『無垢の祈り』鑑賞記録#鑑賞記録続きを読む数年前にオールナイトで鑑賞したときはひどく衝撃を受けると同時に、あまりの美しい祈りに感動した。しかし、あまりにも強烈な児童虐待の描写に再び見る選択肢は取れなかった。この選択を後悔していたが、改めて劇場で鑑賞する機会があったため是が非でもと足を運んだ。まずタイトルが出る場面が美しい。胸がざわつく。湿った土とコンクリート、鉄、排気ガスの匂いが漂ってきそうだ。不審者に対して抵抗ができない子どもの場面がリアルすぎて吐き気を催しそうになる。しかし、こういった最悪の行為をはっきりと描く監督や製作陣、俳優さんたちの仕事ぶりは真摯であり、決して虐待などを物語として消費するだけではなく現実にある問題としても明確に映し出している。養父の威圧的でクズな振舞いと窮屈で息苦しい家の雰囲気に胸が詰まるのに、この窮屈な居場所のない空間に安堵する自分もいて、児童虐待がテーマの作品を見るのは自傷行為と精神的な治療的な意味合いを求めている節があるのかもしれないとここ数年考えている。(どうしてこうした作品で自分はこう思うのか?という疑問を過去を踏まえて思い出すことで、苦しくも過去への折り合いをつけられるのではないのか?という試行錯誤を繰り返しているような気がします。)具材のないラーメンを食べる描写に、子どものときはお腹が膨れればいいと考えがあったけれど、大人になってからは栄養とか、料理を楽しむといった選択肢がない子どもの様子に苦しくなる。あと家にいるのが嫌で殺人事件の現場をひたすらめぐって、会いたいと書くところが本当に好きだ。原作と違って友人というか、ある程度話せるお姉さんもいるけれど、児童虐待に立ち向かえる心強い味方ではない現実的な問題も気に入っている。骨なしチキンのあだなは原作者っぽいな...と思ううえ、殺人現場の描き方とかが原作並みに凄まじい。そんなにグロテスクな雰囲気を押し出しているわけでもないのに、音と場面の切り取り方や、俳優さんの雰囲気に映画を見ていても背後を気にしてしまう。最後にいたるまでのこの世の地獄みたいな描写と、母親に指を切られそうになってようやく声を上げるフミの抵抗と母親が助けてくれるかもしれない最後の希望が断ち切られた瞬間の絶望は、この世にある言葉では語りつくせないために、こうやって作品表現を利用し物語を介する必要があるのだろうと考えてしまう。最後の「殺してください」で泣いてしまった。人間を絶望に突き落としてすべての希望を絶って生み出される希望は私にとってこの世で最も美しい希望と映り、最も共感できるらしいとやはり気がついた。初めて私が絶望に対して「救い」「希望」を求めていると気がついたときは、初めて『無垢の祈り』を鑑賞した日だったと思い出す。これ以上絶望しようのない絶望の中で、今を生きるためだけに生み出された祈りは真摯で、無垢で、ある意味人間らしく、美しい。世の中の善悪、社会といった枠組みから外れた歪んだ美しいという概念であるものの、私の中では美しいものであることに変わりない。考察めいたことをしてみるけれど、確かなことは時系列が意図的にばらばらにされているくらいか?あとは鑑賞者の解釈次第な気もしている。私としては・序盤のフミが眼帯をしていることから映画の最後から後のフミ・しかし、頭のガーゼには血が滲んでいないため「頭のガーゼを外したところからフミの回想が始まっている」起点・途中にフミが見かける小屋の女性、未来らしい報道での死刑囚の死刑執行は、フミが最後に骨なしチキンには殺されずに生きていた映画後に続く未来の象徴(女性の服には番号がついているため、刑務所などで管理下に置かれている? 骨なしチキンと殺人を行っていたのかもしれない? 女性は自ら首に紐をかけているため骨なしチキンの死刑後に後追い自殺?)くらいの想像をしている。答えはないが、フミが最後に焦がれていた殺人鬼という希望に出会い、どういった形であれ希望が叶ったことは確かである。それだけで私としては十分であるため、これ以上の無粋な想像はやめておく。畳む 鑑賞記録 2023/05/24(Wed) 12:55:31
#鑑賞記録
数年前にオールナイトで鑑賞したときはひどく衝撃を受けると同時に、あまりの美しい祈りに感動した。
しかし、あまりにも強烈な児童虐待の描写に再び見る選択肢は取れなかった。
この選択を後悔していたが、改めて劇場で鑑賞する機会があったため是が非でもと足を運んだ。
まずタイトルが出る場面が美しい。胸がざわつく。湿った土とコンクリート、鉄、排気ガスの匂いが漂ってきそうだ。
不審者に対して抵抗ができない子どもの場面がリアルすぎて吐き気を催しそうになる。しかし、こういった最悪の行為をはっきりと描く監督や製作陣、俳優さんたちの仕事ぶりは真摯であり、決して虐待などを物語として消費するだけではなく現実にある問題としても明確に映し出している。
養父の威圧的でクズな振舞いと窮屈で息苦しい家の雰囲気に胸が詰まるのに、この窮屈な居場所のない空間に安堵する自分もいて、児童虐待がテーマの作品を見るのは自傷行為と精神的な治療的な意味合いを求めている節があるのかもしれないとここ数年考えている。
(どうしてこうした作品で自分はこう思うのか?という疑問を過去を踏まえて思い出すことで、苦しくも過去への折り合いをつけられるのではないのか?という試行錯誤を繰り返しているような気がします。)
具材のないラーメンを食べる描写に、子どものときはお腹が膨れればいいと考えがあったけれど、大人になってからは栄養とか、料理を楽しむといった選択肢がない子どもの様子に苦しくなる。
あと家にいるのが嫌で殺人事件の現場をひたすらめぐって、会いたいと書くところが本当に好きだ。原作と違って友人というか、ある程度話せるお姉さんもいるけれど、児童虐待に立ち向かえる心強い味方ではない現実的な問題も気に入っている。
骨なしチキンのあだなは原作者っぽいな...と思ううえ、殺人現場の描き方とかが原作並みに凄まじい。
そんなにグロテスクな雰囲気を押し出しているわけでもないのに、音と場面の切り取り方や、俳優さんの雰囲気に映画を見ていても背後を気にしてしまう。
最後にいたるまでのこの世の地獄みたいな描写と、母親に指を切られそうになってようやく声を上げるフミの抵抗と母親が助けてくれるかもしれない最後の希望が断ち切られた瞬間の絶望は、この世にある言葉では語りつくせないために、こうやって作品表現を利用し物語を介する必要があるのだろうと考えてしまう。
最後の「殺してください」で泣いてしまった。
人間を絶望に突き落としてすべての希望を絶って生み出される希望は私にとってこの世で最も美しい希望と映り、最も共感できるらしいとやはり気がついた。
初めて私が絶望に対して「救い」「希望」を求めていると気がついたときは、初めて『無垢の祈り』を鑑賞した日だったと思い出す。
これ以上絶望しようのない絶望の中で、今を生きるためだけに生み出された祈りは真摯で、無垢で、ある意味人間らしく、美しい。世の中の善悪、社会といった枠組みから外れた歪んだ美しいという概念であるものの、私の中では美しいものであることに変わりない。
考察めいたことをしてみるけれど、確かなことは時系列が意図的にばらばらにされているくらいか?
あとは鑑賞者の解釈次第な気もしている。
私としては
・序盤のフミが眼帯をしていることから映画の最後から後のフミ
・しかし、頭のガーゼには血が滲んでいないため「頭のガーゼを外したところからフミの回想が始まっている」起点
・途中にフミが見かける小屋の女性、未来らしい報道での死刑囚の死刑執行は、フミが最後に骨なしチキンには殺されずに生きていた映画後に続く未来の象徴(女性の服には番号がついているため、刑務所などで管理下に置かれている? 骨なしチキンと殺人を行っていたのかもしれない? 女性は自ら首に紐をかけているため骨なしチキンの死刑後に後追い自殺?)
くらいの想像をしている。
答えはないが、フミが最後に焦がれていた殺人鬼という希望に出会い、どういった形であれ希望が叶ったことは確かである。
それだけで私としては十分であるため、これ以上の無粋な想像はやめておく。
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