蜜雨

其之五十二

※誰得か謎なヤジロベー話。悟空名前のみ登場



 ここは以前悟空とが修行した熱帯雨林――リップスの巣窟だ。
 先日開催された天下一武道会で悟空にを奪われたくない一心でつい告白してしまった上に、余計なことを口走ったヤジロベーはの怒りが静まるまでこの森に身を隠すことにしていた。ヤジロベーはを怒らせると、ほとぼりが冷めるまでこの森に篭ることが多かった。のお気に入りの本に味噌汁をこぼした時や、楽しみにしていたおやつを食べてしまった時――存外くだらないことでを怒らせては逃げるようにこの森に入っていた。昔からは怒るとおそろしいのだが、時間を置けば頭が冷えて許してくれると長年の付き合いで知っているからこそ、ヤジロベーは今回も同様の手段を取った。この森ならば、たとえ自分の居場所がバレても近づけないはずだ。

「残念。考えが甘いよ、ヤジロベー」

 ぺん、と軽く後頭部を叩いたつもりが完全に油断していたヤジロベーとが力加減を誤った所為で、ヤジロベーは思いっきり地面に頭を打ちつけた。これには叩いた本人もびっくりである。幸い地面がやわらかいのと、ヤジロベーの常人離れした頑丈さでは頭をかち割らずに済んだ。

「おめえちったあ自分の力考えろよ!! 死ぬとこだったでねーか!!」
「あ、はは……軽く叩いたつもりだったんだけど」

 ヤジロベーはが怒っていることも忘れてすぐさま起き上がり、つばを飛ばす勢いで喰ってかかる。そんな様子に苦笑をもらすだが、一歩間違えれば冗談では済まされない事態になるところであった。

「って……おめえなんでこんなところに?!!」

 の胸倉を掴んでいたヤジロベーがはたと気がついた。トラウマだらけのこの森に足を踏み入れることすらできないはずなのに、は今ヤジロベーの目の前にいる。はよくぞ聞いてくれたとばかりにニヤリと口角を上げた。

「リップスはずいぶん前に克服したんだよ」

 この森で悟空と修行するもっと前に、は沙門とヤジロベーとともにここで修行をしたことがあった。ころころ変わる気温と気候、凶暴な原生生物に常に襲われる環境に順応して生き抜いていく修行でトラウマが植え付けられたのだ。そもそもはじめからはリップスがあれほどまでに苦手ではなかった。しかし当時から男装をしていたは無駄に顔が良かった為にリップス(♀)の大群に求愛され、あの唇にもみくちゃにされたのだ。一匹ならまだしも大量のリップスに襲われ、なんなら頭ごとあの唇に呑み込まれては別のリップスに呑み込まれ続けたことで、夢でうなされるまでの恐怖を刻まれてしまった。師匠とヤジロベーはこれも試練だとギリギリまで助けなかったことを、は今でも根に持っている。

「まあ、悟空に助けてもらってだけどね」

 はヤジロベーの向かいに座りながら付け足した。が悟空と言葉に出すたびにどろどろとどす黒い嫉妬心に苛まれる。しかしそれもがふっと力を緩めて笑うだけでヤジロベーの醜い心が消えるのだから、先に惚れたモン負けとはよく言ったのものだ。

「……マジであいつと結婚するのか?」

 ヤジロベーは地面を見つめてぽつりと呟いた。

「……うん。ヤジロベーの気持ちには応えられないけど、それでもヤジロベーのことは大切な家族だと思ってる……だから、ヤジロベーには結婚式に出てほしいんだ」

 残酷なことを伝えているのはも自覚している。つい先日自分を好きだと言ってくれた男に、ほかの男と結婚する式に呼ぶなんて嫌がらせでしかない。それでもはせっかく結婚式を挙げるのなら、ヤジロベーには出席してほしかった。この世でが家族と呼べる存在はヤジロベーしか残っていないからだ。血の繋がりがなくとも、沙門とヤジロベーはにとって間違いなく掛け替えのない家族なのだ。

「ったく……おめえは昔から勝手な奴だよ」

 山の麓の村の奴ら(主にに惚れていたいたが、負けてプライドをズタボロにされた男ども)に言われたことを気にするし(ブルマの予想通り)、長く美しい髪をなんの躊躇いもなく天叢雲でバッサリと斬るし、果てには男装をし始めるし、本当に人の気持ちを知らずに好き勝手しやがる。だが、そんなを勝手に好きになってしまった自分も自分である。

「ふふっ……私はあんたのへんに義理堅いところ嫌いじゃないよ」

 一度は師匠になぜヤジロベーを弟子にしたのか訊いたことがあった。真面目な師匠といい加減なヤジロベーはどう考えてもウマが合わない。それなのに弟子にしたのにはなにか理由があるのかと単純に疑問に思ったのだ。そして師匠はその疑問に案外あっさりと答えてくれた。ヤジロベーが死んでも生きてやるという強い生命力に満ちた目をしていたから自分の持てる生きる術を教えた――そしてヤジロベーはヤジロベーなりに師匠に恩義を感じていたのだと、つい最近になっては気づいた。師匠の墓前で結婚報告をした時、しばらく訪れていなかったにもかかわらずお墓は綺麗に掃除されて花まで添えてあった。あの場所を知っている人間なんてヤジロベー以外思い当たらなかったは、せっせと師匠のお墓の手入れをするヤジロベーの姿を想像して笑ってしまったのだった。

「言っとくが、オレはぜってえおめでとうなんか言わねーかんな」
「わかってるよ」

 ヤジロベーが素直じゃないってことくらい。






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