
 唯一警戒すべきは神槍の投擲だが、それを抑止するためにわざわざこの薄汚い貧民街に陣取ったのだ。巻き添えを極端に忌避している霊燼は、有効な攻撃のすべてを封じられ、こちらに近づかざるを得なくなる。
 ――来い。来い。来い。
 生まれついでの強靭な肉体にあぐらをかいた愚鈍な怪物め。殺してやる。おれが殺してやる。人間をナメるな。
 全方位からまとわりついてくる餓天法師を蹴散らしながら、それは現れた。
 体のいたるところから剣を生やし、そのうちいくつかは餓天法師が柄を掴んだまま引きずられている。
 目を閉ざしたまま、まっすぐこちらに走り込んでくる。
 どう見ても心臓は貫かれている。なぜ生きているのか理解不能だ。
 まぁいい。どうでもいい。バラバラのクズ肉にしてやれば同じことだ。
 そら、あと一歩、二歩、
 瞬間――霊燼はカッと眼を見開いた。
 その視線は正確にこちらを射抜いている。
 同時に、チョキが突き付けられた。
 散悟はそれをはっきりと見た。
 情け容赦もなく、言い訳のしようもなく、視認してしまった。
 が。
 ――想定内。
 散悟は双眼鏡越しにチョキを見ている。当然これは元の世界の技術によって作られたものだ。
 対物レンズと接眼レンズを筒の中に配しただけの望遠鏡が関の山であるこの世界の貧弱な科学知識では想像もつかぬメカニズムが秘められている。
 ダハプリズム式双眼鏡。
 すなわち、双眼鏡の内部に複数の反射鏡が配され、倒立像を正立像に変換する機構が備わっているのだ。
 ――これが、殺意を「遮断」する。
 現在散悟が見ているのは、チョキではない。鏡に映ったチョキの映像である。
 鏡による反射を経ると、じゃんけんの殺傷力が働かなくなることは、すでに人狗を使って実験済みであった。
 実際問題、この事実は何を意味するのか?
 じゃんけんによる頭部破裂とは、つまりいかなる現象なのか?
 チョキの光景が鏡による反射を経た後と経る前では、何が違うのか?
 頭部破裂を引き起こす主体とは、光以外の何かなのか?
 であるならば、眼を閉じただけで防げてしまうというのもよくわからない話ではあるが……
 まぁ、どうでも良い。
 ひょっとしたらこの奇妙な世界の謎だかルーツだか真理だかに迫ることなのかもしれないが、はっきり言ってまったく興味がない。
 今重要なのはこれでようやく霊燼のクソがクズ肉に変わってくれる位置まで来てくれたことだけである。
 ――では死ね。
 百キログラム以上の加重を受け、感圧式信管が作動。
 計五個設置されたクレイモア地雷に信号がゆき、一斉に炸裂。三千五百個のベアリング球が撒き散らされた。
 通りは噴煙に満たされ、一瞬遅れて貧民どもの恐怖と苦痛の悲鳴があたりに満ちる。
 左右六十度、仰角俯角十八度の円錐形が五つ交わった中心点に、間違いなく霊燼を捉えたのを確認した。
 もはや遺体と呼べるものが残っているかも怪しいオーバーキルである。異常な生命力を誇る霊燼とて、別に肉体が鋼鉄でできているわけではない。斬ったり撃ったり刺したりすれば傷を負わせられることはすでに何度も証明されている。
 加えて、今回のこれはそうしたレベルすら超越して、身体構造そのものを根本から破壊しつくす暴虐である。
 どう考えても生きているはずはないが――安心など到底出来ぬ。
 叶うならもう一度クレイモアを浴びせてから生死確認したいところであったが、しかしもはや品切れだ。
 加えて、拷問具が次なる仮宿を選ぶ際、最も近い位置にいる生者に決める可能性が濃厚だ。まかり間違って餓天法師の体に潜り込まれては目も当てられぬ。
 行くしかない。直接、この手で脳みそを叩き潰すしかない。
 覚悟を決め、散悟は窓を飛び出した。
 石材や木材の欠片が混じった煙のただなかを駆け抜け、霊燼の死体を目指す。

 ――覚悟は、していたつもりであった。

 足元をぬちゃぬちゃと血肉がぬめる。人体の破片がそこかしこに散乱している。

 ――警戒も、怠ってはいなかった。

 視界が悪い。霊燼の死体が確認できない。むせかえるような血臭。千切れた貧民の腕が落ちている。

 ――散悟はここまで最善手を打ち続け、絶望的な実力差によく抗ってきた。

 ない。どこにもない。奴の死体の、一部すら確認できない。募る焦燥。

 ――仮に霊燼が生きていたとしても、もはやまともに動くことなど不可能な重傷を負っているはずである。

 威力が強すぎたか? それであらぬ箇所に吹き飛んだ? 探す場所を変えるべきか?

 ――シビアなリスクヘッジを徹底してきた散悟ですら、これは勝てると確信する局面であった。

 煙が晴れない。つまり数秒も経っていないのだ。焦るな。根拠のない恐怖など抱くな。

 ――だがしかし、

 奴が自力で移動して息をひそめているなどという荒唐無稽な妄想は捨てろ。落ち着け。

 ――だがしかし、だがしかし、だがしかし、

 呼吸を整えろ。恐慌にとらわれた者から死んでゆく。足を動かせ。ひとところに留まるな。

 ――だがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかしだがしかし――

 紅。
 の、ひかり。
 散悟は、魂切るような悲鳴を発していた。
 見間違うはずもない。終極槍フィーニスの烈光だ。
 心底から、後悔した。
 無駄な欲をかいた。あのまま逃げに徹していればよかった。
 生きていた。生きていた。神槍で攻撃してきた。避けられぬ。避けられるはずがない。奴は無敵にして不死身の武神なのだ。概念は殺せない。誰も勝てない。理不尽にもほどがあったが、事実だけに認めざるを得なかった。
 死ぬ。おれが死ぬ。こんなところで。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だいやだいやだいやだ! もっと殺したい! 奪いたい! カスどもが苦しんで絶望して気が狂うところが見たい! 女を壊れるまで犯したい! なのに。なのになのになんでなんでなんで、なんで! こんなところで死ななきゃならない! 理不尽ではないか! あんまりではないか! おれが何をした! おれの命はこの世のクズどもすべてを合わせたより重いのに! おれだけが偉いのに! おれだけが大切なのに! 天地万物の間で尊重されるべきなのはおれの意志でありおれの命でありおれの欲望でありおれおれおれおれおれおれだけだろうが糞が白痴かてめえ! 何を勘違いしてやがるんだやめろ屑! おれの糞ほどの価値もねえゴミ芥の分際で! こんな暴虐が許されるのか! この世に正義はないのか!
 引き裂かれた頬で言語の体を成さぬ絶叫を喚き散らしながら、散悟は尻もちをつき、無様に這い退った。
 ……が。
 紅の奔流は、散悟には向かわなかった。
 液状化したまま、近くで倒れ伏し、まだかすかに息のある貧民の体内へと潜り込んでいった。
「……ァ……」
 半ば呆然と、散悟はそれを見る。見呆ける。
 動くものは、なにもない。瀕死の貧民が、断末魔の痙攣を繰り返しているだけだ。
「……ァ……キ……キャ……」
 恐慌が徐々に静まり、理解が広がって行った。
 死んだのだ。霊燼・ウヴァ・ガラクは。
「……キャキャ……キキキ……クク……」
 死んで、バラバラになって、跡形もなくなって。
 だからフィーニスが液状化して、次の仮宿を求めたのだ。
「……クキ、クキキキキキキキ……!」
 なんだ。
 なんだなんだなんだ。
「クキカカカカカカカカカカカケケココココヒヒヒヒヒヒヒヘェハハハハハハハハハハハハハハアハアハハハハハアハアハアハヒヒヒヒヒヒヒキキキキキキキキケケケカカカカカカカカカカカカカッ!」
 死にやがった。死にやがった。あいつ死にやがったぞついに!
 ――馬鹿が。自業自得だ。
 嘲笑と哄笑が止めどもなく喉の奥より排泄され、気が狂うような多幸感と達成感に身をのたうたせた。
 あとは簡単だ。そこで死にかけている貧民を殺せばいい。それで終極槍フィーニスは散悟・ガキュラカのものだ。
 ああ愉快だ。
 終わってみれば何もかもうまくいった。
 八鱗覇濤における最大の試練を、見事乗り越えたのだ。後に残るのは霊燼よりも遥かに格の落ちる連中だけだ。
 やった。やってやったぞ。
 もはや近代兵器はすべて使い尽くしたが、それだけの甲斐のある勝利だ。
 ようやく笑いの発作を抑えると、なおも残る忍び笑いをこらえながら立ち上がった。
 そして、貧民に、歩み寄る。
 瞬間――視界が陰った。
 喉元に、何かが伸びてきて、

 散悟・ガキュラカは、今度こそ恐怖の絶叫を上げた。
 糞と小便を漏らし、泣き叫んだ。

 ●

 ――余人には、徒労と映るのかもしれない。
 しかし、畢竟、「生きた証」などというものは、他人にしてみれば無意味なものであったほうが良いのだ。
 何かのための手段ではなく、ただ究極の目的として、それ自体は何の役にも立たぬものであったほうが良いのだ。
 ……霊燼・ウヴァ・ガラクは。
 己がいまだに明瞭な意識を保っていることに、苦笑めいた思いを抱く。
 もっとも、本当に苦笑することなどもはやできそうにはなかったが。
 ――やれやれ。これはいかなる仕儀なのやら。
 反響定位でもって、己の肉体がどのような状態であるかは「視て」取れる。
 まったく、ひどいありさまであった。
 [まず頭が半分吹き飛んでいる]。
 この時点で、なんというかもう、どういうことだよと頭を抱えたくなってくる。抱えるべき頭などもうないが。
 幼少期はどうやって家庭教師の手から逃れるかということばかり考えてきた霊燼だが、さすがに脳みそが思考と意識を司る器官であることぐらいは知っている。
 つまり、一般的な意味において、霊燼・ウヴァ・ガラクは死んでいる。
 無謬の神器たるフィーニスがこの身を離れ、別の宿主を探したのが証拠だ。神(ヘビ)御自らによって死亡判定を下されたも同然である。
 ではなぜこの体は動く?
 まぁ、よい。そんな益体もない考察は死んでからすればよい。
 今、重要なのは怨敵の首に文字通り手が届いたことである。
 その腕とて肉がぐずぐずに耕され、そこかしこから骨が露出しているが、散悟の頸椎を握り潰す程度の力はまだ残っている。
 ――観念すべし悪鬼。
 貴様がこれまでしてきた所業のツケ、いいかげんに支払ってもらうぞ。
 握り――潰す。
 その直前。

「それはならぬ。ならぬよ霊燼・ウヴァ・ガラク」

 軽い衝撃。
 すでに痛覚など死に果てている霊燼には、その程度のことにしか感じられなかった。
 どさりと散悟の体が地面に落ちる。
 何故か。
 ……腕がなくなったからだ。
 何故腕がなくなったのか。
 ……横合いから斬り落とされたからだ。
 誰が斬り落としたというのか。
 ……あぁ。
 霊燼は、かすかに嘆息する。
 その男は、悠然と、そこに佇んでいた。
 それが誰なのかを理解した瞬間、霊燼は、哀しい納得が、自らの〈魂〉に染み入ってくるのを感じた。
 ――そうか。そうなのか。
 さまざまなことが、腑に落ちた。
「おぬしが創る新世界の秩序に、英雄(みども)は、不要、か」
 不思議と、明瞭にしゃべることができた。
「然り。貴様の役目はとっくに終わっている。大義ご苦労。疾く眠れ」
 その男――魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアスは、特段の感慨も見せず、そう言った。
 裏切られた、とは考えなかった。それはまったくのお門違いというものである。
 霊燼は魔月を信じている。信じ抜いている。
 それはもはや信頼を越え、崇拝すら越え、[常識]であった。
 魚が泳ぐことが自明であるように。
 鳥が飛ぶことが自明であるように。
 魔月という男が人類社会の平穏と安寧のためだけに動いていることは自明なのである。
 そこに人がましい野心だの感傷だのは一切ない。疑う余地が何一つとしてないのだ。
 そもそも最初から、この貴公子は必要となれば何でも切り捨てる人間であると分かったうえで、付き従っていたのだから。頭に頂き、尊重していたのだから。
 ゆえに、怒りなどまったくない。
 ただ、透明な悲しみだけが、胸を洗っていた。
 この若き執政官が抱く最終目的。
 無論、詳細に語り聞かされたわけではないが――
 付き合いは長いのだ。おぼろげに察するぐらいはしている。
 ――なぜ、光都カザフを異律者に差し出したのか。
 ――なぜ、諾々と帝国法務局(プラエトリウム)に逮捕されたのか。
 ――なぜ、八鱗覇濤に参加したのか。
 ――なぜ、ここで霊燼を切り捨てるのか。
 知らず、苦笑が浮かんだ。
 そうか。なるほどそうなのか。
 魔月は、口の中で、嘯く。
「我は宿業を負い、罪を犯せり」
 謡うように。寿ぐように。
「ゆえ、この身に降りかかるあらゆる艱難は、贖罪に至る道標なれば」
 それは死にゆく朋友へと捧ぐ、弔詞。
「愛しむべきかな。誉むべきかな。我は正当なる断罪を希う」
 そして酷薄極まる、人としての温もりが根本的に欠け落ちた、凄惨な笑みを浮かべた。
「ゆえ、散悟・ガキュラカにはもうすこしだけ生きてもらわねばならぬ。このような、便壺の掃き溜めよりも汚らわしい性根の持ち主であろうと、使い道はあるものだ」
 そして――倒れ伏し苦しみ悶える貧民のそばに寄り、一閃にてその首を刎ねた。
 直後に吹き出る紅き奔流が、魔月の中へと吸収されてゆく。
「されど――貴様はならぬ。貴様は存在しているというだけで不協和音を出す」
 あぁ。わかる。わかるぞ。
 散悟・ガキュラカは確かに卑劣なる鬼畜外道であり、人を殺めることを何とも思っていない最低の屑だ。
 だが、それがなんだ?
 所詮は獣器。余人の共感など一切呼ばぬ。奴に憧れて暗殺者になる子供などひとりもおるまい。社会的な影響力など無に等しい。生きていればこれから何百人と殺すかもしれぬが、〈帝国〉の規模を考えれば問題視するのも馬鹿馬鹿しい損害だ。益にはならぬが、大した害にもならぬ、くだらぬ存在である。
 だが――霊燼は違うのだ。
 男の中の男。戦士の中の戦士。英雄の中の英雄。貴族であり、公人であり、軍団長(レガートゥス)である。
 その名を知らぬ者などおらず、〈帝国〉臣民の憧憬と称賛を一身に浴びる現代の神話。
 ゆえに、まずいのだ。
 あまりにも輝かしすぎるが故に。人としての情けを残しているが故に。
 薄れゆく意識の中で、ふと、狼淵・ザラガのことを思い出す。
 あの愉快な少年に啖呵を切られ、忠誠を誓ったときのことを。
 ――あやつの言葉には、力があった。夢があった。希望があった。
 明るい未来が在りうることを、理屈抜きで信じさせる何かがあった。
 この少年ならば、実現させてくれるやもしれぬ。
 平和で、安定した、幸福な社会などという、〈帝国〉史上一度たりとも実現しなかった理想郷を、現実にしてくれるやもしれぬ。
 ゆえに――ゆえにこそ。
 ――そこに、英雄の居場所はないのだ。
 霊燼は、想う。『鋼の星座』のことを。
 寒空の下の行軍を。必死に恐怖を噛み殺し、ちっぽけな勇気を振り絞る稚い英雄たちの姿を。
 精一杯、霊燼の背中を追いかけようとする、ひたむきさを。
 俺たちがやらなきゃ、誰がやるんだ。そう励まし合い、肩を寄せ合い方陣を組んだあの一体感を。
 皆が寝静まった後、押し殺していた恐怖にひとり泣く、その肩を。
 異律者の屍の山を前に、勇壮なる勝鬨を上げた、あの誇らしさを。
 ――狼淵・ザラガは、その一切を、過去のものにする。世界から、忘却させようとする。
 一切の悪意も自覚もなく、我らの誇りを、生きた足跡を、無意味なものに変えてしまう。
 あぁ、だから。だから。
 ようやく今、自覚したのだ。

 ――みどもはあの時、間違いなく狼淵・ザラガを殺そうとした。

 こらえられなかった。相手の方が正しいとわかっていても、抑えきれるものではなかった。霊燼の膂力ならば、人間を抱き締め殺すくらい造作もないのだ。
 無論、思いとどまった。
 あの場面を百回繰り返そうと、必ず思いとどまった自信はある。
 だが、千回繰り返して、それでも一度たりとも思いとどまれないはずはないと、本当に言い切れるか。
 あぁ。そうなのだ。だからなのだ。
 この浅ましい心根を、魔月には見抜かれていたのだ。
 だからこそ今がある。
 人器たる霊燼は、周囲に影響を与えずにはいられない。どうあっても、真に孤高を貫くことなどできはしない。ここにいるぞ、と。どうか忘れてくれるな、と。哀切に、言葉もなく、訴えかける。平穏に生きるはずだった次代の子供たちの、共感と憧憬を引き寄せてしまう。
 ゆえに、消えねばならぬ。
「わかった。ここで死のう」
 最期は、厳かに。
 うなずく魔月に歩み寄り、その黒髪をぐしゃぐしゃに撫でてやった。
「がんばれ。大望の成就、祈っておるぞ」
 不快げに眉をひそめる青年に、してやったりと笑みを見せる。
「おぬしはみどものことを駒としか思ってはおらなんだろうが――はっ! 知らんよそんなこと。関係ないわ。みどもにとりおぬしは友よ。それは未来永劫変わらぬ、確かなことよ」
 血も涙もない統治装置としての生涯を粛々と歩み抜くであろう魔月の道に、ほんの一か所だけ不純物をなすり付けてやった
 その事実に満足して、霊燼は生命の手綱を――手放した。

 英雄、果つる。
 それは、ひとつの時代の終りを偲ばせる、象徴的な光景であった。

後書き


作者:バール
投稿日:2016/06/27 20:41
更新日:2016/06/27 20:41
『鏖都アギュギテムの紅昏』の著作権は、すべて作者 バール様に属します。

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作品ID:1749
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