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作品ID:1750
「鏖都アギュギテムの紅昏」へ

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鏖都アギュギテムの紅昏

小説の属性:ライトノベル / 異世界ファンタジー / 激辛批評希望 / 中級者 / R-15&18 / 連載中

こちらの作品には、暴力的・グロテスクおよび性的な表現・内容が含まれています。18歳未満の方、また苦手な方はお戻り下さい。

前書き・紹介


天使論。あるいは蛇の宇宙誌

前の話 目次 次の話

 魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアスは、乱れた長髪を手櫛で整えながら歩いていた。
 ――最期まで、道化じみた生であったな。
 魔月が霊燼・ウヴァ・ガラクに対して抱く感慨は、かすかな嫌悪と、乾いた侮蔑のみである。
 見た目こそ武神めいて壮重だが、中身は英雄譚の記号めいた悪役よりも薄っぺらで、自分と言うものを欠片も持たぬ男だった。
 我執でも妄念でも構わぬ。自らの〈魂〉に根差す欲求を思想に昇華することこそ、人の人たる所以である。
 それに比べて奴は何だ。最初は「皇帝陛下」に、次は「物語の英雄」に、その次は「男らしさ」とかいう空虚な概念に、そして魔月が説く「貴種の義務」に、最後には「狼淵・ザラガ」に。
 それぞれに寄りかかって。とっかえひっかえ依存して。おんぶに抱っこで。
 耳元に囁かれる聞こえの良い言葉を鵜呑みにして、何ひとつとして自分では掴み取ろうとしなかった、まさにダニのごとき男。
 最期に向けてきた友情とて、「ここはそうしたほうが男らしい」とかなんとか愚にもつかない考えでやっていたであろうことは想像に難くない。
 魔月こそが呀玄・クエルブの死の遠因であることを知っていれば、奴は決してこちらを許したりしなかったろう。
 そんな程度の「友情」だ。乾いた笑いすら出てこない。
 さておき、長らく自分の周囲を飛び交っていた巨大なダニをようやく叩き潰せた。
 特別な感慨はないが、まぁ、大きな案件を片付けた充足感は多少ある。
 この戦いに干渉する目的は、ふたつあった。
 ひとつ、霊燼・ウヴァ・ガラクの謀殺。
 ふたつ、散悟・ガキュラカの終極槍フィーニス入手を阻止すること。
 言うまでもないが、これらは本来矛盾する。仮に霊燼が敗死したとして、フィーニスは散悟の手に渡ってしまうのだ。
 その結末を避けるために、実に遠回りな謀略を巡らさねばならなかった。
 まず大前提として、今回の八鱗覇濤の参加者中、霊燼を打倒できる可能性が最も高いのは散悟である。
 他は無理だ。人間が持てる武技と拷問具の力をどのように組み合わせても、霊燼には通用しない。
 唯一、夜翅・アウスフォレスだけは魔月の情報網にすら正体がまったく掴めぬ不確定要素であったが――無論、そんなものに希望を託すなど現実的ではない。
 どうあっても散悟・ガキュラカに殺してもらうよりほかにないのだ。
 ……根回しは、魔月がアギュギテム入りするより以前から始まっていた。
 エスクィリヌス邦における異律者侵攻ののち、『鋼の星座』の生き残りらを保護した時点から、今日この日の展開を予測し、入念に計画を進めてきたのだ。
 帝国法務院(プラエトリウム)や餓天宗らと密に連携を取って散悟・ガキュラカを逮捕すると同時に『鋼の星座』の生き残りたる年若き軍団兵(レギオナリス)に適当な罪をかぶせて、もろともにアギュギテム送りにする。
 散悟にはそれとなく耳に入る形で、この少年兵こそが霊燼・ウヴァ・ガラクと知古を得ていた戦友であることを吹き込んでおいた。
 あの人非人ならば――必ずや拷問具に選ばれ、八鱗覇濤に参加するであろう。そして必ずや呀玄を有効活用して霊燼を追い詰めてくれるであろうと。
 ほとんど確信していた。
 魔月にとって散悟・ガキュラカほど行動の読みやすい男はいない。
 常に自身にとっての最善手しか打たぬのだから当然だ。そのわかりやすさたるや、呆れるを通り越して微笑ましくすら思えてくる。
 その後、魔月自身がアギュギテム入りしてからも、本人に悟られぬままその行動を誘導・補助しつづけた。
 ――ここまでお膳立てしてやったにも関わらず、最終的には余が自ら救ってやらねば負けていたのだから、まったく使えんゴミというほかないな。
 どうすればそこまで愚鈍かつ無能になれるのか、ほどんど愕然とするほどである。これだから獣器と関わるのは不快なのだ。
 まぁ、とはいえ、だ。
 重大な懸案のひとつはおおむね満足のいく形で決着した。唯一、終極槍フィーニスがこの身に宿ってしまったのは、やや想定外ではある。状況的に致し方なかったとはいえ、これでは魔月の戦力が不必要に強化され過ぎてしまい、今後の計画に支障をきたす恐れがある。
 が、修正は可能な範囲であろう。
 まだまだ成すべきことは山積しており、そのどれもが薄氷の上を歩くがごとき繊細さを要求されるが、ひとつひとつ片づけてゆくより他にあるまい。
 それ自体に不満はないし、特に負担とも思っていない。
 ――余は誇り高きカザフ公なれば、貴種の義務を粛々と果たすのみである。
 他の生き方など知らぬ。
 しかし同時に、ふと思う。
 [なぜ]、[こうなのか]――と。
 魔月は自らを冷徹に客観視する。そして、自分のこの人格が、他の人間とはあまりに異なっていることを理解する。
 正義とは多数派のことであり、その理屈で行くなら自分は間違いなく「悪」であり「狂気」であり、仮に安定した社会秩序なるものが構築された場合、真っ先に危険因子として排除されねばならない存在である。
 ……しかし、なぜだ?
 なぜそんなことになった? 物事には原因と言うものが必ず存在するはずである。では魔月の〈魂〉がここまで奇形化し、悪に堕ちた原因とはなんだ?
 が、いくら記憶を探ったところで、心当たりに引っかかるものがないのだ。
 ――恐らくは。
 記憶に蓋をしているのだ。
 魔月の感性が、まだ潤いを失っていなかった時代に、何かがあったのだ。だがその出来事は、人間の〈魂〉をここまで歪め貶めるほどの陰惨な経験であり、想起して味わうことに非常な苦痛が伴うものだったのである。ゆえに自分は、無意識のうちに記憶に蓋をし、かつてあった自らの原点とも言うべき事実から目をそむけ、表面上は平静を保っているのである。
 ――なんと女々しき心持ちか。
 自分の中にそのような柔弱さが残っている事実に、かすかな嫌悪を抱く。
 ただひとすじの美しき道を、堂々と歩む。そのためには、自らの弱さと正面から対決せねばならない。必ず、思い出さねばならない。だが、どうやって思い出せばよいのかわからない。
 いつも決まって、堂々巡りに陥る思考。
 この益体もない想いに囚われているうちは、自分はまだまだ人間なのだろうな――と。
 口元を歪めながら、魔月は雑踏の中に紛れ、消えていった。

 ●

 断続的に、赤樫の打ち合う音が響き渡る。
 磨き上げられた板張り床に反響し、自然と背筋が伸びる空気に満ちていた。
 鋭い裂帛とともに、ひときわ強烈な撃音が弾ける。
 二人の男が、交差したそれぞれの得物ごしに、互いを睨み合っている。
 一方は狼淵・ザラガ。木剣を振り下ろし、そのまま対手を押し潰さんとするかのように力を込めている。衣服越しに背筋の緊張が浮かび上がり、凄まじい力がこの一撃に込められていることを窺わせた。
 一方は刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイド。打突部に金属の箍をはめ込んだ六尺棒をもって、落雷のごとき一撃を受け止めている。こめかみに汗が浮かび上がっていた。そう長くは耐えきれないであろう。
「シィッ!」
 足払いが一閃され、狼淵は横ざまに刈り倒される。
 ――かに見えた瞬間、木剣を撃ち込んだ。
 側転と同時の攻撃。これも抜け目なく棒で防いだ刈舞は、今度こそ目を見開く。
 狼淵の脚が跳ね上がり、六尺棒に絡み付いたのだ。
 そのまま武具を軸に回転し、もう片方の膝が刈舞の顎に襲い掛かる。
 即座に得物から左手のみを離し、打点をずらす。
 脇に重い衝撃。軋む肋骨。構わず棒を振り回して狼淵を床に叩きつけた。
「がッ!」
 背中を打って肺から空気が押し出された。
 そのまま手足を投げ出して、呼吸を整える狼淵。
「ふむ、武器を奪われましたか。あなたの勝ちですね」
 見れば、刈舞の六尺棒は狼淵の足が絡みついたまま一緒に吹き飛んでいた。
「……あに言ってんだよ。これが拷問具だったらすぐに手元に戻ってるだろ」
 むくりと起き上がってあぐらをかくと、不貞腐れたように刈舞を睨む。
「畜生。足りねえ。全然足りねえよこんなんじゃ。勝つことも、守ることも、できやしねえ」
 板張りの床を殴りつける。
「強くなりてえ。強くなりてえ。強くなりてえんだよ俺は!」
「怒りは剣を鈍らせますよ」
「怒らずにいられるか! 餓天宗のクソども、霊燼のおっさんを弔おうともしねえんだぞ!?」
「もっとも根本的な聖三約侵犯ですからね。なかなか難しいかと」
「本気で言ってんのか! 何が二人がかりだよ! 何が神(ヘビ)はすべてを見ているだよ! どう見ても散悟のド腐れ野郎が仕組んだことだろうが! 節穴すぎるわ!」
 霊燼・ウヴァ・ガラクの〈転生の秘蹟〉は、執り行われなかった。
 狼淵たちが現場にやってきたときには、すでにその遺体は残らず片づけられ、原因不明の破壊痕だけが生々しく残されているばかりであった。
 霊燼は……狼淵の手の届かないところに逝った。死んだ人間にしてやれることなど何もない。なのに、いつまでもこの胸に残って、あの暑っ苦しい笑顔を向けてくるのだ。
「……っ」
 狼淵は掌で顔を覆う。
「もう嫌なんだよ。死んじゃならねえ奴が死んで、外道どもが幅を利かせてゲラゲラ嗤う。そんなざまを指をくわえて見ているしかない自分の無力さに、俺はそろそろ耐えられねえ」
 小さな足音が近づいてきた。
 維沙が、竹の水筒を二つ持ってきて、狼淵と刈舞に手渡した。
「とりあえず、飲んで落ち着いて」
「……おう」
「いただきましょう」
 二人同時に水筒を呷る。打ち合いで火照った体に、汲み立ての冷たさが心地よい。
 一息ついて、三人は車座に座った。
「で、どうなんだ。あんたは刃蘭をひっ捕らえてここに放り込んだん張本人だよな。手合せした感じ、俺は刃蘭の野郎に勝てるのか」
「ふむ。狼淵どのの歳で、そこまで練達した武技を持っているのは驚異的と言っても良いことです。しかし、現段階での力関係では、刃蘭・アイオリアの方が一枚も二枚も上手と言わざるを得ません」
 重苦しい沈黙が、場に沈殿した。
 やがて、刈舞は口端を切る。
「……狼淵どの。私とて、無念を感じていないわけではないのです。原理主義的と言いますか、杓子定規にもほどがある餓天法師らの判断基準には、司法剣死官の立場としても何度も理不尽な思いを味わわされてきました。今回の件は、その中でも極め付けです。ようやく吹っ切れました。気高き大英雄を断罪し、品性下劣なる人獣を護る餓天宗は、人類の〈魂魄〉の導き手として不足に過ぎる。すこしずつでもその影響力を除かねばなりません。[そのためには手段を選ぶべきではないし]、[彼らが押し付けてくる戒律になど従うべきでもない]」
 はっと顔を上げる狼淵と維沙。
 刈舞が何を言いたいかは明らかであった。
「俺に……」
 恐る恐る、狼淵は切り出す。
「俺に、散悟のクソと同じことをしろって言うのか……!?」
 刈舞は、狼淵の目を真っ直ぐ見ながら応えた。
「然り」
 単眼鏡(モノクル)を冷徹に持ち上げ、口角を吊り上げる。
「作戦の立案はこちらで行います。刃蘭・アイオリアの心技体――そのすべてを逆手にとり、不可避にして必殺の罠を拵えて見せましょう。なに、生きたまま逮捕することに比べたらあくびが出るほど容易い仕事です」
「そうじゃねえよ! そうじゃなくて! その……あんたの言う王道ってなんなんだよ!」
「ふむ?」
「目的さえ正しければ何してもいいのか? なんつうか、うまく言えねえけど、卑怯な手で掴んだ勝利の先で、仮にマシな世の中が訪れたとして、その時俺たちはガキどもに『こすいマネすんな』だの『ウソつくな』だの『約束は守れ』だの、言えるのか? 言っていいのか!? その資格はあんのか!? 俺たちはやったけどお前らはすんなってか!? なんか、なんかよ、刈舞のおっさん……あんたはそうすることで[自分自身の王道を本当に信じていられるのか]!?」
「目的は手段を正当化しないと? ……お言葉ですが狼淵どの。あなたは昨日、維沙どのを救うために《緋鱗幇》のごろつきらに怪我を負わせましたね。他人に暴力を振るうのは正しきことでしょうか。それ以前に、最初の決闘典礼で淆鵺・ホーデドリウスに死(チョキ)を賜わしましたね。人間を殺めるのは正しきことでしょうか」
「少なくともその時、俺はこすいマネをしたわけでもウソをついたわけでも約束を破ったわけでもねえ。俺だって脳みそお花畑の阿呆じゃないんだ。許される暴力と許されない暴力があることぐらいわかってる。境界をどこにすればいいのか誰にもわからないってだけで。だから、よう……」
 ただ、己の中の言葉をどうにか形にしようと、頭を絞る。
「……いや、わかってんだ。こんなのただのわがままで、現実が見えてねえガキの甘っちょろいたわごとなんだ。刃蘭に勝てなきゃお話にならなくて、でも俺が雑魚いせいで卑怯な手を使わなきゃなんくて……だからアンタは俺の代わりに汚ねえことやってくれるって言ってんのに、俺は馬鹿みてえに癇癪を起している。最低だ。やる気あんのかって話だぜ」
 乱暴に頭をかく。
「だから、要するに、だ。さっきの目的がどうの手段がどうのなんてのは全部言い訳で、結局のところこれは私怨なんだよ。寂紅を……あいつを惨たらしく殺しやがった刃蘭・アイオリアに、誰にも後ろ指刺されることのない形で報いを受けさせたいっていう、下らねえ意地なんだよ。下らねえ。ほんっと下らねえ意気地なんだ。だけど、こればっかりは、譲れねえんだよ。譲れねえんだが――」
 顔を上げ、刈舞をじっと見上げる。
「――俺はよ、あんたを信用している。あんたはひとかどの男だ。志ってものを持っているし、それだけじゃなく人としての情けも持っている。仮に、あんたに裏切られたとしても、そん時は馬鹿な自分が悪いんだと納得できる程度には信用している。実際俺は馬鹿だからよ、たぶんあんたの頭がないと何にもできねえと思う。俺はあんたを信用する。この上で、あんたも俺を信用してくれるってんなら、俺はこの「信用」を「信頼」に変えるつもりだ」
「つまり……誠意を見せろ、と?」
「そんな大層な話じゃないさ。猶予をくれ」
「猶予?」
「三十秒。それだけでいい。典礼開始から三十秒だけ、俺だけの力で戦わせてくれ。それで仕留められないんなら、誇りも意地も曲げて、あんたの策に乗るよ」
「三十秒以内にあなたが殺される可能性を呑め、と」
「そうだ。俺を「信用」してくれ。そしたら俺はあんたを「信頼」する」
 ふむ、と刈舞は自分の顎を掴む。
 挑むような、試すような、あるいは感嘆するような、複雑な色合いを湛えた眼が、こちらを凝視する。
「……三十秒の危険は、到底無視できるようなものではありませんが……よろしい。あなたのその誇り高く正道を歩まんとする性質は、思うに王器に必須のものと存じます。有能で、冷徹なだけの御旗に、民はついてこないものです。あまりその〈魂〉を歪めるようなことはすべきではないのかも知れません。落としどころとしては、これが妥当でしょう」
「おっさん……」
「おぉ、いかんぞ狼淵・ザラガ。そのような曖昧な言質を真に受けては。司法剣死官どのはおぬしに黙って刃蘭・アイオリアを謀殺する腹積もりぢゃ。ほほ、とんだ奸臣もいたものぢゃて」

 その声が耳に入った瞬間、唐突に周囲が暗闇に沈んだ。

「なにっ!?」
 狼淵は眼を見開く。維沙と刈舞も息を呑んだ。
 何が起きた?
 いや考えるまでもない。この道場の窓や扉がすべて同時に塞がれ、日光を遮られたのだ。
 かすかな足音が、四方から聞こえてくる。
「狼淵どの。どうやら囲まれています」
「あぁ。どこのどいつだか知らねえが、たぶんロクでもねえ目的だぜ」
 木剣を握りしめ、いかなる事態にも対応できるよう、心機を臨戦させる。
 多数の足音は、三人を遠巻きに囲みながら行き来している。何をしているのかはわからない。闇に目が慣れるまでは今少しかかるであろう。
 瞬間――
「さても御立合い。これより語らるるは超克と回帰の唄――」
 ぎょっとするほど近くから、芝居がかった口上が聞こえた。
 それは異様な生気を孕んだ声であった。まるで上下左右あらゆる方角から、無数の老若男女が囁きかけてきているような、発声位置がまるで特定できぬ響きである。
 にもかかわらず、それは間違いなく一人の人物が発した声なのだ。
 耳に侵入を許しただけで、何か取り返しのつかない変化を〈魂魄〉にもたらすような、戦慄と恍惚の入り混じった声であった。
 次いで、ぼんやりと明りが灯った。
 蓄光性の石柱が八本。正八角形に配置されていた。直前まで黒い紗幕で覆っていたのであろう。
 その中心に、紅い人影が、幻炎のごとく佇んでいた。
「――かつて未分化の渾沌が宇宙を遍く満たしていた頃。世界が己の尾を食む蛇のごとく完全であった頃。人はただ、人であった」
 朗々と、語る。
 ぽってりとした唇には黒い紅が引かれ、発言とともにぬらぬらと濡れ光った。
 右の頬からこめかみにかけて、連なる鱗の刺青が彫り込まれている。
「男(おのこ)と女(おなご)に分かたれることなく、欠けたるところのない者として、それは永遠の生を謳歌しておったと言う」
 《緋鱗幇》の杯を頂く武侠が好む、燃え盛るような緋色の長衣(トーガ)。
 それを身にまとうは、陰陽の完全なる合一を思わせる、異様な人物であった。
 縄のような筋肉の浮かび上がる、雄大な体格。しかしてその胸には重く張りつめた乳房が実っている。
「馥郁たる黄金の霊気(アイテール)を立ち上らせ、その者らはセラフィータ・セラフィートゥスと名乗り、絢爛たる伽藍都市を築き上げたとか」
 薄く化粧の乗った顔は、剛毅(つよ)さと麗しさを兼ね備えた天上の美貌。
 頭蓋の右半分は綺麗に剃り上げられた禿頭(とくとう)。左半分は鮮血を思わせる真紅の長髪が垂れ下がっている。
 顔料によって隈取りの施された両眼は、生々しい精気に満ち溢れ、ねっとりとした笑みを含んでいた。
「されどセラフィータ・セラフィートゥスらは驕り高ぶり、進歩を止めてしもうた。完全であったがゆえに、変化することを放棄してしもうた」
 嘆かわしげに、芝居がかった所作で、額に指を当てた。
「ゆえに宇宙蛇(アンギス・カエレスティス)は彼らを四つの元素に分かち、欠乏を与えることで前に進む意志を取り戻させようとした。ひとつは陰(おんな)、ひとつは陽(おとこ)、ひとつは硫黄、ひとつは水銀ぢゃ。人は男女に分かれ、硫黄を失ったがゆえに病に侵されるようになり、水銀を失ったがゆえに老いるようになった」
 男であり、女でもあるその者は、狼淵らのほうへと歩み寄ってくる。
「男女が惹かれあうは、かつての不死なる栄華を求める、さもしくも哀れな衝動なり。されどそれでは無理なのぢゃ。真に霊的合一を果たし、セラフィータ・セラフィートゥスへと回帰するには、硫黄と水銀が足らぬ。さらにはそれら四元素を繋ぎ合わせる触媒が足らぬ」
 彼であり彼女でもあるその者は、黒い唇にあえかな微笑を乗せ、近づいてくる。
 その軌跡を追うように、蓄光石柱の覆いが次々と取り払われ、光の道を形作った。
「……っ」
 狼淵は、上着の裾を維沙が握り締めてくるのを感じた。
 その手は明らかに震えている。
 ――何だ?
 こいつがここまで恐怖をあらわにしたことなど今まで一度もなかった。
「外典クラウディウス書――ですか。餓天宗の焚書を逃れ、所在不明となっていた禁忌の知識を、なぜあなたが得ているのかについては、ひとまず置いておきましょう」
 刈舞は胡散臭い笑みを含ませた声でそう語りかける。
「おぉ、刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドどの。外界にいる妾の手足らをずいぶんと送り返してくれたものぢゃが、こうして直に対面するははじめてのことかの。ほほ、なんとも容易ならざる人なりが透けて見えるようなご面相ぢゃて」
「まったくもって人のことは言えないように思われますが、ともかくお初にお目にかかります、《緋鱗幇》が委書記にして《魔拳》の異名で畏れられし無双の拳士、朱龍(アケロン)・ケーリュシアどの」
「おうおう、司法剣死官という連中は耳が早すぎていかんのう。こちらのこともすでに調査済みかえ?」
「要警戒対象と、認識しております。して、今回は何用で? ずいぶんと仰々しい趣向ですが」
「いや、なに、」
 朱龍は、気怠くも流麗な仕草で――狼淵と維沙を指し示した。
 伴って、朱龍との間にいつのまにか置かれていた蓄光石材が次々と姿を現す。
 光の道は狼淵と維沙を取り囲み、その姿を完全に朱龍の前にさらした。
「っ!」
 狼淵は、瞠目する。
 いつのまに、ここまで大量の石材を置いていたのか?
 まったく気づけなかった。さっきまで周囲で何か作業をする音や空気の動く感触はあっただろうか?
 ――思い出せねえ……
 どう考えても両手で数えきれない人数が周りにいるはずなのだが、まったく一切感づくことができなかった。
 原因は明白だ。
 朱龍・ケーリュシア。
 場の中心を、強制的に自分の方へ引き寄せてしまう――そういう存在感をもった人物だった。
 性別を超越した肉体、異様な美貌、力強くも音楽的な声量、見る者を眩惑させる仕草の数々。
 誰も彼も、朱龍の一挙手一投足に意識を取られ、周囲で何が起きてもまるで対応できなくなる。
 向こうに殺す気があったなら、自分たちは抵抗もできずに朱龍の手下どもの不意討ちを受けていたのだ。
「さてさて、そなたが覚えておるかはわからぬが、こうして顔を合わせるのは二度目になるのう――」
 両の眼を細め、狼淵のすぐ背後――維沙の肢体に視線の触手を絡み付かせる。
「――我が愛しき第五元素(エリクシル)よ」
 全身に、鳥肌が立った。
 わがいとしきえりくしる。
 意味はわからない。わかりたくもない。だが、その声色には、狼淵が今まで触れたことのない、異質な感情が煮えたぎっていた。
 飢餓、とも、情欲、ともつかぬ、極大質量の渇望、執着。
 人が人に抱くような感情ではない。
「おぉ、顔をよく見せておくれ。こうして会える日をどれほど心待ちにしておったことか。まさしく一日千秋の思いであったことよ」
 狼淵をつかむか細い手が、ぎゅっと力を増した。
 瘧のように、震えている。
「どうした」
 小声で維沙に呼びかけるが、返事はない。
 仕方ないので朱龍に向き直る。
「おい、あんた。うちのチビスケが怯えてる。何を考えてんのか知らねえが、止まりな」
「ほほ、剣呑剣呑。狼淵・ザラガぢゃな? そう身構えるでない。ここで死合う気はないでな」
「じゃ何しに来たんだよ」
「いや、なに、ただ主の後ろにいる御子に伝えたき儀があってな」
 ゆるゆると歩みを進めようとする朱龍に対し、
「そこで言え。言ったら帰れ」
 ぴしゃりと釘を刺す。
「おぉ、つれないのう……善き哉。維沙・ライビシュナッハよ、心して聞きゃれ」
 慈愛に満ちた声で、朱龍・ケーリュシアは語りかける。
「[維來・ライビシュナッハの所在について]」
 びくん、と維沙が大きく震えた。
 その反応を見て、朱龍は優しく目を細める。
「――これ以上は妾と主の典礼の場で語るとしよう。待っておるぞえ?」
 肌を泡立たせる微笑を浮かべ、両性具有の麗人は腕を差し上げる。
 音高く指を鳴らした。
 同時に、辺りが光の奔流に包まれる。
「ぐっ!?」
 道場を覆っていた紗幕が一斉に取り払われたのか。眩さに思わず目を庇う。
「おぉ、楽しみぢゃのう、第五元素(エリクシル)や。主と二人きり、差し向かいで対峙できるその時が。楽しみで楽しみで、気が狂いそうぢゃて」
 ぎょっとするほど近くで朱龍の声が耳朶を撫でていった。
 やがて目が慣れたとき、周囲には狼淵たち三人を除いて、誰一人いなくなっていた。
「……なんともはや」
 刈舞が単眼鏡(モノクル)を直しながら肩をすくめる。
「わかっていたことですが、八鱗覇濤参加者には尋常な人物など一人もおりませんな、やれやれ」
「刈舞さん」
 維沙が、狼淵の背後から出てきた。
 唇を引き結び、決然と刈舞を見ている。
「お願いが、あります」
 その表情を見て、刈舞は困惑し、眉をひそめた。
「矢面に立つのは大人の仕事ですよ」
「それでも、維來の……妹のことを言われたからには、行かないわけにはいかないんです。だから、どうか」
 何か言い返そうと口を開きかけた刈舞だが、やがて諦めたように溜息をついた。
「……正直なところを言えば、私は八鱗覇濤参加者という肩書を得て陛下と会談したかっただけなので、助かると言えばそうなのですが……しかしこれは恥ずべきことですよ。あなたのような子供を鉄火場に立たせ、自分は後ろでのうのうと見ているなど」
「だけど、あなたは、これからのことだけ考えてほしい。僕にはこの〈眼〉しかないけれど、あなたは違うはずだ」
「おい、お前らさっきから何の話をしてんだ」
「狼淵どのには関わりなき話です」
「そう、まったく関係ないね」
「ああん?」

後書き


作者:バール
投稿日:2016/06/27 20:42
更新日:2016/06/27 20:42
『鏖都アギュギテムの紅昏』の著作権は、すべて作者 バール様に属します。

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作品ID:1750
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