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作品ID:2297
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鏖都アギュギテムの紅昏

小説の属性:ライトノベル / 異世界ファンタジー / 激辛批評希望 / 中級者 / R-15&18 / 連載中

前書き・紹介

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二回戦第一典礼『慟哭王器/凶獣烈咆』

前の話 目次 次の話

 二回戦 第一典礼
  狼淵・ザラガ
  罪状:荘園逃亡。大逆罪。等族殺人。

   対

  刃蘭・アイオリア
  罪状:穢血罪。脱獄罪。過剰防衛。不敬罪。大逆罪。大量殺人。貴族殺人。強姦罪。死姦罪。拷問罪。

 狼淵は、静かな昂揚を胸に秘めながら、至聖祭壇に立っていた。
 全方位から降り注ぐ参列者たちのどよもしが、波濤のように肌を叩いてくる。
 目の前には、一人の男。
 〈帝国〉臣民の平均を逸脱する長身。鍛え抜かれた浅黒い上半身を晒し、筋肉の凹凸を強調するように入れ墨をびっしりと彫り込んでいる。顔面も例外ではなく、耳まで裂けた口を象るような凄まじい凶相を形作っていた。
 ゆったりとした袴をはき、理解できないものを見る目でこちらを眺めまわしている。
「あのー、ちょっと待ってね。ちょっとお兄さんよくわからなくってさぁ。え? なに? なんなの? なんで君ここにいんの? マジキモいんだけど」
 右目を見開き、左目をすがめ、剽げた仕草で舌をひらめかせる。
「え、つまり何? なんなの? 夢見ちゃったの? 夢みちゃったクズなの? マジで? うっわ、マジか。うっわ。引くわ。重く引くわ。どんだけ現実が見えてないのキミ。え? なんなの? つまりまさかひょっとしてもしかして勝てるかもぉ? とか思っちゃったのかな? エッ、思っちゃったのかな? ねえ? おい? カスザコ? 聞いてる? 頭大丈夫?」
 能天気な繰り言を聞き流しながら、狼淵は口を開いた。
「なあ」
「あ?」
「あんた、寂紅のこと、どう思っていた?」
「は? え? 何? しず……何? 秒速で忘れたんですけどそんなゴミ」
「つまり煽る程度には心にとどめているのか。ちょっと安心したよ」
「は?」
 狼淵は微笑んだ。
「あいつさ、兄貴のことが、大好きだったんだよ」
 眉を寄せたままこっちを睨んでくる刃蘭に、狼淵はゆっくりと歩み寄った。
 互いの即死距離をこともなげに踏み越える。
「何言ってんだテメェ」
「おれは」
 狼淵は爪先で立ち、額を打ち合わせた。
「兄貴として」
 至近で眼光が激突する。
「テメーに勝つ」
「ウザ。キモ。なんかわかんねーこと言ってるわ」
 冷ややかな嘲りとともに突き飛ばされる。
「何コイツ。マジ何コイツ。キモ」
 そこへ、コツコツと非人間的なまでに規則正しい足音が近づいてきた。
 紅い仮面をつけた偉丈夫。餓天法師だ。
 狼淵と刃蘭の間に立ち、両者を引き離す。
「これより、八鱗覇濤が二回戦、第一典礼を執り行う」
 大いなる存在が、餓天法師の口を借りて語り掛けてくるような、荘厳なる声。
「双方、五歩の間合いを取り、心機臨戦せよ」
 睨み合いながら、下知に従う。
 こみ上げる闘志とともに息を吸い、割り切れぬ哀しみとともに息を吐く。
 肉体はほどよく弛緩している。これから何が起ころうと、後悔はしない。一秒一秒を噛みしめて過ごすのだと、すでに決めていたから。
 餓天法師が、腕を天に差し上げる。
「狼淵・ザラガ。並びに刃蘭・アイオリア。第七炎生礼賛経典儀(テスタメントゥム・デュエリウム)が典範に従い、宇宙蛇(アンギス・カエレスティス)に己が霊格を問え」
 そして――振り下ろす。
「――始め」

 ●

 容赦する理由などこの世のどこを探しても見つかりそうもなく。
 刃蘭は「始め」の最後の残響が消えきらぬうちに床を蹴り砕き、強襲膝蹴りを奴の側頭部にブチ込む。その動きに遅滞はなく、常人(クズ)の動体視力では認識不可能な魔速でもって、間合いを刹那に零にする。
 だが――
「あ?」
 不可解な光景が、刃蘭の前にあった。
 [狼淵]・[ザラガが目を閉じている]。
 ――なにやってんだゴミカス。
 バカか?
 知能が幼児並か?
 今この状況でじゃんけん避けなどして何の意味がある。
 そして、口で何と言おうと相手を侮ることだけは厳に戒めてきた刃蘭は、激突までの僅かな時間で狼淵の考えていることを推察しようとしたが――あまりにも時間が足りず、そして仮にどれほど時間があっても真実にまでたどり着くことはなかっただろう。
 ゆえに、そのまま膝頭を戦斧のごとく真横に振り抜いた。
 振り抜こうとした。
「ッ!?」
 ふわり、と。
 よくわからない斥力のようなものを感じた。
 それが、敵手の技巧によって、膝蹴りを滑らかに受け流され、体勢を崩された結果であることを理解するのに、刃蘭は一瞬の間を要した。
 空中で均衡を崩す。しかし瞬時に後ろ回し蹴りへと派生する。危機対応能力においても刃蘭は人後を絶する。
 だがその蹴り足まで掴まれ、慣性を捻じ曲げられて地面に叩きつけられたのにはさすがに瞠目した。
 石畳に激突する直前に手を突き、掴まれていない方の脚で蹴りつける。空中に焦げ跡の残りそうな威力。だが少年はふわりと間合いを外す。
 刃蘭は側転して姿勢を取り戻した。
 目をすがめる。
 相手は、最初から今まで一貫して目を閉ざしたままだ。
 にも関わらずなんだ今の柔(やわら)は。
 人間は認識のほとんどを視覚に頼っている。目を閉ざしたままできるような動きでは断じてなかった。
 ――何が起こってやがる?
 刃蘭は冷徹に目を細めた。

 ●

 深淵接続者となって以降、狼淵は螺導・ソーンドリスの世界認識を理解しつつあった。
 人は皆、〈深淵〉より伸びた根の先端である。
 ゆえに〈深淵〉ごしに根をたどり、別の人間の〈魂〉に接続することも可能である。
 あの老剣鬼はそうやって、相手の動作を先読みしてきたのだ。
 いかなる「観の眼」をもってしても追いつけぬ、究極の行動予測。動作が始まる前の段階ですべてを察知する。
 どの機に、どの角度から、いかなる攻撃が成されるか。
 狼淵にはすべてが詳らかだった。
 ただし、思考が読めるわけではない。読み取れるのは身体感覚のみだ。五感、胸の鼓動、筋肉の収縮、毛穴の開閉、内臓の蠢動――微細な感覚のすべてを感得する。
 ――次は相似斧アナロギアによる爆撃。
 刃蘭の主観を簒奪した狼淵は、自分より数段鍛え抜かれた肉体の躍動を感じ取る。
 勝機、此処。
「〈孤立〉の八鱗よ――」
 祈るように、祝詞を口ずさむ。
 赦すように、弔辞を唱える。
「蒼き膂宍を纏い――」
 掌から蒼い奔流が広がる。それは狼淵の身の丈ほどの大きさに拡大する。
「凝固せよ――!」
 ぎゅっと収縮。豪壮なる両刃の戦斧を形成する。それは曲線的だった他の拷問具とは異なり、直線と角によって構成される神器。蒼の二振りを鍛え上げた人々の、整然とした世界観を体現する、幾何学的な美の精髄。
 対称斧アドウェルサス。
 淆鵺・ホーデドリウスから奪いし神聖八鱗拷問具(アルマ・メディオクリタス)。
 即座に権能を発揮させる。
 超質量の見えざる刃が迫っていたから。
「るぁっ!」
 叩きつける。刃蘭の放つ、相似斧アナロギアの一撃に向け。
 [これまでこの世で一度たりとも鳴り響いたことのない]、[異常極まる怪音]が轟き渡った。
 狼淵はかろうじて耳を塞ぎたくなる衝動を堪える。
 それは条理が上げる断末魔。
 矛盾する法則同士のせめぎ合い。

 ●

 ――相似斧アナロギアの分身体は、れっきとした質量をもつ物体である。ただし三つの点で、普通の物質とは異なる。ひとつ、不可視であること。ふたつ、重力に従わず、ただ本体の動きにのみ従うこと。そしてみっつ、[作用反作用の法則が正常に働かないこと]。

 刃蘭・アイオリアは、己の武器の性能・挙動を、無論のこと細かいところまで実験し、把握している。
 物質に物質がぶつかったとき、ぶつけられた側はもちろん、ぶつかった側にも同等の衝撃が返ってくる。これが作用反作用の法則である。しかし、アナロギア分身体はこの法理を無視する。
 分身体が他の物質に激突したとき、物理衝撃を与えるが、与えられることは決してない。その破壊は完全に一方通行であり、分身体が本体の動き以外の要因によって動かされることは決してあり得ない。ひとたび振るわれれば、その軌跡上にあるものすべてを破壊するか押しのけるかして何の抵抗もなく定められた道筋を全うする。これは本体と分身体の動きが寸分の狂いもなく完全に同じでなければならない相似斧アナロギアを実在の物象として成り立たせるための神(ヘビ)の介入であると言われている。
 ゆえに、アナロギア分身体が刃蘭の意志によらず、その動きを途中で止められるなどということは本来決してありえないはずなのだ。
 その、唯一の例外が、狼淵の傍らに出現していた。
 少年は、蒼き大戦斧を構え、力を込めて何かを押さえつける。両腕の筋肉が膨張し、血管が浮き出ている。
 だが、その刃は何も触れてなどいない。にもかかわらず、狼淵は必死の形相で何かと拮抗していた。
 袈裟に振り下ろされる途中で固まっている対称斧の逆側――そこで、不可視の何かが火花を散らす。
 空間が歪んでいた。
 途轍もない力によるせめぎ合いが、世界のありようを揺るがしている。
 対称斧アドウェルサスは、相似斧アナロギアと同じく、本体に連動して動く分身体を権能とする。
 分身体同士が、激突しているのだ。刃を噛み合わせ、己こそが上であると互いに主張し合っている。
 刃蘭は、アナロギアを握って初めて「手応え」を感じていた。
「あァ? カスがよォ。なに凌いでやったぜみたいなツラしてんだよ雑魚カス。死ねよ」
 本体を引く。不可視の巨刃も同時に振りかぶられる。
 まったく別の方向から第二撃。時間差などほぼない。アナロギア分身体は城壁すら一閃で両断する巨きさであり、質量もそれ相応だが、動作に伴う「重み」が本体に伝わることは一切ない。宿主たる刃蘭にとって相似斧アナロギアは掌の中に納まるほどの矮小な棒切れに過ぎず、それを振り回すのに力も何も必要ない。
 撃音と暴風が、連続する。火花が狂い咲き、目を灼く。
 だが――刃蘭は眉をしかめる。
 [ことごとく手ごたえが硬い]。
 敵を挽肉に出来ていない。すべて防がれている。何故か? いや、そもそも、
 ――なんで奴は目を閉じっぱなしなんだ?
 それでなぜ、あらゆる武術の型を破る奔放極まるアナロギアの連撃に対応できている?
 対称斧アドウェルサスは、宿主の重心点を基準として、本体と同じ大きさの分身体が対称の軌跡を描いて動き回る拷問具だ。当然、おとといの一回戦第一典礼以降、取り回しの鍛錬は積んでいるだろう。
 だが、それでもここまで完璧な対応などできるはずがない。そんなヌルい攻撃など放ったつもりはない。攻撃の回転率が違い過ぎるのだ。小枝を振り回す労力しか支払っていないこちらと違い、相手の戦斧はそれ相応の重量がある。防御が間に合うはずがないのだ。
 つまり――こちらが動く前から奴の防御動作は始まっているということ。
 この時点で、「実は狼淵・ザラガは薄目を開けている」などという能天気な状況ではないことだけは確信していた。
 何らかの超常的な手段で、未来を予知している……?
 ――いや……それはない。
 未来予知など原理的に成立しない。仮に自らが死する未来を感知したとして、行動の結果その運命を回避できたとしよう。その時点で予知は間違っていたことになる。だいたい刃蘭の攻撃軌道は非常に瞬間的に決定されているのだ。狼淵が予知に対応した動きを見せた時点で、刃蘭の攻撃軌道も変化する。意味がない。
 そもそも未来予知なるものは、「絶対的な因果律が存在している」などという噴飯物の幻想を前提としているにも関わらず、「絶対のはずの因果律に干渉して変更できる」という明らかに矛盾・破綻した論理で述べられる。全く同じ形状の容器に全く同じ量の水を全く同じ方向から同時に入れ、一切動かさなかったとして、その水面に現れる波は同一の形状になるか。なるわけがない。世界に存在する物質のふるまいは、多分に偶然や確率に支配されている。
 未来予知を行った瞬間から、「狼淵が死んだ世界」と「狼淵が生き残った世界」の二つに分岐すると考えることもできる。これならば矛盾は生じない。だがその事実が何か意味を持つのは、狼淵の主観においてのみである。仮に狼淵が後者の世界に逃げ込むことに成功したとしても、世界の分岐を認識・選択する能力を持たない刃蘭にしてみれば何の意味もない。思考するだけ無駄である。無駄なことはしない。
 それよりも、狼淵が未来ではなく現在の何か――刃蘭の見えていない何かを感知していると考えた方がしっくりくる。それは何か。
 狼淵の姿を視界から外さぬ範囲で、周囲に気を配る。狼淵自身に振り向ける注意を、減らす。
 瞬間――狼淵が、わずかに体勢を崩した。相似斧アナロギアの爆撃に対する防御が寸毫ほど遅れ、体幹が揺らいだ。
「……ッ!」
 少年が、歯を噛みしめている。
 ――何だ?
 刃蘭が注意をほんの少しそらした瞬間、ここまで完璧な防ぎの技巧を見せてきた狼淵の動きに綻びが生じた。
 [そこに何か意味を見出すのは飛躍した発想か]?
 そして――その事実に気づく。
 白。
 無垢にして強壮なる輝き。
 蒼き戦斧とともに、狼淵・ザラガの手に握られる、その大剣の存在を。

 ●

 寂静剣オムニブスは、その大いなる剣身とは裏腹に、宿主の意を察して重心位置を瞬時に移動させるため、極めて取り回しが良い。だがそれだけではこの不可視の暴威を凌ぎきることは不可能だったろう。
 あらゆる方向から襲い来る極大斬撃を、対称斧アドウェルサスと寂静剣オムニブスの二刀流で受け止める。それはさながら火花の中で演じられる円舞であった。一撃ごとに宇宙が生まれ、育ち、弾け、滅ぶ。その荘厳なる循環。
 ――〈深淵〉潜航による主観簒奪とは別に、この拮抗を成り立たせている要因があった。
 寂静。
 すなわち無我と無常の境地。我執を忘れ、「己はこうだ」という偏見から自由になること。その悟りの遥かな延長線上にある奇跡。
 彼我の境をなくし、梵我一如の理のもと、オムニブスは[触れた拷問具の権能を模倣する]。
 完璧な模倣を。
 対称斧アドウェルサスの権能を、寂静剣オムニブスは取り込み、再現する。
 戦斧と、大剣の分身体が、狼淵の周囲を舞っている。
 最強最悪と謳われし神聖八鱗拷問具(アルマ・メディオクリタス)の全方位爆撃を、防ぎ続けている。
 だが――無意味だ。
 防ぐだけで勝てるなら誰も苦労などしない。
 そして、攻勢に転じる隙などどこにもない。
 狼淵は、歯を食いしばりながら目を開けたくなる衝動を抑え込んだ。敵を視界に入れた瞬間即死することはわかりきっていたから。
 ゆえに、刃蘭の身体感覚から機を割り出す。
 一見雑に見えて、その実極限まで洗練された暴力の技法を、体感する。
「――今ッ!」
 [切り替える]。
 対称斧アドウェルサスの権能は、二種の動作則を持つ。
 ひとつは、点対称。いまひとつは、線対称。
 これまでは点対称の動作則によって、野放図な極大斬撃に対処してきたが――
 ここで、線対称に切り替える。
 蒼と白、二つの神器が狼淵の背面で噛み合った。
 瞬間、凄まじい衝撃が狼淵の腕から全身を貫く。まっすぐ伸びるオムニブスと、刃の部分に取っ掛かりのあるアドウェルサス。それらの間に挟まれ、刃蘭の得物は一瞬、逃げ場をなくした。
 刹那の停止を強いられた。実際に絡み合っているのは分身体の方で、本体たる神器に物理的接触はない。だが、超自然的原理で連結されたそれらは、動作の停止を共有する。
「お……ルァッ!!」
 そこから狼淵は、〈深淵〉より伝わる刃蘭の肉体感覚から呼吸を読み取り、もっとも脆弱になる瞬間を狙って対称斧を引き、相似斧の刃と引っかける。そのまま蒼き大戦斧を地面に叩き込み、即座に前方へ突撃。
 刃蘭は、とっさには相似斧をどちらに動かせば拘束を脱することができるのかがわからず、ほんの一瞬の隙を晒した。
 咆哮。
 オムニブスを後方に流し、すべての筋肉を連動させ、最速で全身を射出する。
 だが――足りない。
 間合いが遠すぎる。
 刃蘭を斬り捨てるには、あと十歩は駆け寄らねばならない。
 到底、間に合わない。
 だというのに、狼淵の足取りには迷いなど微塵もない。
 横薙ぎに、白き大剣を。
 振り、抜く。
 その斬撃半径に、刃蘭の肉体はかすりもしていない。
 だが。
 ぎゃりん、と。
 異様な音がして。
 ――ここに、相似斧アナロギアを明確に越える、最強最悪の暴力が誕生した。
 狼淵の狙いは最初からそれである。
 [オムニブスの権能をもって]、[アナロギアの力を得ること]。
 三十秒の制限の中で、刃蘭・アイオリアを倒すにはこれしかないと、確信していた。
「……寂紅」
 呟いただけで叫びたくなる名前を、それでも呟く。
 大切なことを、決して忘れないために。
 勝つために戦っているのではないということを。
 赦し、赦されるために戦っているのだということを。
「見ていてくれ……!」
 踏み込む。振りかぶる。巨大な存在が、狼淵の背後で翻され、天変地異を思わせる暴風を巻き起こす。
 腹の底から迸り出るこの哀しみを、腹筋と両の腕に込め、振り下ろした。
「あァァァァァ!? ナメんなクソカスがァァァァッッ!!」
 世界が、割れた。
 そう確信させるだけの衝撃が狼淵の全身を貫き、しかし歯を食いしばって次なる一撃を放つ。
 オムニブスの分身体と、アナロギアの分身体が、大気を激しく攪拌しながら縦横に振り回され、激突し、噛み合い、火花とともに離れ、また喰いかかり、絡み合い、人の築き上げられる構造物のすべてを造作もなく砕き散らせる破壊力を振り撒きながら幾度も激突し、壮絶な末端速度が凶暴なる颶風と化して瓦礫や粉煙を吹き飛ばす。
 それは、およそ人類が体感したためしなど一度たりともない規模の一騎討ち。
 神域の丁々発止。
 死合う両雄、喉も涸れよと戦意を吠え猛り、極限の暴力を交わし合う。
 だが――均衡はゆっくりと狼淵の側に傾き始めていた。主観簒奪による有利は確かにある。だがそれ以上に、双方の武器の大きさが明暗を分けていた。
 寂静剣オムニブスの権能は、他の拷問具の権能を完璧に模倣すること。
 それは、[拡大率]の点でも同様だ。相似斧アナロギアの本体は極めて矮小だが、分身体は城壁を両断できるほどに巨きい。その拡大率が、元から狼淵の身長ほどもあるオムニブスにも全く同様に適用されているのだから、攻撃範囲も威力も本家を明らかに凌駕する。
 ――押し……切る!
 筆ほどの大きさのアナロギアを、次々と襲い掛かる衝撃を前に、必死で取り落とすまいと握りしめている。その感覚が伝わってくる。一合を交わすたびに、刃蘭の体勢が大きく崩れ、次の一手への対応が遅れてゆく。
「いけるッ!」
 そう確信した、瞬間。
 視界が、闇に閉ざされた。
 いや――狼淵は最初から目を閉ざしている。閉じられたのは刃蘭の目だ。
 総身に戦慄が走る。
 ――野郎……[気づきやがった]。
 〈深淵〉との接続による主観簒奪を。原理を理解しているわけではないにせよ、[何かがあると確信し]、[対策を実行に移した]。
 空恐ろしくなるほど正確な彼我の戦力分析だ。そして自らの見立てを信頼し、敵前で目を閉ざすという博打を打ってのける。
 人域を逸脱した理性と胆力。
 鼓膜を突き破らんと荒れ狂っていた撃音が止み、一転して圧迫感を覚えるほどの静寂が満ちる。
 ――クソ、どうする。
 目を開けるか。奴が目を開けようとすれば、その前段階である上眼瞼挙筋の収縮を感知して、即座に対応できる。
「ッシャァ!!」
 擦過音めいた声を上げ、刃蘭の肉体が駆動する。
 石畳を蹴り砕き、全身を前方に射出する。凄まじい空気抵抗を突き破り、常人には反応不可能な絶速。
 ――何だ!? 何を考えてやがる!?
 目を閉じた状態で間合いを侵略したところで正確な攻撃など不可能。だが奴の動きには迷いが一切ない。
 その葛藤のなさに、怯んだ。
「ッ! クソッ!」
 狼淵はオムニブスを正面の石畳に突き立て、相似体を壁と化さしめた。
 奴が左右どちらから回り込んで来るにせよ、対称斧アドウェルサスおよびその分身体による迎撃が間に合う。
 だが――刃蘭はどちらも選ばなかった。突進の勢いのまま、オムニブス相似体を[垂直に駆け上がったのだ]。
「……るぁっ!」
 反射的にオムニブスを引き抜くと、全身の筋肉を動員して振り返り、背後の床に叩きつけた。
 壁のような風圧が吹き荒れ、直後に石畳が巨大質量に粉砕される轟音。狼淵の前方、直線状に破壊痕が刻まれた。
 ――当然、こんな雑な対処で奴が大人しく潰れてくれるわけがねえ。
 〈深淵〉を通じた主観簒奪によって、今も刃蘭が生きていることは瞭然であった。
 だが。
「……あ?」
 おかしい。
 なんだ、これは。
 なぜ。
 [何故]、[奴は宙に浮いている]?
 両の脚が地面を捉えていない。その状態で、すでに五秒以上滞空しているのはどういうことだ。
 一体何が起きている。
 否――
「なこたどうでもいいッ!!」
 即応して大剣を振るう。連動して、相似体が大気を盛大に引き裂く。巨竜のみじろぎを思わせる風圧が至聖祭壇を吹き荒れる。
 なんで空中に浮かんでるのかなど、どうでもいいことだ。動きを止めるな。
 原理はわからないが、今奴は動きを止めている。攻撃をしない理由がない。
 叩き込む。
 その瞬間。
「……ァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアッ!!」
 突如として引力以上の力に引っ張られるように、刃蘭は急降下してきた。その速度は深淵接続者でなくば認識不可能な域の魔速である。明らかに自然落下ではない。
 硬質の巨大質量同士が激突し、絶叫めいた不協和音が轟き渡る。
 刃蘭は――アナロギア相似体の柄の上に立っていた。
 こちらが押し返そうと力を込めた瞬間、両腕にかかる負荷がなくなった。
 不可視の巨大斧が、消滅したのだ。
 全身に刺青を刻み込んだ魔人が、濁った叫喚を放ちながら宙を一直線にカッ飛んでくる。
 消える直前の相似体を蹴った反動をもって、一瞬のうちに肉薄してきたのだ。
 そこはもはや不可視巨剣の間合いでもなければ、狼淵の手にある白き大剣の間合いでもなくなっていた。
 毒蛇のような擦過音とともに一閃される足刀を仰け反ってかわす。狼淵の前髪が何本か千切れ飛ぶ。刃蘭は全身をよじってさらに回し蹴りを捻りだし、もう片方の脚で着地ざま鉤状に曲げた五指を振るい、床に手をついて浴びせ蹴り。直前まで狼淵が立っていた位置の石畳が爆砕した。そのすべてが瞬きのうちに始まり、終わる。主観簒奪がなければ到底かわしきれなかったであろう。
 ――まずい!
「はいしゅ~~~~~りょ~~~~~~~! クソ雑魚くんのイキり無様パクり戦術は終了しました~~~~~~~! これまでのご愛顧あざっしたァ~~~~~~~っとォ!!」
 軽薄な言葉の最中にも、休むことなくその肉体はこちらを殺すために動き続けていた。拳。肘。爪先。指先。膝。踵。掌底。足刀。すべてが迅い。あまりにも。
 それは無論、物理的な速度、という意味もある。
 だがそれだけでは説明しきれない性質の迅さであった。
 刃蘭はすでにこちらの呼吸を掴んでいる。それを弁えたうえで狼淵が反応できない機を正確に見抜き、凶器と化した四肢を撃ち込んでくる。狼淵は主観簒奪によって、実際にその動作が始まる前から刃蘭の動きの起こりを察知し、対応する。真正面から防げば、防御の上からでもこちらを一撃で破壊しうる連撃を、しかし斜めに払い、受け流すことで辛うじて凌ぎつづける。それでも骨が軋み、肉が裂け、血が飛沫いた。
 恐るべきことに、刃蘭はこの[対応に対応してきた]。
 それも、わずか数秒も経たないうちに、だ。
 〈深淵〉のことを奴が知っているはずがない。主観簒奪のことを奴が理解しているはずがない。
 だが、「この敵には何か理解を超えた察知能力がある」と察し、攻めの拍子を変えてきた。
 先読みされているなら。
 先読みされていると弁えたうえで動くだけのこと。
 何を馬鹿な。
 意味が分からない。
 だが――刃蘭の肉体から伝わってくる動き、呼吸、鼓動、頬を刻む強烈な笑み。それら身体感覚は、ひとつの恐るべき事実を如実に伝えていた。
 ――奴は、[意識の中に虚実を入り混じらせはじめている]。
 動作に虚実を混ぜるのは、いっぱしの戦士ならば誰でもしていることだ。ある攻撃動作を見せ、相手がそれに対応しようとしてきたところにまったく別の攻撃を叩き込む。単純ながら効果的な戦技だ。
 だが、刃蘭・アイオリアがしているのは、それよりも前――思考の段階で成される詐術だ。
 じっさいにはやろうと思ってもいないことを、心の底から思い、そのために動き、しかし土壇場で自らの心を裏切ってまったく別のことをする。そのような機序でなければ説明がつかない。深淵接続者を相手に手の読み合いで互角――どころか優位に渡り合う理屈など、それしかない。
 いや。
 そんな。
 馬鹿な。
 何だ、それは。
 どういう精神構造だ。
 意識や記憶の宿る「己自身」たる〈魂〉と、肉体の駆動や生命活動を司る〈魄〉。この二つの働きが、常人とは異なるせいだとでも言うのか。
 途中まで本気なのだ。この男は。
 本気で、こちらを殴り殺そうと拳を繰り出してきた。にも関わらず、途中でそれは肘打ちに変化した。その、途中までの動作に、嘘は一切ない。
 まるで、[一瞬にして別人になったか]のように、攻め手を千変万化に分岐させる。
 思考に、動作に、一貫した整合性がない。
 なのに、全体としては的確に殺意を連携させてくる。
 〈深淵〉を通じてすら先読みが極めて困難な、絶対暴力。
 果たして人は、ここまで暴力を極めることができるのか。できるものなのか。
 霊燼の肉体が持つ、山のような量感とはまったく異なる凄絶さ。戦意を、殺意を、敵意を、害意を、相手を壊すと言うことだけを考えてきた肉体のみ発揮しうる、嘔吐を催すほどの戦闘感覚。
 「お前を殺せるなら自分自身を裏切り、貶め、侮辱してもいい」という感性。
 さらにおぞましいことに、刃蘭・アイオリアにとってそれはことさら珍しい感慨でもなかった。会う敵すべてに、まったく同じ害意を向けてきた。まるで積年の怨敵に向けるような悪意を、特に接点もなかった狼淵に対してまったく同様に向ける。そういうことができる人格。
 脇腹に凄まじい衝撃が走り、呼気がすべて肺から叩き出された。
 みしり、と突き上げるような痛み。肋骨に罅が入ったか。
 そのまま膝蹴りに吹き飛ばされるように側転し、床に手を突く。体に衝撃が響くたびに、耐え難い苦痛が脳髄に突き刺さった。
 どうにか両の脚で立つ姿勢を回復したときには、すでに奴の拳が顔面に直撃する寸前まで迫っていた。
 ――や、
 られる。
 そう確信した。対処不可能な瞬間を狙い澄ましたかのように撃ち込まれてくる。
 凶拳。顔面の骨格が砕け散り、脳髄をひしゃげさせるに十分な威力が込もっていることは明らかだった。
 防ぐにも、避けるにも、もう遅い。
 逃れ得ぬ死は――しかし、その瞬間は訪れなかった。
「……あ?」
 頓狂な、刃蘭の声。
 声色に交じる、戸惑いと疑問。
 それを、狼淵も共感した。まったく同じ気持ちだったから。
「ちょっと待て。おい、なんだ、そりゃ」
 不可解な変化。
 不可逆な変化。
 世界に罅が入り、砕けて剥落する。
 そのような変容。
「時間切れですよ、狼淵どの」

 ●

 刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドが[その事実]に気づいたのは、今から約十年前。皇帝への拝謁が叶ったときのことである。
 畏まり、傅き、跪き、どもりながら拝礼の口上を述べようとする刈舞に対し、皇帝は鷹揚に「面を上げよ」とだけ宣った。
 その声の荘厳さ、深淵さ、無垢さ、高貴さ、勇猛さ、苛烈さ、慈悲深さ、情け容赦のなさ、そしてなにより――その存在の巨きさに、刈舞は心底から打ちのめされた。
 戦きながら、下知に従う。
 そして黄金に輝ける裸体を目の当たりにし、脂汗がこめかみを伝う。
 だが――同時に、どこかで違和感を覚えた。
 以前、今と同じように皇帝に拝謁したことがあったような気がしたのだ。
 自分は今の今までそれを忘れていただけのような気がしたのだ。
 もちろん、そんなわけはない。この、眼球を直接叩かれるような、鮮烈にして強烈な視覚体験。忘れようにも忘れられるはずがないのだから。
「――善き哉」
 低く、深く、澄んだ声が、皇帝の口よりまろび出て、天上の神楽を奏でた。
「お前は気付いたか? そこまでいかずとも、何か不自然なものを感じたか? 直答を許す」
「はっ――恐れながら」
 刈舞はこめかみに脂汗が伝うのを感じながら、万に一つも噛まぬよう、慎重に舌を動かした。
 ついさっき自分が抱いた違和感を、包み隠さず話す。
 皇帝は、慈悲に満ちた微笑を浮かべながら、たまに頷きつつ、刈舞の言葉に聞き入っていた。
「なるほどな。善い。善いぞ、刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイド。誇るがよい。余と対峙しただけでそこまで感じ取れるは天祐ぞ。お前もまた「外れる」資格を持った一人である」
「はっ……」
 言われていることの意味もわからぬまま、刈舞は肯定の意を返す。
 そのさまが興に乗ったのか、含み笑いをもらす現人神。
「余の心は晴れやかである。刈舞よ、余に問いたいことがあって参じたのであろう。遠慮は無用。何なりと問うべし」
 にわかに背筋がそそけ立つ。
 つばを飲み込み、刈舞は口を開いた。
「恐れながら――[この世界は]、[何なのでしょうか]?」
 皇帝は、愉快そうに相好を崩す。
「その問いの答えにはいくつかある。たとえば――この世界は孵化のときを待つ卵である。あるいは誕生のときを待つ胎児である」
 これは餓天法師が語る教義と矛盾しない。少々独創的な言い回しではあるものの、「魂の濃縮による救世主の顕現」を孵化や誕生という言葉で表現するのは理解できる。
 だが、何か、おかしいと感じた。
「……生まれいずるものとは、何なのでありましょうか」
「一人の人間である」
「人間……? 神ではなく?」
「人間である。我らからすると、神にも等しいかもしれぬがな」
 皇帝が、「我ら」などと自分と他者を同一視する単語を使ったことにも驚いたが、なにより自らを神とは別の存在であるという旨の発言をしたことに眼を剥く。
「へ、陛下……それは、つまりその……」
「[余は]、[神ではない]」
 神学的常識の否定。これまで自らが寄って立っていた価値観の根拠の否定。頭を抱え、叫びたくなるのを刈舞はどうにかこらえた。
「で、では、あなたはいかなる存在なのですか」
「神の、影の、触覚である」
「わかりません、陛下……わかりません……」
「余も本質的にはお前たちと変わらぬよ。触覚の一本に過ぎぬ。ただ、少々[用途]が違うというだけの話だ」
 皇帝は、玉座で身を乗り出した。
「刈舞よ。この世界は今のところ永劫に回帰しておる。時の始まりと終わりは繋がっており、そしてお前たちは何度も生を繰り返しておる。ここはそういう世界よ」
「は……」
「ではなぜ回帰を繰り返しておるのか? 宇宙蛇(アンギス・カエレスティス)はいかなる目論見を持ってこの奇妙な世界を創り上げたのか? [それは敵と戦うためである]」
「敵……ですと……?」
「極めて強大かつ特殊な敵である。ゆえに、そのような敵に勝利しうる英雄とならんがために、神(ヘビ)はこの万物万象を築いたのだ。余が成したのは、そうして構築された緻密な世界のいただきに、〈帝国(ヘゲモニア)〉という名のちっぽけな小石を乗せただけに過ぎぬ」
「わかりません、陛下……まるでその英雄が宇宙蛇(アンギス・カエレスティス)よりも大いなる存在であるかのように聞こえてしまいます……おぉ、なんたる涜神的発想……罰をお与えください陛下……」
「無用。面を上げよ。余はまさにお前が語った通りの意味で発言しておる。と、いうより、ふふ、神(ヘビ)よりも大いなる者が存在しないなどと、第七炎生礼賛経典儀(テスタメントゥム・デュエリウム)のどこにも書かれてはおらぬぞ?」
 その瞬間、刈舞の思考に電撃的な閃光が走った。
 ある考えが脳裏に満ち、溢れだしそうになる。
 ここまでの皇帝の発言を繋ぎ合わせ、ひとつの推論を導き出す。
「この世界は――」
 震えながら、その考えを吐露する。
「――神(ヘビ)の見る、夢なのですか?」
 鷹揚で、包み込むような微笑が、刈舞の言葉を迎えた。
「さよう。ゆえに、宇宙蛇(アンギス・カエレスティス)の御眼を誤魔化す方法が、実はひとつだけある」
 その言葉が持つ意味に思い当たり、刈舞は戦慄する。
 冷たい恐怖が総身を這い回った。皇帝陛下の御前でなくば、今すぐその場から逃げ出したくなるほどの。
「お前はそれを望むか? 刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイド。余はどちらでも構わぬが」
 生唾を、飲み込んだ。

 ●

 鋼の閃光が奔り抜け、血飛沫が噴き上がった。
 刃蘭は、いったい何が起こったのかまるで理解できなかった。
 あまりにも慮外な事態だったから。
 ただ、脇腹に走った熱と、直後にそこから垂れ下がってきたぶよぶよと温かい感触から、何が起こったのかを悟る。
 その向こうで、剣を振り抜いた姿勢のまま、こちらを炯と睨みつける者がいた。
 狼淵・ザラガではない。
 そう――[この場には]、[もう一人いる]。
 だが、それは。
 そんなことはあり得ないはずだ。
 [餓天法師が決闘典礼に横槍を入れるなど]、[天地がひっくり返ってもありえるはずがないのだ]。
「テ……メェ……」
 衝撃も、混乱も、即座に無くなった。
 焼き尽くされて。燃え尽きて。
 灰も残らなかった。
 あとに残ったのは、熾烈な怒り。
 唾棄すべき卑劣に対する、純粋な瞋恚。
「テメェらァッ!!」
 血を吐くような裂帛とともに。
 刃蘭は、脇腹から零れ落ちる臓物を振り乱して、石畳を蹴り砕く。
 強襲膝蹴りと死(チョキ)の同時攻撃。
 だが狼淵が横合いから斬り込んできた。
「――ッ!」
 矮小なるアナロギアで過たず斬撃を受け止める。いつの間にか奴の得物は大剣から長剣に戻っていた。
 瞬間――狼淵の眼が一気に見開かれた。
 視認する/視認される。
 交錯する殺意と覚悟。
 直後に繰り出されてきたチョキに、刃蘭は眼を閉ざす以外の対処ができなかった。
 敵の、目を閉ざしたまま戦うと言う不可解な戦法に慣れてきていたから。
 よもや再びじゃんけんで頭部破裂される可能性を呑んで、目を見開くとは思っていなかったから。
 ゆえに、グーで迎撃するという発想が浮かぶまでに刹那の遅延を強いられ、間に合わない。
 目を閉ざすしかない。飛び退るしかない。
 が、遅かった。
 今度は胸板に、熱。
 袈裟懸けの直線。
 刃蘭は呻く。宙返りを打ちながらアナロギア相似体を叩き込み、爆撃。
 吹き上がる粉塵によって視界を塞ぎ、おもむろに目を開ける。
 胸から、血液が盛大に噴出していた。
 肩で息をする。
 こめかみがひくつく。
「おい……クソカスクズども……」
 こんなことは初めてだった。
 腹の底から湧きあがる痛烈な感情。
 常にへらへらと嗤いながら相手を一方的に侮辱し、凌辱することだけが人格の発露だった刃蘭にとって、目も眩むような怒りを抱くなど初めてのことだった。
 しかも、その怒りは澄んでいた。理不尽への怒り。看過しえぬ非道への怒り。
 己の中にそのような情動があったことに、刃蘭は新鮮な驚きを覚える。
「オレは……」
 [正義の怒り]。
「オレは、テメェらにゃ負けねえよ……!」
 両の拳を、音が出るほど強く握り締める。
 ――唯一の法だったから。
 第七炎生礼賛経典義(テスタメントゥム・デュエリウム)。
「テメェらみてェな恥知らずにはなァッ!!」
 刃蘭・アイオリアは虚構の人物だ。その魂にはおおよそ深みや複雑さなどというものはない。
 歴史を持たず、葛藤を持たず、だからこそ常人では成しえぬほどに純真かつ誠実。
 脇腹と胸板の傷からは、今もこんこんと命が流出している。
「呪わしい。汚らわしい。心底失望させやがって。テメーはそういう奴じゃないと思ってたんだがなァ、オイ」
 ――正々堂々という観念を、刃蘭は決して笑わない。
 それはひとつの生き方として、充分以上に妥当な方策だからだ。制限の中で発揮される強さでなければ、たどり着けない境地というものがある。
 正々堂々を嘲笑う者は、逆境で踏みとどまれない。瞬間瞬間の選択肢において、正々堂々よりも短期的には効率が良い道はいろいろとある。だが、目先の利益に誘われて卑劣な手段に手を染めた者は、あまりにも当たり前な真理が見えなくなる。
 殺し合いにおいて、自分の思惑通りに敵を騙し討ちにできる場面など、ほとんどないという真理だ。
 想定外の事態は必ず発生する。そして予想しなかった窮地を前に、卑劣漢は無力だ。泣き叫びながらクソを漏らすぐらいしかできなくなる。
 真正面から立ち向かわなかったから。勇敢に勝負してこなかったから。
 だからそういう惨めな醜態をさらす。
 感情論ではなく、純然たる論理によって、刃蘭は正々堂々と振る舞ったほうが有利な局面が明らかに多いと結論付けた。
 つまるところ卑劣漢とは本気で生きていない連中のことである。
 この自分を前に卑劣な挙に出るということは、「お前など本気で立ち向かうに値しない」と言っているに等しい。
「神聖な……祭儀じゃ……ねェのかよッ!!」
 咆哮が、大気を揺るがす。
 肉体を前方に射出する。同期してアナロギアを叩き込む。
 爆撃。轟音。そのまま腕を横に薙ぎ払うと、相似体が石畳をこそぎ取りながらその動きを模倣する。
 石片と粉塵が大量に舞い上がる。
 こんな雑な手で始末できるとは思わない。
 ――なぜ餓天法師がいきなり斬りかかってきたのかなんてことは、考えるまでもなく明らかだ。
 今まで決闘典礼の立ち合いをしていたのは、餓天法師ではなかった。その変装をした、ただの人間である。
 だが、なぜ本物がこの場にいないのか。
 狼淵・ザラガとその協力者は、どうやって典礼の時刻に至聖祭壇を乗っ取ったのか。
 その方法がどうしても推察できず、刃蘭はこめかみに血管を浮かび上がらせた。
 瞬間。
 大気が動くかすかな感触があった。
 振り向きもせずにアナロギアを振るう。まるで虫でも追い払うように。
 血飛沫が背中にかかる。熱く濡れた臓物が石畳に叩きつけられる音。
 堅い音を立てて、剣のような突起物の生えた仮面が転がってくる。
 餓天法師もどきを殺した。粉塵が完全に晴れる前に状況を確認したい。
 左手のアナロギアを素早く慎重に動かし、その相似体が右手で掴める位置に移動させる。
 浮遊感。
 相似体を掴み、アナロギアを気持ち持ち上げると、刃蘭はいともあっさりと重力のくびきを脱した。

 ――なぜ刃蘭がアギュギテムからの脱獄に成功したのか、訝しむ者も多かったことであろうが、事実は単純である。アギュギテムの管理体制は空を飛べる人間の存在を想定していない。

 と言っても、アナロギアによる浮遊移動は見た目ほど簡単ではない。相似体を掴んで浮かび上がると、その上昇分だけアナロギア本体も移動することになる。するとそれを検知した相似体がさらに上昇し――上昇に上昇を無限に重ねて途轍もない速度に達し、相似体を掴む腕が引き千切れる。
 これを防ぐために、刃蘭はアナロギア本体を握る手に遊びを持たせ、飛翔速度が過度に上がらないように繊細な力加減で本体の位置を調整している。その機微は一朝一夕に身につくものではなく、狼淵には空中浮遊は不可能であろう。
 上空より至聖祭壇を俯瞰する。
 粉塵舞う闘技場には、二人どころか十人前後の人影が朧げに見え隠れしている。
 ――マジでなんだこりゃ。
 歯が、軋る。
 すべて薙ぎ払い、殺すか。そうするのが正しいとわかってはいたが、しかしこうも不可解な手を打ってくる相手に対してそれだけで良いのか。
 良い訳がない。奴らはこちらを殺すために万全の体制を整え終えている。罠を食い破るのに力押しでどうにかできるような甘い相手では断じてない。
 刃蘭は一計を案じた。

 ●

 刃蘭・アイオリアが凄まじい速度で空中を移動している。
 狼淵はその様子すら主観簒奪によって正確に認識していた。
 ――逃走は、ない。
 奴の気質からして、それだけはありえない。逆境を前に、必ず立ち向かう男だ。策は弄しても、背を向けて逃げることは絶対にない。
 アナロギアの相似体を掴んで浮遊する以上、高速で叩き込んでくることはない、と思われるが、では奴の狙いは何か。
 背筋を悪寒が駆け抜ける。
 ――餓天法師への通報。
 その可能性が脳裏をよぎる。
 刈舞が提示した策の第一は、餓天法師に扮した刈舞が刃蘭への不意討ちを行うというものであった。いったいどうやって本物の餓天法師を至聖祭壇から排除するつもりなのかまったくわからなかったが、こうして実際に刃蘭へ浅からぬ傷を負わせた以上、信じるほかない。
 奴はこの術策に激しい嫌悪を示した。通報という可能性は皆無ではないだろう。だが同時に、そうであるからこそ刃蘭は己の力だけで狼淵らを皆殺しにするつもりであると思えてならない。
 少なくとも簒奪した奴の主観からは、歯を軋らせ、目を剥き、極度の興奮状態にあることは明らかだった。一旦引いて通報しようという雰囲気ではない。
 では奴は何をするつもりなのか。
 ――不意に。
 狼淵の視界が、暗黒に包まれた。
 自分の目は閉ざしたままだ。塞がれたのは、刃蘭・アイオリアの主観である。
 奴もまた目を閉じたのだ。
「狼淵どの。奴の居場所は」
 混乱に乗じて壇上に上がってきた派遣執行官の一人が小声で聞いてくる
「まだ空中! いま目を閉ざした!」
 狼淵は目を開けて上空を仰ぎ見る。
 いない。
 上空の見える範囲、どこにも刃蘭の姿はない。
 だが主観簒奪で伝わってくる奴の身体感覚はいまだ空中にいることを示している。どこか、それだけでは説明のつかない奇妙な感覚が刃蘭の肉体から伝わってきた。上に引っ張られるような感触。それが何を意味しているのかよくわからない。
 つまり?
 視認できないほどの超高高度にいる?
 なぜ?
 そう思考が廻った瞬間――
 足元の地面が、爆砕した。
「うおおおぉッ!!」
 真下から魔速をもって振り上げられる不可視の巨刃を、狼淵は紙一重で防御した。
 そのまま肉体が上空に打ち上げられる。
 望まぬ滞空の中で、狼淵は刃蘭の本当の状況を悟る。
 [奴は浮遊などしてはいなかった]。
 目は閉ざす。刃蘭に対してじゃんけんまで絡めた駆け引きなど自殺行為だ。
「死ねやクズカスゥッ!!」
 奴は[梁]を蹴り砕き、空中を突貫してくる。
 そう――敵は目を閉ざしている間に相似体から至聖祭壇の真上に突き出た弓形の梁へと移動していたのだ。
 「まだ相似体を掴んで浮遊している」とこちらに誤解させるために、奴は目を閉ざしたのだ。閉ざしたまま、足先を梁に引っかけて、逆さまにぶら下がったのだ。簒奪した主観から受ける違和感の正体はこれだった。
 実際、目を閉じられると分厚い靴に包まれた足指の感触ぐらいしか判断材料がなくなる。上下の感覚など視覚がなければとっさに感知できるものではない。
 ゆえに狼淵は、一手出遅れた。
 奴の鉤状に強張った四指が、頬肉を引き裂き、抉り取っていった。
 腕を振り抜いて旋回する勢いを乗せて繰り出される後ろ回し蹴りを、交差させた両腕で受け止める。地上での体重を込めた尋常な蹴り技であったら腕の骨を粉砕されていたところであったが、遠く吹っ飛ばされる程度で済んだ。
「たとえクズだろうが――」
 寂静剣オムニブスを顕現させる。
「――弱かろうが、馬鹿だろうが、無様だろうが、卑劣だろうが――」
 身を捻り、慣性と、質量と、全霊を込めて。
「――もう諦めねえって決めてんだよッ!!」
 極大斬撃を繰り出す。
「いィきィがァくっせェェェェェェんだよテメェはよぉッ!!」
 向こうもアナロギア相似体を繰り出してくる。
 世界が軋みと悲鳴を上げ、両者を弾き飛ばす。
 が――
 オムニブスの柄が引っ張られる。
 不可視の大剣に不可視の戦斧が引っ掛けられている。
 凶獣が烈哮し、再び間合いが詰まる。

 ●

 脊髄で思考せよ。
 奴を殺すにはそれしかない。
 〈魂(いしき)〉と〈魄(にくたい)〉を切り離せ。このふたつの相互情報循環を断て。
 奴はこちらの〈魂〉を覗き見ている。
 まったくわけがわからないが、そう結論付けるよりほかにない。
 ならば〈魄〉だけで戦うまでだ。
 刃蘭・アイオリアにはそれができた。そもそも刃蘭という意識が誕生した当初、その霊には〈魄〉しかなかった。意思決定を司る〈魂〉はなく、〈魄〉が必要に迫られ後天的に〈魂〉の機能も果たすようになっていったに過ぎない。
 ゆえに、刃蘭にとって己の肉体に「不随意筋」などというものは存在しない。やろうと思えば心臓の鼓動を止めることもできた。生命活動のすべてを、刃蘭は意識して行ってきたのだ。
 刃蘭にとり、生きるとは「状態」ではなく「能動的な行為」なのだ。
 と、いうことは、現状の「〈魂〉の機能も果たしている〈魄〉」から、〈魂〉の機能を停止させることによって、疑似的に〈魄〉のみの霊になることもできるはずであった。
 ――狼淵・ザラガ。
 頬を引き裂かれ、血塗れの歯茎を露出させている少年を睥睨する。
 ――テメェは殺す。
 徹頭徹尾、本気では生きてこなかった。
 玩弄し、嘲弄し、唾棄し、蔑み、踏み躙り、凌辱し、殺し尽くす。
 すべて面白半分にやってきた。
「[オレはッ]」
 刃蘭を構成するものに、何一つとして現実などなかった。本物などなかった。
 だけど。
 あぁ、だからこそ。
「[今ッ]」
 歯が軋る。声が震える。
 切り離された己の〈魄〉までもが、怒りに身を戦慄かせている。
 あぁ、お前もか。お前もそう思うか。
「[生きているッ]」
 これが、本物。
 自由。
 凶悪な衝動。堪えきれぬ憎悪。
 殺す、ということが、甘美であった。
 鮮烈な、濃密な、官能的ですらある加害の愉悦。
 〈魄(バラン)〉の望むままの行いが、完全に自動的に成される。
 叩き潰す。へし折り砕く。引き裂く。それらの感覚を〈魄(バラン)〉は受容する。
 その圧倒的な現実感。刃蘭は、己が今まで薄皮を隔てて世界を感じていたことを知った。
 刃蘭という主観は快楽を受容する。
 なにも決めない。なにもしない。ただ受容する。
 肉体が勝手に動き、敵と接触する点から快楽を伝えてくる。
 目はもう閉ざしていた。必要ないから。
 ただ快楽だけがあった。宇宙は快楽で構成されていた。快楽という海に、刃蘭という主観が浮かんでいた。
 一方的に狼淵(ヤツ)の肉体を破壊するのは愉快だった。その心地よさだけを受容する。
 何も勝ち取らず。
 ただ受け取った。
 囀るしか能のない鳥の雛のごとく、ただせっせと運び込まれてくる快楽を味わった。
 刃蘭だけに、それは許された。
 絶対暴力の完成。
 虚構の産物だけが至れる魔境。
 純粋かつ醜悪な機序で誕生した、それは無想の境地であった。

 ●

 ――もしも。
 狼淵は、想う。
 ――もしも、弟が生まれた時、狼淵がすでに農奴として働けるほど大きくなっていたら。
 奇妙に透徹した意識の中で、微睡むように想う。
 ――もしも、妹が生まれた時、その指の本数が五本だったら。
 右腕と、左腕に、そっと触れてくるものがあった。
 すがるように、支えるように、おずおずと、あるいはいたずら気に。
 狼淵は確かにそれを感じていた。
 生きていれば、いまごろこれくらいの歳になっていたのだろうという高さに、確かに自分以外の体温を感じていた。
 それが妄想でも錯覚でもないことを、狼淵はわかっていた。
 どれほど短い時間であろうと、生れ落ちた以上、それは〈深淵〉から来たるものであるから。
 死したのち、それらは〈深淵〉に召されたはずであったから。
 今の狼淵なら、二人を感じ取れるのだ。
 弟と、妹を。
 触れられた箇所から、柔らかな温もりが広がった。
 ――兄ちゃん。
 ――にぃに。
 左右から、そんな声が聞こえた気がした。
 かなしみと、いとおしさと、いたましさと。
 それから、うらめしさ。
 それらがないまぜになった想いのさざ波。
 ――兄ちゃん、痛いの?
 痛くなどない。
 ――にぃに、くるしいの?
 苦しくなどない。
 ただ、哀しい。
 哀しいんだよ、おれは。
 ごッ。
 と、体内に音が響く。
 衝撃に、肉が波打つ。臓物が苦しげに悶える。
 どこかで狂った獣のような絶叫が響き、自分の拳に衝撃が走る。
 柔らかいものと硬いものが等しく軋みを上げる。
 ――兄ちゃん、もうやめよう。死んじゃうよ。
 あぁ、そうだな。こんなことつづけてたら、死んじまう。
 ――にぃに、にげようよ。けがしたらいたいよ。
 あぁ、そうだな。今も多分、めちゃくちゃ痛いんだろう、と思う。
 けど。けどな。
 ひとつだけ、考えていることがあるんだよ。
 それをやらずに逃げるわけにはいかねえ。
 いかねえんだ。
 だから、だからよ。
 後生だから。
 おれを――お前らの兄ちゃんを――応援、してくれよ。
 ――そんなの……
 虫のいい頼みだってのはわかってる。
 身勝手で、卑怯なお願いだ。
 だけど、だけどな。
 おれは今、泣きたくなるほど嬉しいんだよ。
 [お前らのために戦える]ってことが。
 [弟と妹の願いを背に戦える]ってことが。
 もう遅いのに。取り返しがつかないのに。
 お前らはもう、死んじまったのに。
 もっとおれがしっかりしていれば、助けられたのかも知れねえのに。
 ――兄ちゃん。
 ――にぃに。
 なのに、うれしくて、うれしくて、溢れだす雫で前が見えなくて。
 死んだ奴のために何かができるってことが、こんなにも胸を熱くするなんて思わなくて。
 なぁ、お前ら。
 本当なら、お前らが生きているうちに、おれはなにかをすべきだった。どうすりゃお前らを助けられたのかわからないが、とにかく何かすべきだった。
 けどおれは何もせず、ただお前らが死んでゆくのを、指をくわえて見ていただけだった。
 だから、あぁ、だから。
 おれに、もう一度だけ、機会をくれないか。
 どうか。どうか。
 この不甲斐ない兄貴を、お前らのために戦わせちゃくれないか。
 もう一度だけ。あと一度だけ。
 この体を、あと一瞬でも動かす力にできるなら。
 この拳を、あと一撃でも刃蘭に叩き込めるなら。
 だっせえお願いを、お前らにすることなんて全然構わねえんだ。
 ――兄ちゃん……待ってよ……おれ、おれは……
 ――兄ちゃんのこと、おれ、うらんですらいないんだよ……
 ……うん。
 ――生きてるあいだ、かおをあわせたりもしなかったじゃないか。
 そうだな。
 ――なのに、どうして、兄ちゃんは、そんなにおれたちのことで、必死になってるの……?
 おれが、お前らの、兄ちゃんだからだよ。
 ――わからないよ……
 顔を合わせたことがなくたって、一言も交わしたことがなくたって、お前らがどんな顔で笑うのかすら、知らなくたって。
 おれは、お前らの、兄貴なんだ。
 そしてな。
 目の前の、こいつだ。
 刃蘭・アイオリア。
 こいつもまた、兄貴なんだ。
 〈深淵〉を通じて、その〈魂魄〉に触れて、わかったんだ。
 こいつも、兄貴なんだ。
 お前らは知らないだろうけど、寂紅ってやつの、兄貴なんだよ……
 なのに。
 なのにな。
 こいつ、寂紅を、殺しちまったんだ。
 殺しちまったんだよ。
 だからな。
 おれ、こいつにだけは負けるわけにはいかねえ。
 兄貴ってのは、弟や妹のために体を張るもんだ。
 おれと、奴が、いま比べあっているのは、腕力でも技術でも思想でもねえ。
 兄貴として、どっちが上かってことなんだ。
 ――兄ちゃん。
 ――にぃに。
 お前らを、見捨てちまったおれだけど。
 それでも、こいつ相手に、兄貴として、負けるわけにはいかねえんだ。
 絶対に、それは、ダメなんだ。
 ――……がんばって、兄ちゃん。
 おずおずと、そんな思念が伝わってきたとき、狼淵は泣いた。
 ――にぃに、まけないで。
 あぁ。
 ――兄ちゃん、かって!
 あぁ!
 腹の底から、熱い咆哮が迸った。
 血を振り乱し、涙も拭わぬまま。
 ごじっ。
 拳に強烈な感触が走り、
「あぐっい」
 刃蘭が怯む。
 その隙間に逆の拳をねじ込む。
 どこかの骨を砕く感触。
 ――兄ちゃん!
 ――にぃに!
 あぁ。
 あぁ、そうだ。
 おれは、てめぇにゃ、負けねえよ。
 もう、寂紅の敵討ちなんて気持ちはない。
 おれは、てめぇを、許す。
 許すから。
 だからどうか。
 頼むから。
「思い、出せやァァァァァァッ!!」
 純潔の剣光が、まぶた越しに眼球を叩いた。
 掌の中に、懐かしい重みがあった。
 オムニブスほど重厚ではなく、まるであつらえたかのように狼淵の手に収まる、両刃の直剣。
 追憶剣カリテス。
 狼淵を見初めたる神器。
 振り、抜く。
 奴の胸板を、撫で斬りにする。
 皮一枚裂いただけの、致命には程遠い一閃。
 だが、成し遂げた。
 これでいい。
 目を開け、刃蘭の顔を睨みつける。
 奴は。
 目を真円に見開き、痙攣していた。
「……ア……カ……」
 口の端から涎が垂れる。
 やがて――主観において長い長い滞空時間を終え、狼淵と刃蘭は着地した。
 否、着地したのは狼淵のみ。
 刃蘭は、墜落と称するべき無様さで石畳に投げ出された。
「……ア……アァ……」
 呻きが零れ出る。いまにも砕け散りそうな想いを溢れさせながら。
 強張った十指が頭を抱え、全身を病的な痙攣が襲っている。
 凶笑に歪んでいた顔は、今や見る影もなく不羈なる自尊を喪い、迷い子のようだった。
「思い出したか。てめぇがどういう人間だったか。思い出したか。てめぇが何をしたか」
「……ア……ア……アアアアアアア……」
 魂切るような。
 折れるような。
 砕けるような。
 千切れるような。
 〈魂魄〉が溶解し、口から漏れ出ているような。
 どうしようもなく絶望的な。
 その、呻き。
 ――追憶剣カリテス。
 忘却剣と対をなす神聖八鱗拷問具(アルマ・メディオクリタス)。
 不可逆の忘却をもたらすオブリヴィオの、唯一の例外。
 石畳にうずくまり、悲鳴とも呻きともつかぬ声をひり出しつづけるその男は、もはや刃蘭・アイオリアとは言えないかもしれない。
 狼淵は、その本当の名を知らないけれど。
「[寂紅はよ]……!」
 歩み寄る。
「[あんたが大好きだったんだよ]……!」
 それだけは、わかるから。
 自らが奪ったもの。踏みにじってきたもの。顧みることなく置き去りにしてきたもの。
 それらがどれほど重く、そして輝かしかったか。
 思い知って、生きろ。
 これから一生を、兄貴として。

 ●

 ――あぁ、あぁ。
 [それ]にはもはや、言語としての思考ができなくなっていた。
 ひとつの肉体の中に、〈魂〉と〈魄〉が存在していたが、これら二つは相互に繋がっていなかった。
 〈魂〉はついさっきまで喪われていたはずのものだったから。
 〈魄〉は長いこと単独で肉体を制御し続け、〈魂〉の機能をも果たすようになっていたから。
 ゆえに、追憶剣カリテスの権能で唐突に本来の〈魂〉を肉体が思い出しても、即座にひとつの人格として成立するはずもなかった。
 そしてそれは――
 ――あぁ、あぁ。
「し、ずく……」
 ――寂紅。
「しずく、しずく、しず、く……」
 ――おまえは、いつも、ぼくをこまらせてばかりだったね。
 ――いじっぱりで、照れ屋さんで、気まぐれで。
 ――変異血脈の子供を匿って面倒を見てやるくらい頑固で。
 そして。
 それで。
「死に顔がァ、ぶッッッッッさいくだったよなァ、オイ!!」
 濁った嘲笑を、口から排泄する。
 その言葉が紛れもなく自分の口から出てきた事実に、吐く。
 ――あぁ、寂紅。かわいい寂紅。
 ――僕は。僕は。
「お前の……笑った顔が、見たく……て……」
「脳みそと眼球がクッソだらしなく垂れ下がりやがってさァ!!」
 嘔吐しながら、絶叫する。こめかみの血管が浮かび上がる。視界が赤く染まる。
 哄笑が上がる。
「ア……げ……ぅ……」
 哭く。嗤う。呻く。叫ぶ。
 バラバラの行いを肉体が同時に成そうとして、支離滅裂に血とゲロを吐き散らす。
 ――やめろ。やめろ。やめてくれ。
 ――やめろ。クソが。クズカスが。
 ひとつの脳の中で、二つのやめろが乱舞する。
 〈魂〉と〈魄〉が憎み合い、殺し合う。
 だが――その力は比較にならないほどの隔たりがあった。
「あァ? クソみてえな失敗の責任を負うのが怖くて逃げだしたカスゴミ風情がァ? なに一丁前に主人面しようとしてるわけェ? お呼びじゃねえんだよ捻り潰すぞ屑がよォ!!」
 顔面を掻きむしり、血だらけで哄笑する。
 外界の事象を何も認識せず、ただ内なる相克に専念する。
 潰れろ。潰れろ。潰れろ。潰れろ。
「違う……」
 口をついて、その言葉が出てくる。
 ただそれだけの制御権奪取にも、全霊をもってあたる必要があった。
「違うんだよ……」
 ――あァ?
 ――何が。
 指先が何者かの肉体をこじって破壊する感触を遠くに感じながら。
 相似斧アナロギアを野放図に振り回し、周囲に殺戮の華を咲き誇らせながら。
「寂紅はね、知らなかったんだ……」
 声にならない叫びを、どうにか発しようとして身をよじる。
 ――なんの話だよクソカスがよ……!
「君という存在を育て上げたのは、非力な我が身に絶望していたからじゃない……君が怪物になったのは、僕が正義の英雄を望んでいたからじゃない……」
 だけど、言おう。言わなければならないことを。
「僕は君になりたかったんじゃない。僕は那濫・ウルクス。君は僕の理想像じゃない。僕の一部だったものだ。[僕は君になりたかったんじゃない]」
 ――何を、言って、やがる……ッ!
「君は僕の攻撃衝動。君は僕の影。君は僕が目を背けたかった本音。だけど本質ではない。本音であることは確かだけど、[目を背けたかった]という事実を軽く見るべきではないんだよ」
 徐々に、抵抗が弱まる。口を開き、言葉を発することが、少しずつ容易になる。
「ありのままの本音だけが事実で? 人に見せる仮面は嘘だと? 誰がそう決めたんだ? 本音を隠し、人にいい顔を見せたいと思う感情が、なぜ偽物ということになるんだ?」
 刃蘭は。
 この、那濫・ウルクスと名乗る意識が、どのような存在であるか理解していなかった。
 自らがどのような存在であるかも理解していなかった。
 ゆえに那濫・ウルクスを完全な他者と認識していたし、その精神的剛性が自分とは比較にならない雑魚であることも疑っていなかった。
 自分が〈魄〉であり、相手がこれまで不在であった〈魂〉であることを理解していなかった。
 そして今、刃蘭は「〈魂〉の機能をも有する〈魄〉」である自分から、〈魂〉の機能を封印することで無為無双の境地に至っている状態だった。
「この結果は必然だ。君は僕より遥かに意志が強いけど、〈魄(きみ)〉は〈魂(ぼく)〉には逆らえない。止まって、終わるんだ。僕たちは存在しちゃいけない。僕たちが生きていたことは……誤りだった。寂紅は……その、せいで……」
 ――だァまァれェよォ!!
 猛る。吠える。絶叫する。肉体を動かそうとする。
 だが、あぁ、どうしたことか。
 制動がかけられる。他ならぬ己の裡よりの縛鎖が、刃蘭をがんじがらめに拘束している。
「もう終わりだ。彼らの刃にかかって果てよう。それだけが僕らの為すべきことなんだ」
 瞬間、刃蘭はアナロギア相似体の柄に腕をひっかけ、その場から離脱した。〈魂〉との制御権の奪い合いを続けながら、どうにか最小限の動きで状況を仕切りなおせる唯一の方策に出た。
「あぁ、そう来ると思いましたよ、刃蘭どの」
 唐突に、アナロギアが液状化した。
 蒼い奔流と化し、刃蘭から離れてゆく。
 その感覚がある。
 刃蘭を見捨てて。
 刃蘭を見放して。
 まったく別の人物へと宿主を変えようとする感覚が。
 喪失感が。

 ●

 刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドは、貴族としては珍しく、他民族に対して差別的な感情を持っていない。
 しかし、差別こそが〈帝国〉の礎であるという魔月の持論には、一定の説得力を感じざるを得なかった。
 重苦しい痛み。
 ゆえに、虚構鎌フォルトゥムに選ばれたことを知ったとき、刈舞は己の資質に対して皮肉めいた自嘲を覚えた。
 [嘘を信じ込ませる]。
 ――それは世界を変えられる力だ、ザーゲイドよ。
 嗤笑を浮かべながら、貴公子は言った。
 ――やはりお前は余の走狗となるさだめをもって生まれてきた男だ。
 嫌悪を反発を、刈舞はこらえた。意味がないからだ。
 現在、虚構鎌フォルトゥムが嘘をついている相手は、たったひとりの餓天法師である。
 刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドもまた餓天法師の一員であるという、虚構。
 一人を騙すだけで終わるはずだった。そして決闘典礼の立会人を務める個体を騙せればそれでよかった。

 だが――現実に起こった事態は刈舞の想像を超えていた。
 
 一回戦第二典礼の折、寂紅を殺した刃蘭のもとに、忘却剣オブリヴィオは来なかった。
 来なければおかしいはずなのに。
 前宿主を殺し、より勇猛なるものとしても証を立てたはずなのに。
 のみならず、刃蘭の肉体は紛れもなくウルクス家の血を引いており、あらゆる意味で忘却剣は刃蘭の手に落ちていなくば辻褄が合わぬはずであるのに。
 そうはならなかった。
 そのとき刃蘭に〈魂〉はなかったから。
 拷問具側に人間として認識されていなかったから。それでも、〈魄〉は喪失した〈魂〉の機能をほぼ完璧に再現し、アナロギアの認識を騙してきたが――今この瞬間、無視しえぬ齟齬が発生した。
 那濫・ウルクスという〈魂〉の復活。
 正しき主の帰還。
 碩学の青瓢箪であったその〈魂〉は、どう贔屓目に見ても戦士として望ましい資質の持ち主とは言えず、アナロギアを繋ぎ止める引力がほとんどなくなってしまった。
 だが、それだけならばまだアナロギアの叛意を促すには足りない。
 ひとたび腰の落ち着け先を定めた拷問具は、義理堅い。宿主が殺されでもしない限り、その肉体から出てゆくことは、基本的には、ない。
 それこそ「目の前に今の宿主よりも勇猛な戦士が現れた」程度では何も起こらないのだ。
 だが――ひとつ例外が存在する。
 そも、拷問具はどうやって人間を認識しているのか。いかなる存在を人間と定義しているのか。
 人体の解剖は〈帝国〉において特段の禁忌ではなく、当然ながら脳髄の構造も子細に調べ上げられている。
 刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドはそれらの記録にも通暁しており、ひとつの興味深い事実を得ていた。
 ――〈魂〉の宿る部位が、存在していないのである。
 おおかたの〈帝国〉人の想像とは異なっていたのだ。
 脳髄のどこかに、すべての肉体感覚を受容し、あらゆる欲望の源となる「根源的主観」とでも呼ぶべき部位が存在し、それが人間の肉体を操縦しているのだと考えられてきたが――そうではなかったのだ。
 肉体から伸びる神経は、脳のそれぞれ異なる部位に接続されている。人間の頭脳は、複数のまったく異なる役割の部品が集まって構成されており、そのどれひとつとして「根源的主観」と呼ぶべき箇所はなかったのだ。
 で、あるならば――
 神聖八鱗拷問具(アルマ・メディオクリタス)は、人間をどのような存在として認識しているのか。
 〈魂〉の座が存在しないにもかかわらず、かの神器はいかにして「人間」と「それ以外の物体」を区別しているのか。
 少なくとも、人間以外の生物に宿ったという記録は一つたりとも存在しない。
 であるならば、何かの基準をもって区別は行っているはずなのだ。
 ――意識とは何か。〈魂〉とは何か。
 立場上、禁忌の知識に触れる機会も多かった刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドは、頭蓋骨を穿孔して脳の一部を切除するという奇妙な罪人の残した書簡や、背教賢者の狂気に至った極限の思索の記録などから、ひとつの仮説を立てた。
 意識とは、「物」ではなく「状態」のことなのではないか。
 機能の異なる複数の部位が、相互に関わり合う、その「動的な状態」こそが〈魂〉なのではないか。
 もし、そうなのだとしたら。
 拷問具の人間判定を、誤認させることが可能なのではないか。
 ――この世でただ一人、刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドだけは、それができた。

 餓天法師の挙動からも推察できることだが、彼らは個にして群、群にして個の存在だ。餓天宗に「組織構造」などというものは存在しない。すべての個体が同価値・同位階であり、各々が得た情報は何らかの超越的な原理によって時間差なしで共有される。
 餓天法師の全個体から、あたかも自分が仲間であるかのような扱いを受けていることに気づいたとき、刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドは自分が[この世で最大最強の武力を持つ個人]と化したことを悟った。
 これまで、虚構鎌フォルトゥムに選ばれし者が、餓天法師にそのような狼藉を働くことなどなかった。皆、迷信と迷妄の中にあったから。信仰を疑うことなどなく、餓天法師に対してなにがしか干渉を行って己の利益としようなどという発想自体がなかった。
 ゆえに、最初にして最後。
 冒涜者、刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドは指令を飛ばす。
 固く、念じる。
 蛇の人形どもに、己の意を伝える。
 だが、なんでも意のままというわけにはいかない。まず聖三約を徹底的に順守している刃蘭を直接殺せと言う指示は決して受け付けられない。しかし、異端者や背教者の抹殺や、施療、助産、労奴たちの監督など、日常的な業務の手が空いている個体に、教理と矛盾しない範囲で行動を命ずることは可能だ。
 そして――「行動」とは、外から見える物理的な所作に留まらない。
 極めて単純な〈魂〉を持つ餓天法師は、その精神の在りようを、普通の人間では考えられぬほど純粋に特化させられる。
 すでに何かが描かれている画板よりも、まっさらな白紙の方が、より自由にこれから描く絵を決められるように。
 そもそも司法剣死官刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドに付き従う派遣執行官の集団――などというものは最初から存在しない。刈舞の身分は、今となってはただの囚人だ。このような自殺同然の任務に付き合ってくれる部下などいなかった。
 だから、作った。必要だったから、でもあるが、感傷も絡んではいた。自らと立場を同じくする仲間が欲しかったから。
 だけどもう、そのような欺瞞はやめにしよう。派遣執行官に扮していた餓天法師たちの脳裏を、本来の白紙に戻し――そして次なる指令を与えた。

 脳を構成する各部位それぞれの機能を、単一の個体が脳全体でもって代行し、もって頭蓋の外に「疑似的な人間」を発生させる。

 そこには数人の餓天法師が立っているようにしか見えないであろう。
 しかしてその本質は、刈舞という〈魂〉の座を制御中枢とし、相互に関連し合いながら独自の意識を有するに至った巨大なる人間存在であった。
 そのような冒涜にして暴挙を――しかし刈舞は単に「敵から武器を奪い去るための手段」としてのみ活用した。
 餓天法師たちが、刃蘭・アイオリアを囲んでいる。
 疑似的に存在している人間存在は、その脳髄の内側に刃蘭を収めている。
 このとき拷問具はどう判断するか。「物」ではなく「状態」を人間と見なす神器は。
 前後の脈絡など一切斟酌せず、ただあらかじめ定められた基準をもって刃蘭を「脳内の一部位」と断じた。疑似的に存在する人間存在こそが自分の選んだますらおであると判断した。神聖八鱗拷問具(アルマ・メディオクリタス)に、今このような状況は想定されていなかったから。
 ゆえに――人間の基準では誰がどう見ても不条理な宿主の乗り換えが、ここに成った。
「テ、メェ……刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドォ……!」
「あぁ、ご安心を。聖三約に殉じているあなたはいかなる場合でも餓天法師らの浄滅対象外ですし、私も手を出せばただでは済まないでしょう。あなたを倒すのは、狼淵どのだけです」
 血まみれの、脇腹から臓物を溢した、瀕死の男がそこにはいた。
 刈舞は、一歩二歩と下がる。自分はあくまで傍観者。手助けはここまでだ。
 ――後は、お任せしますよ。次代の王器よ。

 ●

 狼淵は。
 二振りの白き神剣を携え、ゆるやかに呼吸していた。
 仇を討つ。そう考えたこともあったが、今はもう憎しみで動くつもりはなかった。
「――どうしたい?」
 厳かに、狼淵は問うた。
「あァ?」
「あんたは、どうしたいんだ?」
「テメェらを殺す。今すぐ殺す」
「おめーじゃなくてさ」
「ア?」
 狼淵は、一歩、前に乗り出す。霊威を込めて、睨みつける。
 目の前の男を。
「[あんた]に聞いてんだよ、那濫・ウルクス」
 びくり、と刃蘭の体が震えた。
「おれは、あんたを、赦すよ。ぜんぶぜんぶ、赦すよ」
 噛んで含めるように、言う。
「だから、ほんとうのところを聞かせてくれよ」
「ァ……」
 そして。
 青年の頬を、伝うものがあった。
「……ァあ……う、ぅう……」
 表情筋のひとすじひとすじが、支離滅裂に収縮している。
 だが。それでも。
「……ころ、ひ、て……」
 彼は、そう言った。
「わかった。それだけがあんたの救いだってんなら。寂紅んトコに、送ってやるよ。おれが、必ず」
 噛みしめるように、そう答える。

 ●

 刃蘭・アイオリアは。
 [そのとき]が来たことを理解した。今まで、まるで意味がわからなかったが、今ならようやく理解できた。

 ――余は、狼淵・ザラガに死んでもらわなければならぬ。

 魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアスは、酒杯を傾けながらそう言っていた。
 かつて、魔月の冷徹な正義の信念に共感し、協力関係を結んだ時の記憶。

 ――は? なんで?
 ――奴では八鱗覇濤を勝ち抜けぬ。その〈魂〉の王器は見所があるが、〈魄〉は至極凡庸だ。とうてい今次を勝ち抜けるようなますらおではない。
 ――じゃブッ殺していいわけ?
 ――あぁ。だが言うほど容易ではないぞ。狼淵自身はともかく、刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドがあの少年に肩入れしている。奴は狼淵自身が八鱗覇濤を勝ち抜くなどという噴飯物の絵空事にしがみついておる。ゆえに、その勝利のためにどのような盤外戦術を駆使してくるか知れたものではない。
 ――ま、オレっちもね、相手を侮ることだけはやっちゃいかんとは思ってるわけよ、これでもね。
 ――では策を授けよう。確定で一度だけ、狼淵・ザラガから冷静さを完全に奪い去ることができる。
 ――へぇ、おもろそうじゃん。どんな秘策?

 策を聞いた瞬間、刃蘭は思わず嘲笑った。にわかには信じることができなかった。[そんなこと]で平静を失い、判断力を減衰させるなど。
 その心理の機序がまるで理解できなかったから。
 だが、ことここに至って、躊躇はなかった。不敗の霊将の慧眼を、刃蘭は軽く見るつもりは毛頭ない。

 ●

 だから狼淵は、刃蘭・アイオリアが自らの頸を締め始めたとき、とっさに動くことができなかった。
 何が起こったのかわからなかったから。
 奴が何をしているのかわからなかったから。
 血塗れの顔が、徐々に血色を失ってゆく。死人のごとき、鬱血した紫へと。
 刃蘭は、その膂力の限りをもって、自らの頸を締め付けていた。
 その口の端に、嘲笑を乗せながら。
 [自分の命を]、[絶とうとしていた]。
「……ァ……」
 なにか意味のある単語を絞り出そうと、狼淵は必死に喉を震わせた。うめき声の切れ端しか出てこなかった。
 漠然とした焦燥感があった。
 何か、致命的な事態が起こっていると、本能的に確信した。
「……や……」
 思い出せ。
 自分が、今何のために戦っているのかを。
 考えろ。
 刃蘭にやられて、一番嫌なことは何か。
「……やめろォォォ!!」
 駆け出す。
 矢も楯もたまらず。
 策もなく。
 思慮もなく。
 ――だってそうだろう。
 寂紅の〈魂〉が虚無に散逸しようとしているのだから。
 それを取り戻すために、戦ってきたのに。
「狼淵どの、お待ちあれ!」
 静止する刈舞の叫びも、今は届かない。

 そうして、王器を宿せし少年は、致命的な失策を演じた。

 [殺せばよかったのだ]。
 駆け寄って、即座に。
 それで何の問題もなかった。寂紅の〈魂〉を回収するという大目的は、それで果たせるはずだった。典礼にも勝利し、大団円をもって二回戦を終えられたはずだった。相手はもはや相似斧を失い、いつ死んでもおかしくない重傷者だ。それは可能なはずだった。
 だが――狼淵は、根本があまりにもまっとうな感性の持ち主だった。
 こちらに襲い掛かってくるでもない、いまにも自殺しようとしている人間を前にして、積極的に危害を加えるという発想が、一秒を争う状況下でとっさには出てこなかった。
 だから、己の首を折れ砕けんばかりに締め付ける刃蘭の腕を掴み、引き剥がそうとした。
「馬鹿野郎がッ!!」
 そう怒鳴りながら、殴りつけようと拳を固め、

 次の瞬間、胸に鈍い衝撃を感じた。
 虚無の冷たさが、体の中心に広がっていった。

 ●

 希望が、潰えた。
 刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドは、貧血で意識が遠のくような感覚を味わった。
 一歩、二歩、力なく歩み、そして膝をつく。
 見たくはなかった、しかし何度も想像した光景が、そこには広がっていた。
 腕、
 が。
 狼淵の背中から生えている。
 血塗れの手には赤黒い塊が握られ、脈打っていた。上下の大静脈、大動脈群、肺動脈、肺静脈が指の間から伸び、狼淵の胴体との別れを惜しんでいた。だが――張力が限界に達し、ブチブチと引き千切れる。
 両者は、静止している。まるで時間が止まったかのように。
 やがて、刃蘭がゆっくりと腕を引き抜く。少年の死骸は、敵手にもたれかかった。
 ――あぁ。
「典礼、かく成就せり! 勝者、刃蘭・アイオリア! ますらおに誉れあれかし!」
 ――やめろ。
「誉れあれかし!」
 ――やめてくれ。
「誉れあれかし!」
 全方位から押し寄せる万雷の喝采に、刈舞は耐えられなかった。
 胸の裡に、冷たい穴が開いたようだ。それが絶望と呼ばれるものであることに、刈舞はしばらく気付けなかった。
「私は……ッ」
 耳を聾する歓声の中、口の中でひとりごちる。
 ――自分を許す方便を探していたのだ。
 かつて取り零した命。その贖罪の名を借りた代償行為として、狼淵・ザラガに肩入れしていたのだと。
 濁った黒い感情が、胸から全身を侵してゆく。
 ぬるい逃避だった。自らの罪業から目を背けたるための。自分は人類の未来のために命を懸けて邁進しているから、だから生きていても良いのだと、自分に言い聞かせるための。
 唾棄すべき甘え。
 だがその言い訳も、今目の前で喪われた。
 あんな、ただの農奴の少年に王器を見出し、八鱗覇濤に優勝させ、新世界の秩序の礎となってもらおうなどと。
 沈着冷静でもって鳴る刈舞らしからぬ、夢見がちな絵空事を本気にしてしまうほどに、自分は罪を背負うことに耐えられなかった。
 ――所詮、人器か。
 状況に振り回されることしかできぬ。破壊も創造もできはしない。
 だが、それでも。
「意地が……」
 顔を上げる。
 無気力と、無意味に萎えかかる足腰を叱咤し、立ち上がる足を踏み込みに変え、
「……あるッ!」
 遵法精神に則り、刃蘭・アイオリアという怪物を生かしたまま投獄したのは大いなる過ちだった。法など秩序の現状維持しかできず、今この時においては障害にしかなりえないとわかっていたはずなのに。
 殺すしかない。たとえそれが無意味であったとしても。
 輝かしい少年に賭けていた。明るい未来がありうると、心から信じることができた。あの時の胸の高鳴りを、決して嘘にしたくない。
 それが、刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドの中にある最後の矜持だったから。
「〈勤勉〉の八鱗よ――!」
 掌から翠色の液体があふれ出る。ぎゅっと収縮し――

 ――しかし刈舞は、そこで動きを止めた。

 虚構鎌フォルトゥムは、中途半端に鎌の形状を形作りかけの状態で、力を失った。
 あり得ざることが起きていたから。
 刈舞は、自分が見ている光景の意味が分からなかった。
 なぜ。なにが。
 どういう――
「ぅ……うぅ……っく……」
 [なぜ]、
 刃蘭は、狼淵の遺体を抱き留め、肩に手を回し――そして泣いているのか。
 そんなことは決してあり得ない。
 刃蘭・アイオリアに、涙を流すような人間味などあるはずがない。奴が外界で野放図に暴れまわっていた頃、その行動原理を理解するために詳細な犯罪心理分析を行ってきた。ゆえに、刃蘭の逮捕という離れ業も可能だったのだ。
 その結論から言っても、一人の青年の妄想から生じた歪な意識体に涙を流す機能など備わっていない。そういう心理機序が存在しない。
 だからその光景は、完全に刈舞の理解を絶した。
 いや――百歩譲って、本当はそのような人間味が存在していた……などというヌルい結論が事実だったとしても、なぜ、いま、狼淵を抱きしめて、泣くのか。
 その筋道がまるでわからない。
「……おれ……おれ、は……」
 奇妙にあどけない口調。
 [いや]、[そんなはずはない]。[何を馬鹿な]。[そんなことがありうるはずがない]。
「……ちくしょう……ちくしょう……なんだよ……なんなんだよ……ちくしょう……!」
 血塗れの手で、震える手で、少年の骸を抱きしめている。労わるように。しがみつくように。救いを求めるように。

 ●

 [狼淵]・[ザラガ]は。
 だから、冷静に状況を判断できなかった。
 ただ、自らの中に、根源的に刻まれた感情に従った。
 大きな目的のために、小さき者を犠牲にするという理屈への反発。
 すべてはそこから始まっていたから。
 だというのに。
「おれは……おれは……」
 背中を押された気がしたのだ。〈魄〉という器の中で。
 [ここにいてはいけない]、と。
 小さな、ふたつのてのひらに。
 別れの言葉もなく。
「……ただ、カッコつけたかったんだよ……ただそれだけだったんだよ……」
 お前らの前で。
 お前らのために。
 なのに。
 本当のところ、何が起こったのかはわかっている。
 たぶんできる、と確信めいたものまであった。
 だけど、きっと、狼淵はできなかっただろう。それは、狼淵がさんざん唾棄してきた「弱者を犠牲にして得る勝利」だったから。
 ただ、図体がでかくなったこの瞬間、目の前にいる少年が、身を捨ててでも守りたかった小さき者――その象徴であるように思えてならなかった。
「……なんで……なんで……」
 ――ここは、ひとつの巨大な知性の内部である。
 刈舞が、虚構鎌フォルトゥムの権能によって餓天法師らを操作し、〈魂魄〉の部品として相互に作用させた結果生まれた、疑似的な意識体。
 神(ヘビ)に誤認をさせるための仕掛け。
 刃蘭・アイオリアから相似斧アナロギアを剥奪するための策略。
 それが、予想外の作用を見せた。
 神器の付け替えができるのなら、〈魂〉の付け替えもできるのではないかと。
 抜き手で胸を貫かれる究極の逆境を前に、狼淵はしかし躊躇し――そして、背中を押された。
 ――兄ちゃん。
 ――にぃに。
 震えるその声を最後に。無垢なそのてのひらのぬくもりを最期に。
 狼淵は、再び、取りこぼした。
 ただ元々の肉体を――そこに置いてきてしまった弟と妹を想い、幼子のように声を上げ続けた。
「狼淵……どの……なのですか……?」
 餓天法師の一人が、愕然とした声を掛けてくる。手には複雑精緻な装飾の彫り込まれた翡翠色の大鎌。
「おっさん……おれ……おれ……」
 だけどその姿は、滲んで歪んで見えて。
「兄貴でいるってのは……なんでこう難しいのかな……」
 それだけを発し、狼淵の意識は暗黒に飲み込まれていった。
 血を失い過ぎていた。

後書き

未設定


作者:バール
投稿日:2020/07/21 20:32
更新日:2020/07/21 20:32
『鏖都アギュギテムの紅昏』の著作権は、すべて作者 バール様に属します。

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作品ID:2297
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