蜜雨

「「ぅげ……ッ!」」

 浮遊感から解放されると、は重力に従って急降下した。そうして辿り着いた先にいた者へ激突すると、互いに情けない呻き声があがる。

「すっすみません! だいじょうぶですか?!」
「あいたたたた……はい、なんとか……」

 デスクに堆く積み上げられていた書類や本はが突然落ちてきたことにより床に散乱し、その上を踏み荒らすように両者とも倒れていた。なんとか自力で起き上がって体勢を整え、顔を見合わせる。

「「え……? わた、し……?」」

 今度は悟空のそっくりさんならぬ、自分のそっくりさんと出会ってしまった。
 顔や声のみならず思考まで一緒なのか、によく似ている目の前の人物もまったく同じセリフを呟いている。もっと他の情報を得ようと周囲へ視線だけを動かせば、ここは西の都でが使っているラボに似ていた。というよりも、そのものだ。そしてもうひとつの目に留まった。床に散らばったおかげで少々片付いたデスクの上に飾られている何枚かの写真だ。

「ごく、う……ご、はん……」

 悟空や悟飯、そしてを写した写真の数々は、自分のラボのデスクに置いてあるものとまったく同じであった。だが、よく見ればが知らない写真も紛れている。と大人になった悟飯、そしてブルマと見覚えのない端正な顔立ちをした青年が並んでいる写真だ。

「これは……うわっ!!!」

 落ち着いて考える間もなく、はまだ上空に残存していた次元の裂け目へと引っ張られていった。そのまま嵐のように去るを、もうひとりのは呆然と眺めるしかない。やがて静かになると、荒れ果てた書類の海から見覚えのない一冊のノートが見つかった。

さんッ!! こっちですごい音がしましたが、無事ですか?!!」

 勢いよく部屋へと入ってきた青年――さっきまでが見ていた写真に写っていた青年が、のそっくりさんをこれまたと呼ぶ。果たしてこれはどういうことだろうか。

「ねえ、トランクス……並行世界って信じる?」

 トランクスという名らしい青年が慌てているにもかかわらず、彼女は次元の裂け目へ呑み込まれたが落としたであろうノートから顔を上げ、真面目な表情で口を開く。

「は?」

 天上の高いラボに、やけにトランクスの声が響いた。



其之六十五




「あまーーーい!!!」

 界王は向かってくる悟空へ突きを繰り出す。狭い界王星を軽く一周してしまうほどの勢いでふっ飛ばされた悟空の上に、空からなにかが降ってきた。その正体不明のなにかが、さらに追い打ちをかけるように悟空を押しつぶす。

「うぎゃ!!」
「あいたたたた……次から次へとなんなわけ……?!」

 悟空の背中に居座ってしまっているとは知らず、彼女はのんきに自分の尻を擦っていた。最近尻を打つことが多すぎて、そろそろよっつにでも割れるのではないかと心配しているが、安心してほしい。彼女の尻は岩をも砕く頑丈さだ。そう、そんな稀有な尻の持ち主とは――

ッッ?!!」

 ずっと聴きたいと望んでも聴けなかった愛しい妻の声を、誰が聞き逃すというのだ。
 悟空は思わず跳ね起きた。

「っふぐぅ?!!」

 当然悟空の背に乗っていたはひっくり返る羽目となり、またもおおよそヒロインが出すような声ではない呻き声が吐き出されて地面へと沈んだ。だが、の手が掴まれたと思ったら、すぐにふっと救いだされた。もちろん、最愛の夫によって。

……!」

 決して忘れることのなかった悟空のぬくもりに包まれる。
 自分の名すら愛おしいと思える声、抱きしめられた腕のやさしい力強さ、安心する体温とにおい。
 絶対に誰にも渡さない、何者にも奪わせない――そんな悟空の決意が伝わってくるほどのきつい抱擁に心身焦がされる。

「悟空……!」

 やっと、やっと逢えた。
 時の最果てに飛ばされ、惑星プラントで過ごしている間、ここではどれくらいの時間が流れたのだろう。悟空に逢えない時間が永遠にも感じたからこそ、今この瞬間、時が止まればいいと思った。この時間こそ、永遠に続けばいい。



 自然と雫がこぼれるへ、悟空は愛を補うように口づけを落とす。溢れ出る激しい愛おしさに身を委ね、互いの存在を確かめ合うように何度も何度も唇を重ね合った。

「あまぁい……」

 掌で目元を覆いつつも、しばらくふたりの情熱的なラブシーンを指の隙間から覗いていた界王がぽつりと呟いた。青い肌でわかりにくいが、心なしか頬が紅潮している。

「……え?」

 その界王の声で、やっと気配に気がついたと界王の目が合う。

「……ほあーーーッッ!?!?」
「いぃ?!!」

 ばちーん!!
 拳でなかったのがせめてもの優しさだろうか。それでものビンタは強烈で、悟空は地面と深めにキスをしていた。
 なんだかんだ結局こうなる夫婦なのであった。



「界王さま、紹介すんな! オラの嫁のだ!」
「先ほどはその……大変お恥ずかしいところをお見せしてしまい、申し訳ありません……!」

 頬に真っ赤な紅葉を携えながらも朗らかに笑う悟空とは対照的に、は折り目正しく頭を垂れる。

「そんな恥ずかしがることねえのによお……」
「ちょっと悟空は黙ってて! あの、界王さま――」

 不満げな面持ちの悟空を窘めつつ、さらに謝罪を述べようとするが、その前に界王が先に開口した。

「うーむ……こんなとぼけたやつに嫁がいたとは読めなかったのう……」
「へ」

 難しい顔をしてうんうん唸る界王の発言に悟空はポカンと呆けるしかない。

「ぷ!」

 がふき出すことで、一瞬流れた静寂が破られた。

「あはははは! だめ、こんなときにわらっちゃいけないのに、そう思えば思うほど……あはははは!!」
「おお! おまえの嫁はユーモアのわかるやつだな! どれ、孫悟空よ、これまでの修行の成果を見せてやるのだ!」
「い?! 修行の成果ったって……バブルスをつかまえたぐらいで、オラまだなにも……」
「なにを言う! ここに来たばかりのころを思い出せ! あのときと同レベルのギャグを披露せんと、修行してやらんぞ!」
「そ、そりゃねえよ界王さま……」

 腹を抱えて思い切り笑いだすに気をよくした界王は、悟空へ無茶振りを投下する。自分のせいで夫が困っているだなんて気にする余裕もないくらい、は笑い続けていた。悟空は長年と一緒にいて、彼女のことをだれよりも知っているつもりでいたが、こんな笑い上戸だとは知らなかった。それもそうだ。こんなうすら寒いギャグ、だれが言うのだ。しかし今現在悟空はそのうすら寒いギャグを強要されている。これはサイヤ人が襲来するよりも、もしかしたらおそろしい事態に直面しているのかもしれない。

「ほれほれ! 早くせんか!」
「う~~ん、う~~ん……」

 界王に急かされ、腕組みして頭を悩ませる悟空。こんなことをしている場合でないことは、この場にいる全員がわかっているはずなのに、なぜこんなことになったのだろうか。それはツッコミ不在が生んだ悲劇である。

「こ、この焼肉は……焼きにくい!!!」

 悟空が意を決して声高に言い放つと、またも静寂が訪れた。

「ぷふっ! あはははは! ちょ、やっとおさまってきたのに……またっ、あはははは!!」
「ぷぷーーー! くっ……くひひひひ……!!」

 そしてその静寂を破ったのもまたであった。界王までも大きくふき出している。そろって爆笑しているものだから、悟空の口角もつられてひくひくと動いた。

「は、ははは……」

 この世の終わりのような空気に、ふだんはボケボケな悟空も乾いた笑いを漏らすしかなかった。



*




 界王星に生えている数少ない木に背を預け、手をつなぎ合って座り込む悟空と。修行のおかげか、より筋肉質になった悟空の肩に頭を凭れ、少しでもさみしさを埋めるように頬をすり寄せた。その可愛らしい仕草に堪らず、自分よりも小さな彼女の手を一層強く握る。そのまま不安に身を強張らせるを膝の上に乗せて密着すると、ちょうど悟空の心音が彼女の耳に届く。死んだとはいえ生身のまま修行をしているので、頭の輪っか以外はいつもの悟空となんら変わりないのだ。されどの中の罪悪感は消えない。

「……悟空、あのね……」


 おずおずと口を開いたが次の言葉を紡ぐ前に悟空が名を呼んだ。まるでがなにを言おうとしているのかわかっているかのような低く落ち着いた声である。それでもは言わずにはいられなかった。

「ごめんなさい……」

 自分の不甲斐なさや弱さ、悟飯を置き去りにして突然消えてしまったこと、悟空を死なせてしまったこと。懺悔するように、自らを責め立てるように吐き出していく。断じてすべての出来事がのせいで引き起こされたわけではない。むしろ悟空自身の出生が大きな要因の一つであるというのに、それにはまるで触れず、さも自分が悪いのだと罪をひとり被ってしまっていた。なんでもかんでも背負い過ぎるところがの悪い癖だ。だからこそ悟空は昔からそんなを放っておけなかった。

「それに、本当は私……「……ぜんぶわかってっから」

 悟空は閻魔大王からの生まれや時の最果てのことを聞いていた。だが、悟空にとってはどれも瑣末な内容だった。

だろ?」

 その事実が変わらないのなら、この男はなんだっていいのだ。
 ニカッと歯を見せて子どものように笑う顔は、かつて自分は女だと告げたときとなんら変わらない。

こそサイヤ人のオラがイヤじゃ「イヤなわけない!! だって悟空は悟空だもっ……あ」

 の言葉に悟空の笑みがさらに深くなった。

「ほらな、もオラもおんなじだ。のままそばにいてくれればいいんだ」

 天界にいたときも、武舞台でのプロポーズのときも、ずっとずっと悟空は同じ言葉を変わらずにへ注いでくれる。純粋に、実直に。
 時の最果てでの母の言葉を思い出していた。悟空がサイヤ人だとしても、となりにいたいと思うのかという問い掛け――にしてみれば、そんなの考える必要すらない。

「ん……私も悟空のとなりにいたい」

 溢れる愛情が留まることを知らず、再び涙がこぼれそうになる。こんなにも己の心を揺さぶられる存在は、後にも先にもきっと悟空だけだ。

「やっぱりは笑ってんのがいちばんだ」

 必死に笑顔になろうとするを手伝ってやろうと軽く頬を左右に引っ張ってやると、一気に泣いてんだか笑ってんだかわからない変な顔になった。

「ははっ、かわいいな!」
「ほふう! ふぁかにひてない?!」

 悟空、ばかにしてない、とは憤っているが、まともに口を動かせないがために、なんとも間の抜けた怒りになってしまっていた。

、帰ってきてくれてありがとな……愛してる」

 頬を掌で包み込み、やわらかく甘いキスを落とす。
 今の今まで悟空だって不安がまったくないわけではなかった。修行に打ち込むことでのことを考えないようにしていただけだ。

『悟空、愛してるよ』

 悟空の耳に残るの悲痛な叫び。これが悟空が聞いたの最後の言葉であった。閻魔大王曰く、力のコントロールがうまくできれば時の最果てから帰ってこれるらしいが、それがいつになるかは皆目見当もつかないと伝えられていたのだ。さりとて帰ってこれる可能性があるなら、必ずやならば帰ってくると信じていた。そして今、悟空の腕の中にはがいる。それだけでよかった。



*




 都会の明かりも届かぬ荒野は、日が沈むとすぐに逃げ場のない漆黒に覆われる。ピッコロが月を破壊して以来、この荒野を照らすのは星の輝きのみとなってしまった。しかしその輝きは頼りなく、はじめはこわかったものだが、自然と一体化し気を読む力が身についてきた悟飯はいつの間にか闇夜をおそれなくなっていた。

 今日も遅くまで修行をしたせいでへとへとに疲れた悟飯は泥のように眠っている。修行はじめたての頃はフロだのベッドなどと弱音を吐いていたが、今ではピッコロ直々に手ほどきをするくらいすっかりたくましく育った。

「ぉ、かぁ……さ……」

 わずかに雑草が生える乾いた地に転がって寝る悟飯が寝言を漏らす。こうして悟飯は時々消えた母を想って眠りながら静かに泣くことがあった。半年の修行で泣き虫はある程度克服しており、甘ったれのくそガキとピッコロに揶揄されていた時期と比べると見違えるほど成長した悟飯であったが、まだまだ母を恋しく想う幼子だ。それでもなんとか踏ん張っているのはが最後に残した言葉のおかげであった。

『ごめんね悟飯……悟空を頼んだよ……だいすき』

 いつも強くて頼れる母がはじめて悟飯に弱さを見せ、頼ってきたのだ。本当は両親が自分の目の前からいなくなってしまったことが悲しくて仕方がない。だが悲しさに呑まれそうになるたびに、悟飯はの言葉を思い出して自身を奮い立たせる。その母の後押しがなければ、きっとラディッツ相手に頭突きなどできなかったであろう。

 悟飯は夢を見ていた。
 不思議な空間にぽっかりと浮かぶ小さな惑星の木の下で、悟空の膝の上に座るの膝に乗せられた悟飯は両親のぬくもりに包まれる。父親の確かな熱と、母親のやさしい匂い。ほんの数か月前までは、当たり前にあったしあわせに泣き出してしまいそうになる。

「悟飯、心やさしいあなたにこんなつらい思いさせて本当にごめんね」
「悟飯! それでもおめえはオラとの子だ、強くなれ!」

 傷を労わるような母の言葉に、気合を入れる父。掛けられる言葉はまったくもって違うが、それでこそ悟飯が大好きな両親だ。

「私たちも強くなってあなたを迎えにいくから」
「だからお互いがんばろうな!」

 と悟空にぎゅうと力強く抱き締められると、悟飯もまた両親の胸へと飛び込んでぎゅうと抱き締め返した。みるみる両親の愛情に満たされてゆく。
 思わずつむったまぶたをふいに上げれば、朝日が昇る様が悟飯の視界いっぱいに広がった。

「ゆ、め……?」

 寝ぼけ眼を擦りながら起き上がる。夢にしてはやけに鮮明だった。まるで寝ている間に、直接両親の元へ訪れたみたいなのだ。その証拠に、溜まっていた疲労ばかりでなく、小さなケガまですっかり治っている。こんな芸当ができる人物など、母親である以外知らない。

「おい、起きたのならさっさと修行をはじめるぞ」

 朝日を見つめながら両親に思いを馳せる悟飯にしびれを切らしたピッコロが口を開く。

「ボク、がんばるよピッコロさん」

 ピッコロに向き直った悟飯の真剣な眼差しはどこか父親に似ていた。
 さあ、来るべき決戦のその時まで修行修行修行だ。






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